一瞬の隙
一瞬の雷光でも十分なほど、玉座に座るキョウリの姿は変わり果てていた。
頭には一本角を生やし、かつての滑らかな白い肌は失われ、硬いガラスのような鱗に覆われている。
腕や顔には、鱗の溝で幾何学的な紋様が描かれ、何よりも、指先から伸びた爪が毒針のような暗紅色の怪しい光を発していた。
「デウロン将軍!」
マトビアが玉座の間の隅を見て声を上げた。
デウロンが壁に寄り掛かって座っている。目を閉じて微動だにせず、床には血濡れた剣が落ちていた。
皇后に忠誠を誓わず、自害したのか……。
激しい雨が天井のガラス窓にあたり、騒々しい音を鳴らす。大きな雷が城に落ち、玉座の背後にある全知全能の神ゼウスのステンドグラスが輝くと、キョウリは玉座から立ち上がった。
「マトビア、こちらに来なさい。あなたは魔人、私たちと同じなのですよ……アルフォスと私と一緒に、平和を築きましょう」
この場に似つかわしくない柔和な笑みを見せ、キョウリは手を差し出した。
その微笑は、俺たちのことを脅威ともなんとも捉えていない、余裕が見受けられた。
「お母様……平和とおっしゃられていますが、この惨状のどこに平和があるというのですか。町は静まり返り、城は怯えた兵士だけ。地下には反逆の罪で囚われたものばかり……」
「これは平和への一歩なのです。分かりませんか? 大きな変化には、常に多大なる犠牲が必要なのですよ」
「平和の意味を履き違えていらっしゃるようですね。人とモンスターが傷つけあうことなく、協調して世界を広げていくことこそが平和です。お母様のやったことは、ただの報復です……これでは、憎しみの連鎖が永遠に続き繰り返されることでしょう」
マトビアの言葉を遮るように、キョウリは腕を振り下ろした。
「知ったような口を利くな!」
怒りをあらわにしたキョウリの顔は歪み、獣のような獰猛さをみせる。
雷鳴似通う怒号が、ビリビリと肌を泡立たせる。キョウリの抑えていた魔力の一端に触れ、底知れない常識はずれの魔力の量を垣間見た。
「我が同類を虫けらのように殺したのは人間だ! やつらは私たちが暮らしていた土地に突然やってきて、自分たちの都合のいい平和を唱えて、私たちを武力で追いやった!」
「同じことをすれば、さらなる悲劇が繰り返されるだけですよ……」
ストーンさえも身構えたキョウリの魔力に怯えるどころか、むしろ立ち向かうマトビアは、さすが皇女といったところか。
いや、もうこれは、人という動物の枠から外れた、強い精神力を持っているように感じた。それこそが、魔人であり皇女である唯一の存在なのだろう。
キョウリはこの論争を見限ったかのように、急に冷静になった。
「……分かっている。だから、奴隷にならない人間は、根絶やしにすることにした。選択権は与えた。従うか死か、だ」
「お母様……」
「もういい! 魔人の敵ならば、私の娘ではない!」
突然キョウリから横一直線に光の束が引かれた。
予兆のない不意の魔法が、マトビアを襲った。
「マ、マトビアっ!」
しかし、マトビアの前には半球状のガラスのようなものが浮かび上がっていた。
魔法を防ぐ魔法の盾……そんな魔法は聞いたこともないし、そもそもマトビアは魔法なんて使えないはずだ。
「いつの間に魔法を使えるようになったんだ!?」
「わ、分かりません! い……いまです!」
弾け飛ぶ光の粒にマトビアは片目を閉じながら、自分でも驚いていた。
もしかすると、マトビアに流れる魔人の血のせいなのか……。
ストーンはすぐに反応して、マトビアの後ろに隠れた。俺も一歩遅れて、ストーンと同じ行動をする。
「あの光はマズイな。初動がないから、避けれない」
初めて緊張したストーンの声を聞いた。
「生半可な攻撃は効かんだろう。一瞬の隙をつくしかない」
ストーンは俺たちに作戦を伝えた。
「マトビア。 降伏しなさい、私の力はこんなものではありませんよ!」
キョウリの指ひとつひとつから光の線が生まれ、指先を束ねると帯のように太くなる。
光の線が床をなぞると、石畳が音をたてて割れた。
「ううっ!」
「大丈夫かマトビア!」
マトビアが展開する結界は、少しずつ砕かれ、ヒビが入っていく。
それでもゆっくりと、キョウリたちに近づいていた。
「あともう少しだ、あと三歩……」
ストーンは間合いを鋭い目つきで測る。
ジリジリと一歩進むたびに、光の粉が激しく飛び散った。
「いまだ!」
ストーンは光の盾から素早く出ると、キョウリに片刃を払う。剛腕から放たれた一撃は、瞬きのうちにキョウリを捉えた。
ガアアァァンンッ!
しかしストーンの刃は、アルフォスの一撃に阻まれた。
「おお、これはまた、強いじゃないか」
ストーンの言葉に対して返答するようにアルフォスが刃を返した。
「だが、甘いな」
そう呟くストーンの大きな体から、分離するかのように、俺はキョウリの足元に転がり、武器を構えた。
このときのために室内用に改造したライフルだ。母が作ったものは長距離だったが、近距離用に筒を短くした。そして、攻撃力を上げるために、二本の鉄筒を並べている。
俺がトリガーを引こうとする最中、キョウリが人差し指を向け、瞬時に光の線を発射しようと瞳が俺を見下ろす。
バチッ!
青白い光がキョウリの腕から漏れ出た。
アーシャの麻痺だ。気配を消して、機会を伺っていたのだ。
「うっ!」
魔力を司る魔人であっても、不意の痛みはどうしようもないはずた。ほんの僅かな隙が生まれた。
ストーンが言っていた『一瞬の隙』が生まれた。
トリガーを引くと、二つの鉛玉がキョウリの腹部に命中する。
かつて、母が北の魔人に致命傷を与えた鉛玉。その二つがキョウリの体に撃ち込まれた。
「ギャアアッ!」
キョウリの腹部から灰が飛び散った。
致命傷を与えたことは明白だ。キョウリは玉座の横に倒れた。
「お母様!」
マトビアは横になったキョウリの元に駆けつけた。
呻く音がかすかに玉座の影から聞こえた。
「ううっ……。……どうやら、負けてしまった……ようね」
灰になっていくキョウリの顔は、少しずつ黒ずんでいく。
「……いえ、ずっと昔に私は負けていた。仲間の怨念や人間への憎悪に……」
「……」
玉座の間は静まり返り、アルフォスも剣を下ろした。
「しもべたちを失った日から、私は生きることさえも苦痛だった。……何度、死を考えたか……しかし、憎悪がそれさえも赦さなかった……。マトビア、あなたの言ったことは正しい。多くの間違いを犯してきた私だけど、どうか、私のような存在が、この世界にもう二度と生まれないように願うわ」
マトビアは崩れゆく母の顔をただ見守ることしかできなかった。
片面だけになってしまった顔が、俺を見つけると苦しそうに瞳を潤ませた。
「どうか……アルフォスは咎めないでください。私が、魔力で操っていただけなのです……どうか……」
消えゆく顔に俺は「わかった」と答えた。
涙に似たきらめきと一緒に、灰となったキョウリは玉座の間を風に乗って巡ると、消えていった。