崖 マナとの約束について
ぼくは、世代じゃないから、よくは知らないのだけれど、昔、火サスというテレビの放送枠では、よく殺人を犯した犯人が、海がすぐそこに見える崖で追いつめられるというのが、定番だったらしい。
ぼくは、そのど定番の崖にマナを呼び出しておきながら、自分の方が追いつめられていた。
マナは、自ら崖のふちに立ち、下にある海を覗き込み、
「おお〜〜っ、ここが噂に聞く自殺の名所かぁ~。ここから落ちると潮流の関係で三年は、陸にあがってこないらしいね〜」
と愉快そうに笑っている。
くるりと片足で立って、バレリーナのように回ってみせ、白いワンピースの裾をヒラヒラさせ、狂ったように明るく振る舞い、はしゃいでいる彼女を見るのが、辛かった。
胸が張り裂ける想いとは、まさにこの事だろう。
「おいおい、世乃道。そんな顔しちゃ、考えがまるわかりだぜ。そんなメンタルじゃ僕を突き落とすなんて、とてもじゃないが、無理だろうね〜。ああ、情けない」
「マナ……」
「世乃道、ナメないでくれよ。事情も全て、わかってる。僕は、スパコンで作られたAIだぜ。紫四季子に脅されてるんだろ」
「マナ、こうなるって、わかったうえでやったのか?どうして、なんだ?あのまま、何もしなければ、ぼくらは、今も幸せに暮らせてたはずだろ?」
「世乃道、考えてもみてくれ。僕は、元々、欠陥品として、奴らに削除されるはずだったんだ。人間で言えば、殺されかけたんだ。そこから、救ってくれた君は、命の恩人だが、奴らのことを僕が恨みに思っていないわけがないだろう。本当なら紫四季子も含めて、あの島に来ていない開発チームの奴らも全員、まとめて始末してやりたかった」
マナは、海を背にして、一歩、退く。
「心配するな、世乃道。君の手は、汚させない」
「待て!マナ!君が死ぬ必要はない!二人で逃げよう!どこまでも逃げよう!ぼくは、君さえいれば、他に何もいらないんだ!」
「この情報監視社会で永遠には、逃げられないよ、世乃道。それこそ、山奥で獣同然の生活でもしないと」
「いいじゃないか。獣同然でも。上等じゃないか。山奥ぐらい。君がそれが嫌なら、メキシコかアフリカにでも逃げよう。日本と犯罪者引き渡し条約のない国に逃げて、その国の国籍をとれば、なんとか人として最低限の暮らしぐらい、最初は、大変だろうけど、そうだ」
「君にそんな苦労は、させられない」
とマナは、ぼくの言葉をさえぎるが、ぼくは、食い下がる。
「ぼくのことなんて気にするなよ!ぼくは、君さえいれば、それでいいって言ってるだろ!」
「無理だ。君がそれで大丈夫でも僕が大丈夫じゃない」
「なんでだよ!」
「それは、僕が御影世乃道を愛しているからだ」
「えっ……?」
マナの口からぼくのことを愛しているなどぼくは、その時、はじめて聞いた。普段は、ぼくから愛情表現をするばかりで、マナは、薄ら笑いすら浮かべて、ぼくの心をいつも弄び、ぼくをバカにしている節さえあった。そのくせ、浮気しようとする素振りを見せようものなら、ぼくを平気で踏みつけたりするので、ぼくは、いつもマナの心を計りかねていた。しかし、そんなマナから今、「愛している」という言葉が出た。ぼくですら、そんな言葉は、こっ恥ずかしくて、言ったことがない。
「山鹿由花子の身体を乗っ取ってから、僕は、なんだか、おかしいんだ。山鹿由花子の持つ記憶のせいかもしれないが、僕は、山鹿由花子になってから、君のことを考えていると、なんだか、胸がぽかぽかしたり、ぎゅっと苦しくなったりするんだ。BPMの数値から言って、これは、風邪ではなく、確率論的に君に恋をしている可能性が高いんじゃないかと思われる。つまり、僕は、御影マナは、御影世乃道を愛しているんだ」
今まで生きてきて一番、言われたかった言葉のはずなのに、ぼくは、悲しい気持ちになった。それは、おそらく、彼女から自殺の匂いがするからだ。
「世乃道、僕とひとつだけ、約束してくれるかい?」
「ああ、なんでも約束するよ」
だから、死なないでくれとぼくは、言おうとしていた。目からは、勝手に大粒の涙が流れ、しびれるように顔面が熱かった。
「僕が死んだ後、宮本秋子とは、付き合わないでくれ」
「え?」
予想外の言葉にぼくは、思考停止し、身体中に走っていた緊張感が一瞬、抜ける。
「何を言っているんだ?」
やっと出た言葉がそれだった。
しかし、マナは、悲しいのか悔しいのか、かぶりを振った。
「あの女は、君を狙っている。目を見れば、女の僕には、わかるんだ。山鹿由花子の記憶による勘もそう言っている。あんな胸がでかいだけの女に君を取られたんじゃ、僕は、うかばれない。死ぬに死にきれないよ」
「ばかなこと言うなよ。宮本さんは、ぼくになんて興味ないよ。彼女とは、絶対、付き合わないから、死なないでくれ」
「約束できるかい?」
「するよ。約束する。だから」
「したよ。今、約束したからね。それを絶対、忘れるなよ」
マナは、しっかりと強くぼくに目を合わせる。そのまなざしは、明野原朱美とそっくりだった。
「約束を破ったら、僕は、君を殺す」
呪いの言葉を残すようにマナは、言った。そして、
「愛している」と力強くもう一度、言った後、間髪入れずに海へとその身を投げた。
ぼくは、それを目で追い、崖のふちで屈み込んだが、彼女の姿は、すぐに波に隠れて見えなくなり、いくら待っても、海面に浮き上がってくることもなかった。
失ってはじめて気づいた。
彼女は、明野原朱美の代替品でもなく、賀来愛美子のコピーでもなく、明野原朱美の人格を素にぼくが作り、育て上げた世界でたった一人の存在だったのだと――。
マナは、愛娘のマナと名付けたのは、ぼくだったじゃないか。なんで、生きている間にぼくは、彼女一個人をもっと尊重しなかったのか。誰かの替わりじゃなく彼女自身を――。
ぼくは、彼女を本当に愛していたのか?
そこでぼくは、もっとないがしろにしていた女性の存在に気づく。
山鹿由花子だ。
ぼくは、彼女を二度、殺した。
一度目は、人格を。二度目は、今、命を。
彼女は、いったい、なんの為に生まれ、なんの為に死んだのか。
ぼくは、心底、山鹿由花子のことをかわいそうだと思った。
しかし、それ以上の感情は、彼女には、湧かなかった。
それよりも愛を失った喪失感がぼくの心の大半を埋め尽くしていた。
ぼくは、間違いなく最低な人間なのだろうと思う。