シャワー 明野原朱美について その2
山鹿由花子の身体を乗っ取った愛は、上手く山鹿由花子を日常で演じてくれた。
山鹿由花子の両親が上京して山鹿由花子の様子を見に来た時もマナは、山鹿由花子の記憶を頼りに卒がなく娘を演じきり、自らの正体を見破られることはなかった。
唯一の山鹿由花子らしくないところは、山鹿由花子の特徴的だった黒髪のおかっぱを鮮やかなオレンジ色に近い茶髪に変えたことで、それ以外の彼女の変化に気付く者は、いなかった。
「ふーーっ、お風呂は、人類最大最高の発明だね、世乃道」
ぼくと二人きりの時だけマナは、チャンネルが切り替わったように喋り方や動作が山鹿由花子のものからマナ本来のものへと変わった。
そして、ぼくとぼくの自宅にいる時、マナは、何故かいつも裸だった。日に六回は、入浴し、一時間以上は、シャワーを浴びていた。
「この一粒一粒の水滴が当たる触感がたまらない。これは、人間にならなければ、得られなかった体験だよ」
と日に何度も彼女は言っていたが、理解し難かった。
しかし、山鹿由花子の肉体とはいえ、あの彼女がぼくの家でシャワーを浴びているなんて変な気分だった。
いや、いやらしい意味ではなくて。
いや、いやらしい意味なのかもしれないが。
生きている彼女とこうやって、共同生活できる日が来るなんて、あの頃は、思いもしなかった。
あの頃、あの雨の日、ぼくは、彼女と会うのは、あれっきりになるのだろうと思っていた。
マナがはしゃいでいるシャワーの音を聴きながら、ぼくは、また、あの頃の彼女を思い出していた。
「明野原朱美さん、ただちに事務室にお越し下さい。お父様がお待ちです」
という校内放送をぼくが聞いたのは、高校二年の二学期の放課後で、まだサッカー部の練習終わりのとんぼをしている最中だった。
「明野原、今日、学校に来てるのか?」
明野原朱美とは、あの夏休みに会ったきりで、彼女は、何故か、二学期に入ってから、一度も登校しなかったので、ぼくは、人生で初めて書き上げた小説を彼女にまだ見せれずにいた。
一番、最初に見せるのは、明野原とぼくは、決めていた。
何故なら、ぼくのプランでは、明野原に最初に書き上げた小説を見せて、その内容の良さと完成度と光るセンスに彼女が感激して、彼女の方からぼくに文芸部に入ってほしいと頼み込み、ぼくは、渋々、承諾するという予定だったからだ。
とんぼを終えたぼくは、練習用のユニフォーム姿のまま、スポーツバッグを肩に担ぎ、サッカーシューズで校内の事務室まで走った。
が、ぼくが着いた時には、そこに彼女の姿はなかった。
ぼくが思いつくかぎり、彼女が放課後、他にいそうな場所は、ひとつしかなかった。
ぼくは、二階に駆け上がり、文芸部の部室の扉を開いた。
中には、貴島先輩しかいなかった。
「朱美なら、いないぜ」
貴島先輩は、前と同じパンツおっぴろげのポーズで机に両足を上げた状態で言う。
「もう帰ったはずだ。もう一度、会いたきゃ走れ、少年。走ってしまえ」
言われて、また走り出そうとしたぼくを貴島先輩は、
「おい」
と呼び止める。
「朱美に、もし、会えたら、言っといてくれ。部が潰れたとしても、お前のせいじゃないって」
なんだ、その嫌な予感しかしないセリフ。
ぼくは、「ありがとうございました!」とわけもわからず言って、夢中で走り出した。
階段も何段か飛ばして、ジャンプして降りる。
彼女の姿が見えたのは、ロッカールームを抜けて校舎の玄関を出てからだった。
明野原朱美は、玄関前の屋根のかかっていない外で、いつの間にか降り出した雨に打たれていた。
悲劇のヒロインみたいに。
ぼくが一番、嫌いなタイプは、悲劇のヒロインぶる女だ。
ぼくは、その光景を見た時、 ゔっ と思った。
「どうしたんだよ、明野原。雨に打たれて、悲劇のヒロインごっこか?」
ぼくは、気づけば、明野原に対する好意とは、裏腹ないじわるな言葉を吐いていた。
明野原は、ぼくの方を向いて睨んで、
「あんたか……」
とつぶやき、
「傘を持ってないのよ」
と答えた。
「なら、こっちに来て、雨宿りしなよ」
ぼくは、校舎の屋根の下から言った。
「いいわ」
と明野原は、その場から動かず、雨に打たれ続ける。
「そう」
としかぼくは、言えない。
スポーツバッグの中をまさぐる。なんか気まずい空気だから、用事だけでも済ましてしまおう。
「あのさぁ、前、君の小説、見してもらってからさ。ぼくも小説、書いてみたんだよ。なんだか、これなら、ぼくでもできそうだな〜って思ってさ。まだ、誰にも読んでもらったことは、ないんだけど、控えめに言って傑作だと思うんだよね」
ぼくは、スポーツバッグからシワくちゃな原稿用紙の束を取り出して、明野原に差し出した。
「読んでよ。君の率直な感想、聞かせて」
明野原は、目を丸くして、それを受けとった。
「なんで、原稿用紙なの?」
「君、携帯もPCも持ってないんだろ?データじゃ渡せないじゃん」
「私に合わせたってこと?」
「郷に入っては、郷に従えさ」
「馬鹿にしてんの?」
「そんなつもりは、ないよ。ぼくは、ただ君にぼくが書いた小説を読んでほしいだけさ」
できれば、雨の中では、読んでほしくなかったが。結構、苦労して書いたし。
彼女が読んでいる限り、ぼくは、原稿用紙が雨にびしょ濡れて、くたくたのへなへなになっていくのをただ見ているしかない。
なんの刑だ、これは。想像の世界と現実では、だいぶ違うシュチュエーションだ。想像の世界では、もうこのへんで明野原は、「天才よ!天才が現れたわ!」と騒ぎだし、「素晴らしい文才だわ!これぞ、私の求めていた遺伝子だわ!結婚よ!あなたの子を生ませて!」とぼくに接吻する頃合いだ。
なのに、ぼくの書いた小説を読む明野原の顔は、一秒経つごとに険しくなるばかりだ。
ぼくは、作品の意図が正しく明野原に伝わっていないんじゃないかと疑い、わかりやすくプロットの説明をしてみる。
「主人公は、足フェチの高校二年の男子生徒でクラス一足のきれいな女に告白する。しかし、主人公は、女の足ばかり見ていて、自らが告白した女の名前を知らなかった。当然、主人公は、女に振られて、失意のどん底に落ちる。そこに一人の美少女が、いや、きれいな素足が現れ、彼は、その足に恋に落ちる。しかし、その足は、実は、美少女の足ではなく、美少女に女装した男の娘の足だった。主人公は、普通の女性よりも異性ではない者のその足に自分が性的興奮を覚えていると気付き、最後、男の娘の足の親指を呑みこむようにしてしゃぶりつき、永遠の愛を誓うっていうのが、大まかなストーリーなんだけど、どう?斬新だろ?タイトルは、Legにしようと思うんだ」
「なんでよ」
「え?」
彼女のか細い声にぼくは、聞き返した。
「なんで、あんたみたいな奴には、こんなものを書く時間があるのに、私には、それすらないの」
「なんのこと?」
明野原は、ぼくに喋っているのではなく、世界全体に恨み言をぶつけているようだった。剣呑で力の込もった強い意志をその瞳に宿らせ、きらりと光らせている。
「私、これから小説が書けなくなるのよ。学校に来るのも、これが最後」
「病気か何かかい?」
ぼくは、シンプルに心配になって訊いた。
「違う。学費未納。私の父親、私の奨学金を使い込んでいたの」
「つまり、君、退学するの?」
「ええ、それどころか、これから毎日、奨学金を返す為に働かなくちゃいけないの。奨学金を使ったのは、あいつだけど、名義は、私になってるから」
「良くない大変な状況なのは、わかるけど、親をあいつだなんて、言っちゃいけないよ」
「どうして?家に一切、食費を入れないような男よ。母にパートさせて、食費を稼がせているのに、なんの罪悪感もなく、家賃と光熱費を払ってるから、ええやろ とか言う奴よ。しかも、その家賃と光熱費も私の奨学金で払っていたのよ。今日、学校の事務室で学費を払ってくださいって、事務員の人に言われて、あいつなんて言ったと思う?払えるようになったら、払ったる だって。それで済むわけがないでしょ。だから、私は本日付けで退学になったわけ」
明野原は、平気そうな口振りだったが、目が充血して真っ赤になっていた。雨でわかりにくいが、ひょっとして、泣いているのか。
「経済的に大学に行けないのは、わかっていた。だから、高校の三年間が勝負だった。三年間のうちに小説家デビューすることが私の唯一の勝ち組になる方法だと思っていた。貧乏から抜け出せると。でも、そのたった三年も私には、なかった。一年間365日毎日毎日、小説のことだけ考えて、頑張って書いても書いても新人賞一つ取れないのに、これから働き詰めで私に何が書けるというの。おまけに奨学金をあいつが借りられるだけ借りてたから私の借金は、500万近くある。ゼロからのスタートじゃなくマイナスからのスタートなの。わかる?信じられる?私、あなたと同い年よ」
雨は、まだ止まない。濡れれば濡れるほど、彼女は、饒舌になった。
「当たり前じゃないからね。携帯があるのも、普通に学校に行けるのも、借金がないのも、全部、お前らが当たり前と思ってること、当たり前じゃないから」
明野原朱美は、天を仰ぐように顔を上に向ける。
雨雲に切れ間ができ、日差しが彼女に降りそそぐ。スポットライトのように。
「上等じゃない。働いて働いて働きまくって、借金なんて、すぐに返してやる。小説も諦めない。書いて書いて書きまくって20代のうちには、デビューしてやる。私は、絶対に負けない」
毅然とそう言う明野原朱美は、神々しくもあった。
「働くってどこで働くの?大人になったら、お金、落としに行くよ」
「テメー、絶対、何か勘違いしてる」
「え?借金、返す。働く。イコールお水かフーだろ?」
「誰が女を売りにして働くか。そういう仕事だけは、私は、絶対にしない。未来の文学界を背負う大作家になるんだから」
彼女・明野原朱美の小説が書店に並ぶようになったのは、それから、三年後、ぼくが大学二回生になった頃だった。
彼女は、すっかり有名人になってしまい、テレビで彼女を見かける度、ぼくは、懐かしむような悲しいような気持ちになった。
彼女が手の届かない遠くの存在になったと感じたし、まったく昔と違う別人になってしまったとも感じた。
テレビに映った彼女を見て、ぼくは、「お前は、誰だ?」と何度もつぶやいたことがある。
「お前は、本当に明野原朱美か」
「んーー、なんか言ったか?世乃道」
浴室から上がったマナがぺたぺたと床に音をたてて、近づいてくる。
「ハグー。世乃道。ハグー。」
今は、とりあえず、これでいい。
ぼくは、愛の小さな身体を抱きしめ、オレンジ色に限りなく近い茶髪にキスをした。