熊を殺すと、風が吹く
猛獣は神聖視されている場合が少なくない。ライオンやトラ、蛇など、少し検索をかけてみると簡単にそういった事例がヒットする。だから殺したり傷を負わせたりすると、“普通ではない現象”が起こるとされていたりする場合も多いらしい。
そして、そんな猛獣のうちの一つには熊もいる。
ただし、熊はその他の猛獣にはない属性を持っているような気もする。他の猛獣は恐ろしさばかりが目立っているけど、熊はそればかりではなく、人間がつい愛情を注ぎたくなる造形をしている…… 平たく言ってしまえば“可愛い”のである。
だからそのような位置付けで扱われている熊のキャラクターは多い。くまのプーさんとか、テディベアとか、パディントンとか、くまモンとか。可愛い動物の代表格としてよく挙げられる“パンダ”だって熊の一種だ。
「熊が病院に侵入した」というのがニュースになっていて、ガラスの壁の向こう側に熊が歩く映像が流れていたのだけど、僕はその映像を観て、不謹慎ながら“可愛い”と思ってしまった経験がある。
ライオンやトラなどが肉食動物であるのに対し、熊は雑食性で、肉を食べる場合も多々あるのだけど、どちらかと言えば植物の方が比重が高いと言われている。或いは、それが熊の造形にも表れているのかもしれない(いや、考え過ぎかもしれないけど)。
また、種によっては人間に非常に良く懐く事もあるようだ。かつてポーランド軍に所属していたヴォイテクという熊は、兵士達とレスリング遊びをしたり、弾丸運搬作業を行ったりしてマスコットキャラクターになっていたらしい。
……熊を殺害すると、苦情の電話が市などにかかってくる事があるというのには、こういった要因もあるのかもしれない。
先に述べたように、神聖視されている動物が殺されたりすると、何か奇妙な事が起こるとされている。熊が“可愛く”感じられるという要因は、或いはそれにも影響を与えているのかもしれない。
僕はインターネットでよく都市伝説や怪談の類を調べている。僕個人は、そのような話は…… 面白く感じはするのだけど、特に執着をしているという訳ではない。では、どうしてそんな話を調べているのかと言うと、僕の好きな女の子がその手の話に興味関心を持っているからだ。
こう聞くと、「ああ、その女の子はオカルトマニアなんだな」と思うかもしれないが、全然違う。彼女、鈴谷凛子は、民俗文化研究会という大学のマイナーなサークルに所属していて、社会科学的な観点からそういった話を研究しているのだ(彼女自身は“単なる好事家”と言っているけど)。
僕は新聞サークルに所属していて、そのお陰で辛うじて彼女と接点がある。僕は彼女に情報を提供して、彼女は僕にそれを基にした見解を教えてくれるのだ。……まぁ、僕の方が一方的にネタをねだる事もあるのだけど。
もちろん、それらは全て彼女に会う為の口実だ。
『いきなり強い風が吹いたんだよ。おかしいなと思っていたら、その時間に熊が殺されたんだって』
その時に見つけた都市伝説っぽい話はそんな内容だった。人によっては、これがどう都市伝説なのか分からない人もいると思うけど、熊を殺すと天候が悪化する“熊風”という現象が北海道には伝わっているらしい。日本で最も規模が大きい獣害とされる“三毛別羆事件”でもこれが起こり、その名が付いたのだとか。
ただし、この書き込みの場所は北海道ではなく、なんと紀伊半島だった。もちろん、殺されたのはヒグマではなくツキノワグマだ。
僕は意気揚々と民俗文化研究会のサークル室に赴き、鈴谷さんにその件を伝えた。すると彼女は驚いた顔を見せ「興味深いわ」とそう返したのだった。眼鏡越しにも鋭さを失わない特徴的な瞳を無邪気に輝かせて興奮し、スレンダーな身体を振るわせて感動を表現していた。いつもは大人っぽい雰囲気だけにギャップがとても可愛くて新鮮だった。思った以上の反応だ。これなら彼女を誘って現地に取材に行くのも夢ではない。僕は期待に胸を膨らませていた。
……いたのだけど、
「――え? 今? 紀伊半島の山の中よ?」
彼女を誘おうと民俗文化研究会に行ってみたらいなかったので、スマートフォンで連絡を取ってみると、彼女は何でもないような口調でそう答えたのだ。
……忘れていた。普段、民俗文化研究会で本をずっと読んでいるからそんなイメージはないのだけど、彼女は動くと決めたらフットワークがとても軽くなるのだ。
熊風の噂話を聞いて、彼女は自分一人で現地に調査へと出かけてしまったのだろう。「熊風の話をした時に、誘っておくべきだったー!」と、僕が激しく後悔をしたのは言うまでもない。
――紀伊半島の山中にある村。
加藤正門は喜びを感じながらも、少しばかりの不安と共に鈴谷凛子という名の予約客を訝しんでいた。
彼は今は民泊を経営している。元は名古屋にあるレストランで料理を学んでいたのだが、“郷土の食材を使った料理屋を開きたい”という夢を叶える為に独立し、地元に帰って民泊を始めたのである。本当は料理一本で生活がしたかったのだが、山奥の田舎にある村なので客は少なく、宿泊サービスも提供しなくては経営が成り立たなかったのだ。幸い、近年の日本への外国人観光客増加のお陰でそれなりに客はいて、順調に民泊は経営できていた。
有名な観光地ではなく、マイナーな日本ならではの観光スポットを探す“通”好みの観光客が彼の宿をよく利用するのである。
――ただ、ここ数ヶ月ばかりは業績が芳しくなかった。原因は熊の出没である。近隣でツキノワグマが多数目撃され、先日などは一頭が実際に射殺された。それで観光客は激減してしまったのだった。
民泊は加藤一人で運営している。だから維持費はそんなにかからないから、しばらく客が来なくてもなんとかやっていけるのだが、流石にこれがいつまでも続くようならば何か他でも職を探さなくてはならない。そして、そう不安に想っていた折に、久しぶりに「民泊を利用したい」という予約が入ったのだった。ただし、一人だけ。しかも女性。大学生だという。名前は鈴谷凛子。
こんな山奥に観光でもなさそうである。熊が出るというのに、何故わざわざ一人で泊りに来るのだろう?
不審に思った彼は宿泊業を営むようになって知り合った同業者から耳にしていた話を思い出した。稀に自殺をする為に一人で泊まりに来る客がいるというのだ。もしそうなら、御免被りたい。わざわざ危険な熊を目当てにやって来る迷惑な客という可能性もある。熊を撮影して、動画サイトにアップするつもりでいるのだ。だとすれば、きっと軽い感じのガラの悪い女だろう。そんな客を招き入れてしまったなら、地元民から悪く思われるに決まっている。
どう対応するべきだろう?
が、彼の不安は杞憂だった。
「――熊目的で来たと言えなくもありませんが、熊自体に興味はあまりありません」
彼の民泊施設に訪れた鈴谷凛子という女学生は、想像とはまるで違っていて、とても確りしていて真面目そうだった。地味だが、よく見るとかけている眼鏡が似合っていて綺麗で可愛くもある。スレンダーな体型で、丁寧に切り揃えられている髪が肩の高さで揺れていた。
「熊自体に興味はないのですか? それはどういう意味なのですかね?」
と、彼が尋ねると彼女は「熊に関する噂に興味があってこの地を訪ねたのです」とあっさりとした口調で返して来た。そして、それからしばらく間を作ると、「すいません。奇妙な動機に思えるかもしれませんね。不審になられても無理はありません」と謝って来た。
加藤は慌てて謝り返す。
「いえ、そんな…… こちらこそ疑ってしまって。余計な詮索でした」
貴重な客に不快な思いをさせてしまったと彼は反省した。ところが彼女は気にする様子を見せず、
「いえ、むしろ手間が省けて良かったかもしれません」
などと妙な事を言って来たのだった。
「……実は民泊を選んだのは、安いというだけではなく、その方が地元の話を聞き易いと思ったからでもあるんです」
それは彼女を部屋にまで案内した時の事だった。畳敷きの和室だが、民泊だけあって普通の民家と変わらない。それでも海外の旅行客からは喜ばれるが、日本人にとっては何の変哲もないつまらない部屋だろう。だが彼女は一切残念がる様子を見せなかった。それで益々不審に思い、彼は旅の目的を尋ねたのだ。
「地元の話?」
「はい。実は私は民俗文化研究会というサークルに所属していまして、怪談や伝説などに興味があるんです。この辺りには、どうやら“熊風が吹く”という噂があるそうなので話を集めに来たのですよ」
「熊風?」
彼はそれを知らなかった。
それを受けると「知りませんか?」と言った後で、彼女はこう続けた。
「“熊風”という名前では呼ばれていないかもしれません」
しかし、そう言われても彼には心当たりがまるでなかった。残念そうな顔を見せると、それから彼女は説明を始めた。
「熊を殺すと、天候が悪化するという伝承があるんです。北海道で起きた有名な獣害事件、“三毛別羆事件”でも熊風が吹いたとされ、同事件をモデルにした小説“羆嵐”という小説のタイトルは、この伝承から取られていると言われています」
それを聞くと加藤は少し間を置き、「それって、この辺りの伝承とかじゃなくって、ネットかなんかでそれを知った誰かが勝手に言っているだけじゃないのですかね?」と自らの考えを述べた。
鈴谷は頷く。
「はい。その可能性はあると思います。ただ、そうとばかりも言い切れないんです。何故なら、“熊荒れ”などといって、北海道に限らず、“熊を殺すと天候が悪化する”というそれと似たような伝承は日本各地で語られているからです。
……もしかしたら、この地域にもそのような伝承があるのではないかと思いまして」
彼女の語り口調から、彼は妙な熱量を感じ取っていた。どうやらとても真剣であるらしい。それでそのような伝承には彼はまったく興味を持てなかったのだが、彼女の真摯さには感心をしたのだった。
正直な言葉が自然と出る。
「それを確かる為だけにわざわざこんな辺鄙な場所にまで訪ねて来るなんて、大したものですね」
彼女はそれに「ありがとうございます」とお礼を言った。
「ただ、私自身は単なる物好きに過ぎません。もっと真面目に研究をされている方々こそ、称賛されるべきだと思っています。社会科学的な学問を馬鹿にする人も多いですが、それらは人間社会をより理解する為に必要なものだと私は考えていますから」
その言葉に、加藤はわずかに表情を曇らせた。
「そういう話を聞くと、少し後ろめたい気持ちにもなります」
「何故でしょうか?」
「自分はこうして民泊なんてものを経営してはいますがね、本当は料理が好きで始めたんです。別に世の中の役に立とうとかそういうことは一切考えていない。料理を作って生活ができればそれで良いと思っていた。料理なんて単なる娯楽に過ぎませんからね」
彼が思わずそのような吐露をしてしまったのは、彼女の真摯さに心を打たれたことばかりが原因ではなかった。ここ最近の民泊の経営悪化で心が弱っていたのだ。“こんな事に、何の意味があるのだろうか?”と、それでつい考えてしまっていた。
――何の役にも立たないのに。
ところが、それを聞くと鈴谷はこんなような事を言うのだった。
「そんな事はない、と思いますよ?」
まるで戸惑っているような口調だった。本心から自分を駄目だと思っている人間は、それを否定されると怒りを覚えるものであるらしい。“何にも分かっていないのに”と。だからこの時の彼も彼女のその言葉にそのような感情を覚えかけた。
が、次に出た彼女の妙な話の所為で、その怒りは本格的な熱を帯びなかったのだった。怒りを逸らされてしまった。
「ゴリラやチンパンジー、オラウータンでも良いです。これら動物は知能が発達していると言われていますよね?」
――は?
と、彼は思う。一体何の話だ?と。
「はあ」
思わず間抜けな声が出た。
もし彼女が客でなかったなら、彼は文句を言っていたかもしれない。
「はい。ところがこれら生物は、それほど成功しているとは言い難いのです。絶滅の恐れすらもあると言われていますから」
「……それが何か?」と彼は言いかけたのだが、それよりも先に彼女は続けていた。
「人類がこれほどまでに繁栄した理由を、多くの人は“知能が発達したから”と思っているかもしれませんが、これを考えると“知能の発達”という進化は、それほど有効な方略ではないように思えます。知能が高度に発達している人間に近い生物が実際に絶滅しかかっているのがその証拠です。
――では、どうして例外的に、人類はここまで繁栄できたのでしょう?」
そこで彼女は言葉を止める。まだ加藤は彼女が何を言いたいのかを理解できていなかったのだが、少なくとも彼をからかおうとしている訳ではないとは把握していた。
「これは仮説に過ぎませんが、“雑食性こそが人類の繁栄を促した”という事が言えるかもしれないのです」
「雑食性?」
「はい」
ちょっと言葉を止めると、彼女はバックの中から四角いチョコレートを取り出した。ビニールに包まれている。
「例えば、このチョコレートですが、人間はもちろん問題なく食べる事ができます。ところが、犬や猫に与えると下手すれば中毒症状を起こすそうです。そんなのはほんの一例に過ぎません。人間は平気でも、他の動物は食べられない食べ物は実はとても多いのです。つまり、驚くほどに人類の食は多様なのですね。コアラがユーカリしか食べないのは有名ですが、このような偏食は実はそこまで珍しくないのだそうです。
“食べる”という行為は、とてもリスクのある行為です。食べた物が、その動物にとって毒である可能性もある。だからこそ、多くの動物は偏食なのでしょう。これほどまでに食が多様な人間の方が自然界ではむしろ少数派なのです」
その鈴谷の饒舌ぶりにやや加藤は驚いていた。見た目ではあまり喋るタイプには思えなかったからだ。彼女は更に続けた。
「しかし、偏食は動物の生活範囲を縛ってしまいもします。当たり前ですが、食べ物がない場所では動物は生活できません。しかし、多種多様な生物を食べられる人間には、その制約がないのです。だからこそ、生活範囲を大きく広げられますし、色々な物を食べられた方が飢える危険も減ります。つまり繁殖にとって有利になる。
そして、その人間の“雑食性”の能力に拍車をかけたのが“調理する”という技術です」
そう言うと、彼女は加藤を見た。
「調理すると、人間には食べられない物でも食べられるようになります。そして、調理した方が美味しくもなります。あなたは娯楽と表現しましたが、だからこそ料理は娯楽となり得るのでしょう。
ここで問題ですが、どうして食材を調理した方が人間は美味しく感じるのでしょうか?」
加藤は尋ねられて言い淀んだ。
“……そういえば、どうしてだろう?”
今まで考えた事などなかったのだ。彼が答えられないでいると、見かねたのか彼女は再び口を開いた。
「例外もあるかもしれませんが、基本的には調理した方が、その食材の栄養をより身体に吸収できるようになるのですよ。だから舌がそれを美味しく感じるのです。当然ながら、そのお陰で生存確率も上がります。
つまり、料理は人類の繁栄にとても貢献しているのです。そしてこう考えるのなら、“美味しい料理を作ってお客に出す”という仕事は、大変に人間の世の中に貢献していると言えると思います。なにしろ、料理がなかったのなら、人類はここまで繁栄していなかったのかもしれないのですから」
それで彼女の説明は終わりだった。そして彼女の説明を聞き終えると、
「ハハハハハ!」
と、加藤は思わず笑ってしまっていたのだった。
料理が人類繁栄の礎となっているなど、彼には全くない発想だったのだ。
「随分と大きな話ですね
まさか料理が“人類の繁栄”に役に立っているという話になるとは。少々、ビックリしました」
彼女は軽く頭を振る。
「いいえ、決して誇張ではありませんよ。これから先、気候変動に耐えられる、或いは悪影響を与えない農林畜産業の成立が人類には必要になって来ますが、料理はそこでも役に立ってくれるでしょう。代替肉の美味しい食べ方があれば、喜ぶ人はたくさんいます」
真面目な顔で彼女はそう語ったが、それから表情を崩すと、
「ま、そこまで大きく捉えなくても、地元の食材で美味しい料理を開発すれば、地元の経済に大いに貢献できると思います。それだって十分に社会貢献ではないですか」
などと結んだ。
どうも彼女なりに必死に彼を元気づけようとしてくれていたようだった。
頭を軽く掻くと彼は返す。
「ちょっと前に地元の牛肉を使った料理を考えたんですが、“こんなに美味しくては肥ってしまう!”と苦情を言われましたよ」
それは実はちょっと自慢話だったのだが。
鈴谷は笑ってそれに返す。
「そうですね。料理する事で、栄養をより吸収し易くなると、栄養の摂り過ぎによる健康被害が問題になって来る場合もあります。よく注意をして料理を出してください。私に出す場合は特に」
もちろん、それは冗談だった。
笑い合う。
この会話で、加藤は随分とこの鈴谷という変わった客と打ち解けられたような気になっていた。
南堂紗千香は、動物が好きだ。
だから、動物愛護団体に所属している。インターネットを通じて、全国に同志がいる団体なのだが、同じ地域には3人しかメンバーはいない。しかもその内の1人は、最近入ったばかりで勝手が分からないのかもしれないが、あまり積極的に活動に加わってくれてはいなかった。全国に同志がいると言っても、実質的にはとても小規模な団体なのだ。具体的な活動内容は、犬や猫の一時的な保護と里親探し。彼女の家でも一時的に預かる事がある。懐いてくれた犬や猫達が、自分と離れるのを嫌がる様を見ると、思わず泣いてしまいそうになる。“私も本当は離れたくないのよ”と。
世間は広い。そういった彼女達の活動に対し偶に「偽善者だ」と罵る人がいる。彼女達は自分の好きな動物を助けているだけであって、ゴキブリだとか嫌悪感を抱く動物は決して助けようとはしない。それ形を変えた“エゴ”ではないかと言うのだ。
彼女はそれはある意味では正しいと思っている。自分達は命の選別を自分達の感覚で行ってしまっているのだ。それはエゴだろう。
――だけれども、では、自分達が可愛く感じる動物を見殺しにする社会と助けようとする社会、どちらが住み良い社会かと問われるのならば、彼女は後者だとも思っていた。そしてそれは“自分達以外の多くの人も同じなのではないだろうか?”とも。
そういう意味では、それはこの世の中を住み良い場所に変える利他的な行動なのではないだろうか?
もちろん、そこにある傲慢を認めるべきだとは思うのだけど。
……そんなある日だった。熊が近くの村に出没したというニュースを彼女は耳にしたのだ。熊は可愛いと思う。だからできれば死んで欲しくないし、手段があるのなら、傷つくことなく森の奥に帰って欲しいとも思っている。
ただ、それが叶わないのであれば致し方ない。殺処分するしかないだろう。彼女は重々それを承知していた。
動物愛護には傲慢なエゴの要素がある。否、人間社会が存続するというのは、そもそも“人間という種の繁栄”なのだ。エゴだ。その大前提は忘れてはいけない。
だから彼女達は熊の殺処分に対して、何ら抗議のような事はしていなかった。それどころか何一つ熊に関わる活動はしていない。専門的な知識もないし、自分達には荷が重いとも思っていたからだ。熊が出没した村は少し離れている。彼女達はその村に行ってすらいなかった。
……ただ、世間ではどうもそのようには思われていないようだった。
そして、熊が殺された。
人の手に因る殺処分。
熊の見た目はやはり可愛く、彼女は心を痛めていた。丸みを帯びた身体が硬くなり、目を瞑って動かなくなって、まるで作り物のようになっている姿には世の無情を感じさせる。どうにかできなかったのかと思う。もちろん、どうしようもないのだろうけど。
――熊が殺された事に対して、市に抗議の電話が多数かかって来たのだそうだ。多くは都市部の住人で、地元からの電話は少なかったと聞いている。
が、にも拘わらず、彼女達は疑われた。彼女達が熊を殺した事に対し抗議の電話をかけたと考える人がたくさんいたのだ。山の中に、熊の餌の為に用意したのではないかと思われる調理した肉が発見されたのがその根拠だった。都市部に住む人間には、これは無理だろう。わざわざその為だけに村を訪ねて来るとは思えない。
“調理”と言っても単に焼かれてあっただけらしいのだが、それでも熊にとってはご馳走である。だから、
「そんな事をすれば、熊がより人里に近付いてしまう! 肉の味を覚えたら、商店が襲われかねない!」
などと怒りの声が上がったらしい。もちろん、全く身に覚えのない話だった。そもそも彼女達は熊が出没した村には行ってはいないのだ。だが、そう言っても世間は信じてはくれなかった。
「実際、愛護団体を名乗る女がその辺りの森に向かったのを見たって人がいるんだ! お前達以外に、誰がそんな馬鹿げた事をするのだ?」
もしその話が本当ならば、別の団体だろう。きっと他所からやって来たのだ。彼女達は知らないのだから。
彼女達にとっては物凄く迷惑な話だった。
ただし、そのような主張をするのは極一部の人間達だけだった。無視をしていると、次第に治まっていった。だから彼女達は特に気にせず、相変わらず活動をし続けていた。
――がしかし、ある日事件が起こった。
その事件が起こった時、彼女は地元で育てた牛や豚などの肉を売っている店を訪ねていた。ある程度の量を買う事が条件だが、その店では肉が安く買えるのである。それで預かっている犬や猫達の餌代を少しでも浮かせられる。そして、買った肉をカートに乗せ、店の外に出たタイミングだった。強い風が吹いたのだ。空はとても曇っていて、なんとなく不吉な予感を彼女は覚えた。
そして、その時に話を聞いた。近くの村で母子を襲った熊が撃ち殺されたらしい。熊目撃の話を聞いて、見回りをしていた人が母子を見つけ、早く病院に運んだお陰で、母親は問題なく快方に向かっているらしいのだが、子供の方は意識不明の重体だという。その時は、まだ彼女はその被害者が動物愛護団体に最近参加し、あまり活動してくれていない榊美穂という女性である事は知らなかった。
村井健司はやや緊張した面持ちで、村の外からやって来た鈴谷という名のお姉さんに“熊使い”の話を聞かせていた。彼は中学生で、友人達とコンビニエンスストアの前で喋っている時に話しかけられたのだ。
そのお姉さんはちょっと変わっていて、「なんでも良いから、熊に関する怪しい噂話があったら聞かせて欲しい」という事だったので、彼は“熊使い”の話をし始めたのだ。
そのお姉さんの事を、彼は“綺麗だ”と思っていて、少しでも喜ばせてあげたかった。村の外への憧れが、彼女に重なっていたのかもしれない。
熊使いの話を始めて直ぐに、「バカ。そんな話で喜ぶか」と仲間から責められたが、意外にも彼女は興味深そうに彼の話に聞き入ってくれた。
「……へえ、つまり、村の外の誰かがこの村を恨んでいて、熊を誘き出しているって言うの?」
そう尋ねて来る彼女に、村井は「うん。実際に、森の中に焼いた肉が置いてあったんだって。熊を誘き出す為の餌だよ」と興奮した様子で答えた。
それは最近、彼らの中で噂になっている怪談や陰謀論の類だった。何者かが熊をこの村に誘き出し、村に危害を加えようとしているのだそうだ。
それを聞き終えると、その鈴谷というお姉さんは少し迷ったような顔を見せた後で口を開いた。
「まずは話してくれてありがとう。とても面白かったわ……
でも、どうしようかと思ったのだけど、一応、言っておくわね。
人間社会に伝わっている様々な妖怪の類は、実は異文化や外の社会に住む人達への偏見が元になっている場合が少なくないの。そして、そういった化け物がまた偏見を育てる。場合によってはそれで悲劇が生まれてしまったりもする。だから、そういうのはできる限り改めた方が良いの。
そういう幻想を抱いてしまうのは、人の弱さだと思うから……」
それは“言うべきではないのに、つい言ってしまっている”というような口調だった。村井達は黙ってそれを聞いている。“上から目線の説教”に思えなくもないが、不思議と不快には感じなかった。きっとそれは彼女が心から彼らを心配しているのが分かったからだろう。それから彼女はこう尋ねる。
「熊に関する怪しい噂話はそれだけ?」
村井達は顔を見合わせた。
「うん。それだけだよ」
すると、彼女はちょっと残念そうな顔を見せた。
「そう…… 例えば、風が吹いて来るような話を知っていたりはしない?」
「風?」と仲間の一人が疑問の声を上げる。
「そう。熊を殺すと、風が吹くの」と彼女は返す。
彼らは一斉に首を横に振った。そんな話は聞いた事がなかったのだ。彼女はそれを聞くと今度は表情を変えず、
「分かったわ、ありがとう」
と彼らに感謝し、それから「これはお礼ね、おやつでも食べて」と続けて彼らに500円を渡して来た。少額だが、それでも彼らは「やったー」と大はしゃぎした。
「ごめんね。本当はもうちょっと上げようかとも思ったのだけど、あまり高額だと親御さん達が嫌がるかもと思って」
どうも彼女には気を回し過ぎるきらいがあるらしい。そんな彼女の心中を慮っている訳でもないのだろうが、「本当にありがとう」と改めてお礼を言ってから去っていく彼女を見て、彼らは一斉に「ありがとー」と500円のお礼を言った。
それから早速コンビニエンスストアに入ると彼らはお菓子を買った。最近出たばかりのチョコのお菓子だ。お釣りはジャンケンで勝った者が全て貰う事にした。彼は負けてしまったが特に気にしなかった。皆で分け合うとチョコは直ぐになくなった。
食べ終えたチョコの箱をゴミ箱に捨てると一人が言った。
「さっきのお姉さんが言っていた“風”ってどんなだろうな?」
「さあ?」と村井は応える。
熊を殺すと吹く風なんて、どんなものか想像もつかない。
が、そのタイミングだった。
どんよりとした雲の下を、とても強い風が吹いて来たのだ。何かしら不吉なものを彼は感じる。
そして、その直ぐ後だった。
「おい! 大変だぞ! 村外れに住む親子が熊に襲われたってよ!」
コンビニの中から、そんな大人達の仰々しい声が聞こえて来たのだ。
――病院のベッドの上、
重傷を負った女性の患者が、虚ろな瞳で窓の外を眺めていた。清潔で、田舎にある病院にしては設備が整っている。しかし、その所為でより寂寥感が際立っていた。女性は泣き出しそうな形で固定されたかのような表情をしている。
――無理もない。
それを見て看護師の女性はそう思った。
ショックから立ち直れないでいるのだろう。実はその榊美穂という女性は、少し前に熊に襲われてしまったのだ。本人は大した事がなかったが、彼女の実の息子が重体で今も生死の境を彷徨っている。
ベッドの上に目を移すと、食事がほとんど手を付けられないまま残っていた。看護師は目を曇らせる。
「少しは食べないと、お身体に悪いですよ」
看護師から言われて、彼女はまるで初めて気が付いたかのような様子で食事を見、それから看護師に「ありがとうございます」とお礼を述べた。
「きっとお子さんは助かります。その時にあながた体調を崩してしまっていたら、抱きしめてあげられないじゃないですか」
元気付けようと看護師がそう言うと、「あの子は助かるのですか?」と彼女は尋ねて来た。「きっと助かると思います」と、それを聞いて看護師は返した。気休めでも良い。今はポジティブな言葉が彼女には必要なのだと看護師は考えたのだ。
それを聞くと、彼女は顔を覆って泣き崩れた。
「あの子が襲われたのは、私が悪いのです」
その悲痛な様子に看護師は眉をひそめ、「そんなにご自分を責めないでください」と慰めようとする。すると、何とも言えない鬼気迫る表情で患者は看護師を見上げた。
「自分でもよく分からないんです。どうして私はあそこであの子を助けようと外に飛び出してしまったのか……」
熊に襲われた時、彼女の息子は自宅の庭にある遊具で遊んでいたのだという。彼女は部屋の中からそれを見守っており、熊が現れたのを見つけて半ばパニック状態に陥ってしまったらしい。
そして、気が付くと息子を助ける為に外に飛び出していた。
「軽率な行動でした」
と、彼女は言った。
看護師は軽く頷くと「そうですね。お子さんを守りたかったのなら、まずは連絡を最優先させるべきでしたね」と続ける。しかしそれから、
「ですが、そんな緊急事態では、冷静に行動できる人の方が稀だと思います。無理もありません」
そう慰めた。
すると彼女は再び顔を見上げた。先程と同じ様な鬼気迫る表情だった。その表情に、看護師は違和感と共に仄かな恐怖を覚えた。
「そうですね。そうかもしれません。本当はそうするつもりだったのです。連絡して助けを求めるだけに……」
そして、彼女はまた泣き崩れた。
「すべて、すべて私が悪いのです!」
看護師はかける言葉が見つけられず、「今はちゃんと食べて、お子さんの回復を祈りましょう」とだけ言った。
加藤正門は地元の精肉店を訪ねていた。その店には、地産地消を推進するというコンセプトがあり、地元の畜産業者から物流をほぼ介さず入荷した安い肉が手に入るかなりお得な店だ。スケールメリットを出す為に、ある程度の量を一度に買う事が条件だが、彼のような民泊を経営している者にとっては使い勝手が良い。彼がその店を利用している理由はそれだけではなく、地元の畜産業を応援したいという気持ちもあった。実はここ最近、牛や豚が熊に襲われるという事件が相次いでいるのだ。致命的とまでは言わないが、その損害額はかなりのものになっているという。
その店は一見すると精肉店に思えない地味な佇まいで、照明が暗い所為でまるで倉庫か何かに思える。辛うじてのぼり旗が出ているのでそれと分かるが、もし知らなかったら食品を扱っているとは思わないだろう。
そこで彼は店員から不穏な話を耳にした。
「この店を利用していた女の人がいたでしょう? ほら、榊さんっていう。あの人が熊に襲われたらしいのよ。ご本人は助かったみたいなのだけど、お子さんが重体ですって」
この店を個人で利用している客は珍しい。だから彼も覚えていたのだが、確か村外れに住んでいる女性だったはずだ。どういう事情かは知らないが、最近になって親子で引っ越して来た新参者だ。結婚はしているらしいが、旦那の方は滅多に帰って来ない。実質的に母子の二人暮らしだ。彼女は三十代くらいで、子供はまだ小学校にも上がっていないくらいに幼い。
多少場違いな親子と言えるかもしれない。
ある程度の量を買わなければいけないこの店で母子家庭の客が来るはずがない。不思議に思った彼はちょっとした好奇心から事情を店の者に訊いてみた事があるのだが、なんでも動物愛護活動をしているのだという。それで餌用の肉が大量に必要なのだと彼は合点がいった。
“……こんな山の中で、母子二人暮らしをしていたら、寂しくなって動物愛護でもしてみたくなるものなのかもしれない”
その時彼はそんな感想を抱いた。
それを知っていたからだろう。榊という女性が重傷を負ったと聞いて彼はふと心配になった。
“彼女が保護している動物達は大丈夫なのだろうか?”
それで多少遠回りになるが、帰りにその榊という女性の家に寄ってみる事にしてみたのだった。大体の位置は知っている。人家は少ない場所だから直ぐに分かるだろう。
榊という女性の家に辿り着いた加藤は、想像とまるで違っているその家にまず驚いていた。瀟洒なデザインで、普通の住宅と言うよりは、何処かの金持ちの別荘のように思えてしまう。家を間違ったのかと思って表札を確認すると、“榊”と記されてあった。この家で合っているらしい。
――実際にここは別荘なのかもしれない。だからこそ榊家の旦那さんはあまり帰らないのではないだろうか?
少し考えて彼はそう思った。
精肉店で見かけた榊という女性は、お洒落な服を無理なく着こなし垢抜けていた。“動物をたくさん保護している”と思っていたから勝手に犬舎が似合う家だとイメージしていたのだが、彼女ならこういう家に住んでいる方がむしろ自然だろう。
少し迷ったのだが、“犬や猫が飢えて苦しんでいるかもしれない”と思い、加藤は敷地内に足を踏み入れた。やはり金持ちなのか、敷地内には鹿やライオンを模ったばね仕掛けの遊具があった。その内一つは熊だった。可愛らしい造形だが、この家の親子が熊に襲われた事を考えると皮肉に感じた。
犬や猫を保護している小屋が何処かにあるだろうと思い、家の周りを軽く探ってみたがそれらしい建物も施設もなかった。家には掃き出し窓があり、その向こう側はリビングになっているようだった。何故か、ホットプレートが置いてあり、その上には大きな焼かれた肉の塊があった。動物達の餌を調理していたのかと思ったが、リビングでやる作業ではないだろう。バーベキューでもやっていたのだろうか? 家の裏は小さな丘になっていて何にもない。鬱蒼と茂る木々や灌木が少しだけ怖く感じた。きっと熊の所為だろう。道らしいものはない。その奥に小屋があるという可能性もなさそうだった。別荘のような家の中で飼っている可能性もあるが、獣臭のようなものが全くしない。それ以前に動物がたくさんいるという痕跡や気配がまるでない。多くの動物を飼っている場所は独特の雰囲気が出るものだが、それも感じられなかった。
“どういう事だろう? 動物は何処か別の場所で保護してるのだろうか?”
別荘のような家の前で首を傾げていると、不意に加藤は「おい、あんた、何やってるんだ?」と声をかけられた。驚いて声の方を見ると土井という中年の男が玄関先にいた。狭い村だから、一応、お互いを知っている。加藤の顔を見て彼も分かったらしく安堵した表情を浮かべた。
「なんだ。加藤さんか。泥棒かと思ったよ。何をやっているんだい、こんなところで?」
「そう言う土井さんこそ、どうしたのです?」
「俺ぁ、見回りだよ。ほら、この家の奥さんと子供が熊に襲われたろう? その熊は射殺されたみたいだけど、まだ他にも熊がいるかもしれないじゃないか。だから、一応な。そうしたら車が停まっているから、何かと思って覗いてみたんだ」
「僕は犬や猫が心配で見に来たんですよ。飢えているかもしれない」
「犬や猫? 何を言っているんだい?」
その土井の様子に加藤は違和感を覚える。
「何って、この家で保護しているのでしょう?」
「保護ぉ? 俺は時々ここらに来るけどよ、この家で犬や猫を見た事なんか一度もないよ。多分、飼っていないんじゃないか?」
「いやでも……」
そう言って彼は土井に事の経緯を説明した。それを聞くなり、土井は形相を変える。
「動物保護だぁ? 怪しい怪しいとは思っていたが、やっぱりか!」
「やっぱり? 何の話ですか?」
「ここの家の奥さんは、肉を大量に買っていたんだろう? でも、ここには保護している犬も猫もいない。なら、答えは一つじゃないか」
そう語る土井は明らかに憤っていた。何をそんなに怒っているのかと加藤は訝しがる。一呼吸の間の後に彼はこう続けた。
「熊に肉を与えていたんだよ!」
鈴谷さんから電話がかかってきた。彼女の名前がスマートフォンに浮かび上がっているのを見て、僕は小躍りでもしかねない勢いで通話ボタンを押した。彼女は今、“熊風”の噂話の採取の為に紀伊半島に出かけているはずだった。ひょっとしたら、手伝って欲しいと連絡をして来たのかもしれない。するとなんとその期待通りに、
「――手伝って欲しいのよ、佐野君」
と、彼女は言ったのだった。
僕は軽く飛び上がり、本当にちょっと小躍りをした。
「分かったよ! 直ぐにそっちに向かう!」
僕はそう返したのだけど、それに彼女は「何を言っているの?」と疑問府を伴った声を上げるのだった。
「こっちに来る必要はないわ。佐野君には、そっちで調べ物をして欲しいのよ。インターネットを使って」
僕のテンションが一気に下がったのは言うまでもない。
「こっちで調べ物って熊風について?」
「ううん。実は今、熊風については調べていないの。“熊使い”っていう別の噂話を採取してね」
「熊使い?」
「中学生とか、小学生の間の噂話よ。熊を誘き出して、村に損害を与えようとしている人間がいるのだって」
少し考えると僕はそれにこう返した。
「その“熊使い”について、ネットで調べたら良いの?」
「いいえ。実はその“熊使い”関連で嫌なニュースを耳にしてね。つい先日、母親と子供が熊に襲われた事件が起こったのは知っている?」
「ああ。うん、ニュースで見たよ」
「もしかしたら、その“熊使い”は、そのニュースの母親かもしれないのよ。それで、その人だけどね、動物愛護団体に所属しているって噂があるみたいなの。つまり、その人は熊害の被害者であると同時に加害者である可能性があるのね。その点について、詳細を調べられない?」
ネット上には、何かしらの事件が起こると犯人を特定して住んでいる地域などを晒してしまう人達がいる。だから、探せばその熊害の加害者である可能性のある女性の情報も見つかるかもしれないのだ。恐らく、彼女はそれに期待しているのだろう。
「お願い。こういうのを調べるのは、私より佐野君の方が得意でしょう?」
自信はなかったのだけど、鈴谷さんからお願いされてしまっては、僕に断れるはずもなかった。
「分かったよ。調べてみるよ!」
気が付くと僕は無駄に力強く答えていた。
村井健司は突然訪ねて来た土井さんが、彼の父親に向けて熱く語る声になんとなく耳を傾けていた。
本当はゲームをしたかったのだが、土井さんの声が大きく、彼の部屋にまで聞こえてくるので集中できないと思って諦めていて、“迷惑だなぁ”などと思っていたのだが、その内に土井さんが何を父親に訴えているのかが分かると俄然興味がわいて来た。
「あの女が熊を村に誘き出していたんだよ!」
――熊を誘き出す。
……それって“熊使い”なんじゃ?
そう彼は想像する。
村の外からやって来た鈴谷という綺麗なお姉さんは、その後も熊使いについての話を聞いて回っているらしかった。土井さんの話を彼女に教えてあげたら喜ぶかもしれない。
先日、大事件がこの村に起こった。村外れに住む榊という女性とその子供が熊に襲われてしまったのだ。土井さんの語るところに依れば、それを助けたのは、土井さんの知り合いだったのだという。熊を目撃したという話を耳にして、辺りをパトロールしている最中に榊さんの家の玄関先で榊さん達が熊に襲われている場面に出くわしたのだ。その知り合いは軽トラに乗っていたので、そのまま軽トラで体当たりをして熊を追っ払った。
「運が良かったんだ」と、その知り合いは語っていたらしい。病気だったのか何なのか、何故かその熊は妙に動きが鈍くて、それで榊さん達は助かったというのだ。
その後でその知り合いは病院に連絡し、軽トラで榊さん達を病院にまで運んだ。榊さんは重傷を負ったものの助かり、子供の方は治療を受けている最中だそうだ。助かるかどうかは分からないけれど、少なくともまだ死んではいない。
「どうしてあの辺りにまで熊がやって来たか不思議じゃねーか。だから、俺は見回っていたのよ」
榊さん達を襲った熊は射殺されたが、熊は一頭だけではないかもしれないと土井さんは考えたらしい。それで現場近くを見回っていたのだ。
「そうしたら、肉の塊が、しかも焼いてある肉の塊がだよ、森に落ちているのを見つけたのよ。俺はこの所為で熊がやって来たんだとピーンと来たね」
興奮した様子で土井さんは続けた。
「あんな森の中に肉の塊が落ちているはずがねぇ! 誰かがわざとあそこに置いて行ったんだ。
でも、じゃ、それは一体、誰だ?
奇妙に思っていたら、加藤さんに偶然に榊ってあの女の家で会ってよ。どうしてそんな場所にいるのかと思って訊いてみたら、“犬や猫が心配だ”って言うんだよ。だけど、俺はあの家で犬も猫も見た事がねぇ。だから、なんでそんな事を言うのかと思って訊いてみたら、あの榊って女は動物愛護団体に入っているって言うじゃねーか! それで肉を肉屋から大量に買っていたんだと! 加藤さんはそれを犬猫の餌だと思っていたんだ」
そこで土井さんは興奮して、床をドンと叩いたようだった。他人の家を傷つけるのは止めて欲しいと村井は思ったが、父親は何も注意をしなかった。土井さんは続けた。
「動物愛護団体ってあれだろう? “熊を殺すな”って文句を言ったり、熊に餌をやったりしている連中だ。熊が人里に降りてくるのは、熊が飢えているからだ。可哀想だから、熊に餌をやろうってんだ。
その所為で、俺らみたいな村のもんが困るって考えもしないでよ!」
その話は村井も聞いた事があった。
近年、熊が人の住む場所にまでやって来るのは、食糧が足らなくて餌を探しに来るからなのだとか(熊自体の数が増えているという話もある)。それで一部の動物愛護団体は熊に木の実などの餌を与えようとしているらしい。ただ、間違った試みであると指摘をされてはいるけど、動物愛護団体は“可哀相だから”熊に餌をやろうとしているのではなく(それもあるかもしれないけど)、食糧を与えれば人里まで熊が下りて来なくなると考えたからのはずだ。少し土井さんは間違っている。
「結局よ、自分達の活動の所為で、自分達が熊に襲われちまった訳だが、それだって村に迷惑をかけている。これ以上、連中の好き勝手にさせる訳にはいかねー!
加藤さんの話だと、地元の肉を扱っている肉屋に動物愛護団体の連中は肉をよく買いに来るんだと。これ以上、熊害を増やさないようにする為にも、店に連中には肉を売らないように説得しきゃならね!
なあ、村井さんよ。一緒に肉屋を説得しに行こうじゃないか。人数は多い方が良い」
父親が答える前に、村井は「僕も行く」と自分の部屋から出ると土井さんに向かって訴えていた。彼は別に動物愛護団体に反感を持っている訳ではなく、“熊使い”の話をもっと聞ければ、鈴谷というあの綺麗なお姉さんに教えてあげられると思っていたのだ。
土井さんは彼を見ると相好を崩して言った。
「おー 健司君も行きたいか。よし、子供でもいた方が良い。いや、むしろ子供だからこそ良い。君も来なさい」
父親は何か言いたげだったが、何も言わなかった。それで彼は、土井さんと一緒に精肉店に行く事になったのだった。
加藤正門は車で彼が頻繁に利用している精肉店に向かっていた。隣の座席には、彼の民泊の宿泊客の鈴谷凛子もいる。
実は今、精肉店では、村の住人達が「肉を動物愛護団体に売るな」と詰めかけていて、精肉店の店員としては双方冷静に話し合ってもらおうとしたのだろうが、そこに動物愛護団体も呼んでしまい、軽い騒動になっているらしいのだ。困った店員は、中立の立場で穏便に治めてくれそうな加藤に電話で相談をして来たのだった。
その話を加藤がスマートフォンでしているのを、偶然に鈴谷は耳にしていたらしい。「取り敢えず、僕は精肉店に向かいます。なので少し宿を空けます」と彼が言うと、「私も行きたいのですが」と告げて来たのだ。なんでも、「もしかしたら、誤解を解けるかもしれない」との事。普通の宿泊客ならば真に受けないが、彼は彼女が博識であるのを知っている。誤解が解ける可能性があるのなら、頼ってみる価値はあると判断した。
車の中で鈴谷は電話をかけていた。
「ありがとう、佐野君。それくらい分かれば充分よ」
しばらく話していた彼女はそう言って電話を切る。どうも今回の熊害事件の被害者で、加害者かもしれない榊美穂について誰かに調査を依頼していたようだ。
「何か分かったのですか?」
興味を覚えて尋ねてみたのだが、彼女は詳しく教えてはくれなかった。
「はい。取り敢えず、まだ確証はありませんが、説得材料が一つ手に入りました。ですが、まだ足りません。それで、できれば加藤さんにも協力していただきたいのですが」
「僕に? 僕にできる事なら別に構いませんが、一体、なんです?」
「射殺された熊について少し知りたいのです。役場の誰かに訊くことはできませんか?」
狭い村だから、ほとんどの者は顔見知りだ。あまり自慢できる話ではないのかもしれないが、だから身内に融通するような感覚で、頼めば多少の情報は教えてくれたりもする。
「できない事もないかもしれませんが、何を知りたいのです?」
「射殺された熊が、病気だったかどうかが知りたいのです。死体を調べれば分かると思うのですが」
何故、そんな事が知りたいのかは不思議だったが、少し考えると彼は知っていそうな人間を思い浮かべた。
「分かりました。訊いてみましょう」
その程度なら恐らく問題はない。
車を停めると、彼は役場の担当者に電話をかけた。「おー、加藤さんか」とその担当者は気の抜けた声で言い、彼が質問をするとあっさりと教えてくれた。電話を切ると、彼は鈴谷に言う。
「射殺された熊は病気だった可能性がかなり大きいそうです。確証は持てないそうですが、内臓系じゃないかという話でした」
彼女は軽く頷く。
「そうですか。ありがとうございます」
どうやら何かの確信を深めたようだった。奇妙に思った彼は尋ねる。
「どうしてそんな事を知りたかったのですか?」
「北海道の話ですが、射殺されたヒグマがやはり病気だったという話を聞いていたものですから、もしかしたら、と思いまして」
「はあ」
だからどうしたと言うのだろう?
そう彼は思ったが口には出さなかった。
「この辺りで最近、熊に牛や豚が襲われる被害があったと聞きます。射殺された熊の仕業だった可能性が大きくなりました」
それはそうだろう。
と、彼は思う。始めからそれは分かっていた事なのではないだろうか?
だが、それから彼女は「後はどうこれを話して、どこまで話すべきかという点だけね」などと呟いて何やら考え出してしまったのでそれ以上彼は何も尋ねなかった。
精肉店から連絡を受けた当初、南堂紗千香は気楽に考えていた。何でも熊被害に遭った村の人達が訪ねて来て、「動物愛護団体に肉を売るな」と訴えているのだそうだ。理由を聞いてみると、彼女の所属する動物愛護団体の一人の榊美穂が熊に餌として肉を与えていた疑惑があるのだそうだ。彼女が熊に襲われたという話は知っている。ニュースでやっていたからだ。南堂はとても驚いていたのだが、精肉店からの電話で更に驚いた。
“まさか、あの人が熊に餌をやっていただなんて!”
榊はほとんど動物愛護団体の活動には参加していなかった。所属すると表明しただけで後は連絡すら真っ当に取っていない。やる気がなくなったのか、単なる興味本位だったのかは分からないが、だから彼女と自分達はほぼ何の関わりもない。彼女が何をやっていたかは知らないが、自分達には無関係だ。
「……分かりました。その人達に説明をします」
南堂は事情を説明すれば、村の人達は簡単に分かってくれるものだとばかり思っていた。だから彼女一人で精肉店に向ったのだ。熊は自分達には荷が重い。そう思って一切関わって来なかったのだ。それはネット上に上げている活動内容を調べてもらえば直ぐに分かるはず。
――が、事態は彼女が思っているよりもずっと悪くなっていたのだった。
精肉店に詰めかけていた村の人達は、とても興奮をしていた。倉庫のような外見の店の外にまで人がいる。全員で十人程も集まっており、中には中学生くらいの子供までいた。もっとも、子供は一歩引いて大人達が文句を言っているのを見ているだけだったが。
「榊さんは、個人的に熊に餌を与えていただけで、私達は熊に餌を与える活動なんてしてはいません。何しろ、連絡を受けるまで私はその話を知らなかったのですから」
誤解を解こうとそう言ったのだが、彼らは納得してはくれなかった。ネットに上げている活動内容を見せても納得をしない。榊さんはほとんど動物愛護団体の活動に加わっていないと言っても納得をしない。どうにも精肉店が自分達に肉を売らないと言わない限り退く気はないといった様子だった。
“この店から肉を買わなくても、他で買えば良いだけの話じゃないのか?”
と、彼女は思っていたのだが、火に油を注ぎそうだったので黙っていた。
「榊さんが私達の活動に参加していないのは記録に残っています。そんなに言うのなら、そちらも私達が熊に餌を与えているという証拠を出してください」
堪りかねた彼女がそう言うと、反論が思い付かなかったのか、彼らは「そもそも動物愛護活動自体が気に食わないんだ」などと言い始めた。
分かっている。
本気ではないのかもしれない。
彼らとしても収まりがつかなくなっているのだろう。だがそれでも彼女はその言葉だけは許せなかった。
「そんな事はありません! 動物を愛護する活動はこの社会にとって必要なものです」
だからそのように反論をしたのだ。
すると彼らの一人がこう返して来た。
「どんなに愛護したって、俺らは動物を食っているじゃねぇか。動物を愛護したいなんていうのはな、単なる偽善だ。そんな無駄な事は一切止めるべきなんだよ」
彼女はそれを聞いて唇を震わせた。
いくら何でも許せない。
ところが彼女が堪えきれず、それに怒鳴って返そうと思った瞬間、このような声が聞こえて来たのだった。
「――それは極論が過ぎます」
冷静な、澄んだ声だった。見ると見慣れない女性がいる。傍らには男性の姿があった。地元の人だろうか。彼は動物愛護活動に文句があってやって来た訳ではないようだった。顔つきを見れば分かる。精肉店の店員さんが“申し訳ない”と彼に無言で訴えているのが分かった。きっと困っている自分を見て店員さんが仲裁をしてくれそうな人を呼んでくれたのだろうと彼女は思う。
本当は警官を呼んで欲しかったが、事を荒立てると、この店の立場が悪くなってしまうのだろう。狭い地域社会では、人間関係には特に気を遣わなくては暮らしていけないのだ。致し方ない。
「なんだ、あんたは?」
苛立った様子で村の人達の内の一人が訊いた。女性は滔々と返す。
「これは失礼しました。私は大学で民俗学を研究している鈴谷と言います。話をお聞きして、差し出がましい真似かとも思ったのですが、誤解は解いた方が良いと思いまして。このままではお互いに無用に争い合う事になってしまいます」
“大学で民俗学を研究”という言葉に村の人達が反応しているのが分かった。そういった肩書きには弱いのだろう。
「誤解? 誤解って、何の話だよ」
と、少しだけたじろいだ様子で一人が尋ねる。インテリに対して臆しているようにも見えた。
「その前に別の話があります。先程、“動物愛護活動は不要”とおっしゃいましたが、あなた方は本当にそう思っているのですか?」
それを受けて村の人達は顔を見合わせた。彼らが何かを返す前に、鈴谷というその女性は更に続ける。
「魚や牛、豚などの霊に対し、慰霊碑の建立や畜魂祭が行われているのを知っていますか?」
村の人達は何も答えない。
“なるほど。民俗学を研究しているだけあってそれらしい切り口だ”と、彼女は思った。鈴谷は続ける。
「確かに私達は動物を犠牲にして生きています。ですが、それに罪悪感を感じてもいるのではないでしょうか? だからこそ、動物達に対して慰霊や供養が行われているのです」
それに対して、村の人達のうちの一人が口を開いた。
「それだって、本当に必要なのか分からないでしょーが」
多少、怯えているような表情だった。“信心”が絡む内容だからだろうか? 神仏は敬わなければならないという気持ちがあるのかもしれない。
軽く溜息をつくと鈴谷は言った。
「コールバーグの道徳性発達段階説をご存知ですか?」
何の話だ?
恐らく、そこにいたほとんどの者はそう思っただろう。だが、彼女はそれに構わずに語り続けた。
「文字通り、道徳の発達に関する説です。この説では、罪や報酬の段階、つまり、罰が与えられるからそれに従う、報酬が得られるからそれに従うといった段階がまずあり、次にルールだからそれに従うという段階に進み、最終的には機能面に注目した段階に至り、普遍的な道徳観を築くとしています。
ただし、この最終段階については批判もあるのです。コールバーグは一部の白人男性のみを対象にして調査を行ったらしく、それでは普遍的とはとても言えないというのですね。私もその点については問題だと思います。そして更に指摘するのなら、彼の説は男性原理に偏り過ぎているようにも思うのです」
――男性原理。
また謎の言葉が出て来た。ただ、字面からなんとなく皆は雰囲気を感じ取っていたようだったが。
「男性原理は、ルールを守る。優劣に拘る。秩序を重視するといったようなものを言います。それに対して女性原理は感情を重視します。分かり易く、男性原理は“ルールを守らせよう”とし、女性原理は“感情を調停しようとする”と理解すると良いかもしれません。それだけではありませんがね。
誰かを守り、助けたいと思う気持ち。これは子供を育てるという動物の本能から生まれた典型的な女性原理的と言えるでしょう。
――誰かに食糧を与える。男性原理的に捉えるのであれば、立場が上の者に対しての行為と解釈されるでしょうが、女性原理的に捉えるのであれば、弱い者、庇護すべき“可愛い”存在に対しての行為と捉えられます」
何の意味があるのかと思いつつ彼女の説明に耳を傾けていたそこにいる者達は、ようやくそこに至って彼女が何を言いたいのかを察したようだった。
「人間は感情の機能を人間以外の動物にも働かせてしまいます。それを欠点と捉えるべきなのかどうかは分かりませんが、だからこそ人間以外の動物も助けたいと思ってしまう。それを否定する事はできないと思います。もし仮にそれを“間違った事”としてしまったなら、恐らくは人間同士の関係にすら悪影響を与えてしまうでしょう。殺人や暴力、虐めや諍いが増えるかもしれません。だからこそ、動物愛護のような活動を完全に否定しては駄目なのだと私は思うのです。動物達に対する慰霊や供養も、きっとそのような役割を担っています。
それに、熊だって我々にとって役に立っている可能性は充分にあります。肉食獣という存在は、自然界のバランスを調整する役割を担ってもいるからです。千葉県の房総半島でシカ科の外来動物であるキョンが大量に繁殖して問題になっているのだそうですが、房総半島に熊は棲息していないのです。熊がもし仮に棲息していたなら、問題になるまでキョンは増えなかったかもしれません。或いは、他の地域でも、熊が棲息していなかったのなら、キョンの繁殖が大問題になっていた可能性だってあるのです」
そう彼女が言い終える頃には、そこにいる者達は皆説得されていた。誰も反論しようとはしない。南堂は彼女の“思想”に素直に感心していた。自分も似たような事を考えてはいた。がしかし、ここまで整理できてはいなかった。
「……だけど、だからって熊を誘き出すような真似をしてもらっちゃ困るんだよ」
その内に呟くように一人が言った。それに鈴谷は大きく頷く。
「もちろんその通りです」
しかし、それから何故か悩ましげに首をゆっくりと左右に振るとこう続けるのだった。
「ですが、今回の“榊さんの犯行”は、動物愛護とは何の関係もありません。立証は困難かもしれませんし立証するべきかどうかも分かりませんが、これは殺人未遂事件です」
“――なんだって?”
彼女の言葉に南堂は目を大きく見開いた。
殺人未遂なんて単語が出てくるとは思ってもいなかったのだ。説明を求める雰囲気に促されるように鈴谷は口を開いた。
「榊さんの行動が熊を助ける為だとした場合、色々と不可解な点があるのです。まず、“熊を殺すな”と主張する人の多くは他の地域に住んでいる場合が多いそうです。熊の被害を受けるの地元ですから、これは納得できるでしょう。ですが、皆さん知っているように彼女は熊が出没する村に住んでいます。
第二に、彼女はここに来るまで、一切、動物愛護活動をしていなかったようなのです。ネットで友人に調べてもらったのですが、どうもそのような活動に興味のある人ではなかったようです。
そして、第三の点ですが、榊さんは焼いた肉を熊に与えていました。これは熊を助けようと思うのなら絶対に有り得ません」
「何故、そう言い切れるんだ?」と、誰が尋ねる。「熊が病気になってしまうからですよ」と彼女は淡と答えた。
――病気?
説明を続ける。
「知っての通り、人間は雑食性の生き物です。色々な物を食べられます。それによって人間は様々な地域に生息域を広げる事が可能になりました。それは人間の生物としての優れた特色の一つと言えるでしょう。
……ですが、デメリットもあるのです。
その所為で、人間は多種多様な食物を食べないと栄養が偏って病気になってしまうようになってしまったのです。毎日、肉ばかりを食べ続けていたらコレステロール値が上がって病気になってしまうでしょう?
そして、熊…… この辺りに棲息しているツキノワグマも雑食性で知られており、むしろ植物食が中心だとも言われています。ですから、餌を与えようと思ったのなら、木の実などが中心になるはずなのです。焼いた肉…… つまり、調理された肉の味を覚えてしまったのなら、熊はそれだけを欲するようになるかもしれません。この辺りでは、牛や豚などが熊に襲われる被害が頻発しているそうですが、或いはそれはその所為だった可能性もあります。そして、肉食ばかりを続けていたら熊は病気になってしまいます。実際、北海道のヒグマでそのような事例があります」
一人が言った。
「いや、でも、知らなかったのかもしれないじゃないか」
「熊を助けたいと思っていたなら、食性くらい調べるのではないですか? ですが、誘き出すのが目的だったなら……」
それを聞いて、南堂は思わず呟くように声を発していた。
「肉の方が良い」
鈴谷は頷く。
「その通りです」
それから誰かが疑問を口にした。
「いやしかし、それってつまりは熊を誘き出して誰かを殺させようって言うのだろう? 一体、誰を殺そうって言うんだよ?」
「それは……」と彼女はそれに返す。言い難そうにしている。そしてそれから彼女は悲しそうな瞳を遠くの方に向けたのだった。
加藤正門は鈴谷らと一緒に病院に来ていた。
田舎にある病院にしては設備が整ってる。清潔で大きな病室に、彼女、榊美穂はいた。病室を訪ねたのは、加藤と鈴谷と村の者達数人、あとは南堂という動物愛護団体の一員。病院なので、多人数で来るのは憚られたのだ。これでも充分に多いかもしれないが。
加藤らが病室に入ると、榊は驚いた様子で「なんですか? あなた達は?」と言った。ただ、抗議をするような雰囲気はそこにはなかった。
「熊について話を聞きたいと思いまして」
そう鈴谷が言った。「何を……」と、榊は言いかけて彼女の目を見て何かを察したのか。
「そうですか。気が付いてしまったのですね?」
と、まるで観念するように告げる。
「あなたは息子さんが襲われたのは、自分の所為だと言ったそうですね」
「はい。言いました。どうして知っているのですか?」
「ネット上で、今あなたは悪者になっています。熊に肉を与えていた動物愛護団体の一人が、地域社会に迷惑をかけ続けた上に自業自得で熊に襲われた、と。巻き込まれた子供が可哀想だとも言われているようですよ。それで、あなたを庇う為に、ここの看護師さんがコメントをしてくれていたのです。ショックを受けているから、今は責めるのは止めてくれと」
「そうですか」と榊はそれに返した。多少、自棄になっているようにも思えた。鈴谷は断罪の言葉を続ける。
「あなたの計画は、蓋然性に頼っていて、確実性に乏しいです。恐らく“殺せれば嬉しいが、殺せなくても構わない”くらいに思っていたのでしょう。ですが、その代わりに殺人が立証ができないように工夫された緻密で辛抱強い計画のように思えます。が、実際は随分と杜撰ですね。ご自分が襲われる危険もありましたし、それにこれだけ悪評が立ってしまっては、例え法律上の罪にはならなくても、あなたはこれから先、随分と生き辛くなってしまいますよ?」
「そうかもしれません」
加藤は榊の様子から違和感を感じていた。犯行の露呈を恐れた殺人犯の態度には思えない。罪は認めているように思える。がしかし、それは開き直った太々しい態度ともどこか違っていた。
「……さっき聞きました。あなたのお子さんは少しずつ快方に向かい始めているようですね。完全に回復をすれば、あなたの計画は全て失敗に終わる事になります」
それを聞くと初めて榊は悲壮な表情を浮かべた。
そう。
榊美穂。
彼女が熊を誘き出して殺そうとしていたのは、なんと実の息子だったのだ。土井が見つけた焼いた肉塊は彼女の家の近くにも置かれてあったらしい。そして、当時、熊が目撃され、近くには注意喚起が促されていたが、彼女はリビングで大きな肉の塊を焼いていた。つまり、熊がいつ出没してもおかしくない場所で彼女は子供を遊ばせていたのだ。もちろん、熊が現れて我が子を食い殺してくれる事を期待して。
「あなたのその身勝手な計画は、色々な人に迷惑をかけています。そういう意味では、通常の殺人よりもよっぽど性質が悪い。熊害に苦しむ地元の人達、熊に餌を与えていると疑われてしまった動物愛護団体の方達。皆さん、とても困っています」
そこで榊は南堂を少し見やった。動物愛護団体に入る時に知り合っているのかもしれない。多少、申し訳なさそうにしているように思えた。
「あなたがうちの団体に入ったのは、大量に肉を買っても怪しまれないようにする為だったのですね?」
南堂が尋ねると榊は俯いてしまった。
「一緒に活動してくれる人は少ないですから、嬉しかったのですが」
それにも何も榊は返さない。
南堂は榊はほとんど動物愛護団体の活動に参加してくれなかったと言っていた。カモフラージュに団体を利用する為だったのだとすれば辻褄が合う。
しかし、加藤には一つ疑問があった。
子供の殺害が目的だったとしたなら、何故、榊は子供を助ける為に外に飛び出したのだろう? 家の中にいれば良かったはずだ。そこで鈴谷が口を開いた。
「子供を助けようと外に飛び出したのもカモフラージュですかね? 大人の自分なら、命までは奪われないと高をくくったのでしょうか? 熊は病気で弱っていたようですから、あながち間違った予測ではないかもしれませんが、思い切った事をしましたね」
ところがだ。それを聞くと榊は我慢の限界といった様子で「違うのです」と訴えたのだった。苦悶の表情を浮かべている。その表情はそれまでのものとはまったく違っていて、まるで助けを求めているように加藤には思えた。
「外に出る気なんて、私にはなかったのです。警察に連絡だけして、後はあの子が熊に襲われるのをただ眺めているつもりでした。なのに、あの子が熊に襲われて、私に助けを求める声を聞いた瞬間、どうしてなのか勝手に足が動いて、気が付くと、外に飛び出していたのです!」
言いながら、彼女は涙をこぼしていた。
「殺す…… つもりだったのに」
力なく項垂れる。
その告白を聞くと、悲しそうな瞳で、鈴谷は彼女を見やった。
「どうして、お子さんを殺そうなどと思ったのですか?」
「夫との関係が上手くいっていませんでした。お金はありましたから、私とあの子は別荘で暮らすようになって…… 夫はあの子の事は私に任せっきりで、ほとんどここには訪ねて来ませんでした。この辺りには知り合いもいませんし、私は閉塞感に苛まれるようになったのです。
そして、そのうちに、私は“この子さえいなければ、自由になれるのに”と思うようになってしまって…… 離婚しても、どうせあの人は子供の世話なんかしませんし」
そう言い終える彼女に向けて、鈴谷は尋ねる。
「後悔をしていますか?」
「後悔? どの事を言っているのでしょう? 後悔している事が多すぎて分かりません」
「質問をし直します。あなたはお子さんを、もう一度抱きしめたいと思っていますか?」
「それは……」と彼女は言い淀む。そしてそれからゆっくりと「はい」と答えた。
「私はきっと色々な事が狂ってしまったのだと思います。そのうちに訳が分からなくなって、それで……。でも、あの子に対する想いだけは、根っこの部分では変わらないで残っていたのだと思います。それに気付いていなかったけれど。だから、多分、今でも抱きしめたいと思っているはずです」
「そうですか」と、それに鈴谷は返した。
「では、元気になったら、お子さんを優しく抱きしめてあげてください。それがあなたのお子さんへの唯一の罪滅ぼしになると思いますから。少なくとも、私はあなたを罪には問いません。ただ、動物愛護団体の方達の迷惑になるので、その誤解だけは解いてください。あなたが独断で、熊を助けようとした事にするのです」
子供に真実を伝えるのはあまりに酷。だから、鈴谷はそう提案したのだろう。
それを聞くと榊は南堂を再び見た。何を思っているのかは分からなかったが、「はい」と応えた。誤解を解くと言っても、一回ネットに広がってしまった噂を取り消すのは並大抵の事ではない。きっと苦労するだろう。
村の者達は意外にも何も言わなかった。恐らくは、もうこれ以上、熊に餌を与えるなどといった馬鹿な真似をしないのであれば何も言うつもりはないのだろう。彼らも子供にきっと同情している、或いは榊にも。怪我が治ったら彼女はもう村を出ていくのだろうし。
……その時、窓の外を強い風が吹いた。
ひょっとしたら、また何処かで熊が殺されたのかもしれない、と加藤は思った。
鈴谷さんが大学に戻って来た。
連絡くらいくれれば良いのに、いつの間にかサークル室に彼女はいて、いつも通りに本を読んでいた。
「戻って来たなら言ってよ」
そう文句を言うと、まるで変な物でも見るような目つきで彼女は僕を見た。そして「佐野君に言う必要はないわよね?」などと薄情な事を言って来る。
「ところで、旅行はどうだった? 何か収穫はあった?」
めげずにそう尋ねると、「あったと言えばあったわね」などと彼女は返す。しかし、それから僕をじっと見て、
「ただ、熊風の噂は結局聞かなかったわ」
と続けた。
僕を責めているのかどうかは分からなかった。それから遠くを見つめるように窓の外に目をやると彼女はこう言った。
「……でも、熊風の伝承が生まれたのは、やっぱり熊が可愛いからじゃないかとは少し思ったわね」
そう言った彼女は、なんだか不思議な表情をしていて、彼女が何を思っているのか、僕にはまるで分からなかった。
「どうしてそう思うの?」
と、尋ねると、
「吹いたからよ、熊風が」
などと彼女は妙な事を言うのだった。