高校時代 明野原朱美について
ぼくの人生で最も輝かしかった頃と言えば、やはり、高校生時代だろう。
高校生だった頃のぼくは、勉強もできたし、スポーツも万能でサッカー部のチームメイト達が頼りにする鉄壁の右サイドバックだった。教師達からの評判も良く、イジメをやるなどの問題行動も起こさず、逆にイジメられることもなく、周囲と上手くやっていた。
誰の目から見ても優等生といった感じで、今とは、全く違う意味で人生、こんなもんだろ。と思っていた。
中学時代の友達は、皆、ぼくより頭が良く、ぼくが進学した高校より何ランクも偏差値の高い学力上等な高校に揃って進学した。中学時代の友達と同じ高校に通いたかったぼくは、学力最下等の高校でも学年で一位の成績を取れば、別の偏差値の高い高校への編入試験を受けられる、という父の口車に乗って、渋々、大阪中の阿保が集められたような高校で我慢して、その場しのぎをしていただけだったのだが……。
結果、人生ではじめて、まともに勉強をやったぼくは、学年で一位の成績は、取れなかった。最高で学年で三位までだった。
上位2名は、家が近いからとかいうふざけた理由で阿保校に入学した本物のかしこ(頭の賢い奴)達が独占していて、ぼくの天井は、そこまでだった。
けれど、自分の学力の限界がわかる頃には、もうその高校で新しい友達もできていたし、このままこの高校に居れば、どうやら、なんの努力もせずに指定校推薦で大学にも行けそうだ、という事がわかっていたので、学年で一位の成績を取って中学時代の友達と同じ高校に編入するというプランは、すでに消えていた。
友達関係も上手くいっているし、学力や運動能力で自分に敵う者も校内にほとんどいない。その時の自分の心境は、まさに王様気分だった。
すべてが好転しているように思えて、とにかく気分が良かった。
しかし、大人になってから、あの時、自分は、何も好転などしていなかったのだと気付く。
何故なら、学力弱小校出身者が指定校推薦で行ける大学など程度が知れてるし、むしろ、学歴にその大学の名がない方が就職に有利に働くくらいで、何もその後、社会人として働くうえであの高校にいた事や大学に進学した事が役に立った事がなかったからだ。
しかも、その進学したクソ大学の中でさえ、ぼくは、一番には、なれなかった。高校で学年三位だった学力は、大学では並の評価に変わり、自慢の運動能力も大学に入ると、ぼくとベクトルの違う才能を持つ者達に圧倒された。
バスケだろうとサッカーだろうとパスがダンチで速い奴、それを平然と受ける奴、運動能力が高いうえに頭が良く、その頭脳をすべてのプレーに活かせる運動IQの高い奴、運動能力が高いだけじゃなく、協調性があり、ほぼ初対面のチームをまとめるザ・リーダーな奴、生まれながらにして並外れたゲーム勘を持つギフト系の奴。
もちろん、大学には、凄い奴だけじゃなく、あきらかにぼくより能力の低い奴もいたが、スポーツにおいて誰かに圧倒されるなんて経験は、高校時代には、なかったことだった。
まさに裸の王様状態、いや、井の中の蛙が正しい。
恥ずかしい話、高校時代が自分の人生のピークだったと気付いたのは、その頃でもなく、大学を卒業してから何年も経った後だった。
だから、高校生当時の自分は、そんなことなどつゆ知らず、周りと歩調を合わせつつも、心の中では、周りをバカにしていたと思う。
「国語で100点なんて、どーやって取んだよ。マジ、世乃道、おま、天才通り越して怪物だぜ。人間じゃねぇよ」
と言う友達のことも、「そんなの、ちゃんとノート取って、先生が、ここテストに出るぞ、って言ったところをチェックしてれば、フツーに取れるわ、あほ。学力弱小校でイジワル問題も出ねぇんだから。点数、取れないのは、やることやってないテメェらが悪い」と実際にバカにしていた。
角が立つから声に出して言うことは、なかったが。今は、そのバカにしていた連中に完全に人生を逆転されてしまっている。
バカで大学に行けなかったアイツらは、学校が就職先を積極的に斡旋してくれて、最初から正社員。すでに子供が三人いるという奴も少なくない。
一方、高校生の頃、優等生だったぼくは、大学まで出ておいて、配布のバイト中にジュースを飲んでいたという理由でクビになったり、調理バイト中に店長に蹴って指示され、キレて辞めたり、やっとのことで採用された引っ越し業者がホモの巣窟で逃げ出して辞めたり、水道管設備のバイト先の先輩連中の飲みの誘いを連続で断って、クビになったりとバイトを転々として定職に就かない日々を送っている。
当然、独身で恋人はいるが、子供はいない。今から子供を作って、子供が二十歳を迎える頃、自分が何歳なのか、考えるとぞっとする。
結局、バカは世間に強いが、バカになりきれないバカは世間では通用しないということなんだと思う。
学校では、やることさえちゃんとやっていれば、それだけで評価された。
でも、学校で評価されていたことなんて世間では、評価されない。学校で通用していたことは、世間では通用しない。
世間では、これさえやっておけば、絶対に大丈夫というものがない。
だからなのか、そういう世間から目の前の現実から逃げたくて、余計にぼくは、彼女のことばかり考え、思い出してしまうのかもしれない。
ぼくがまだ通用していた時代。あの頃の彼女。
明野原朱美と出会った頃の自分に戻りたいとぼくは、おそらく、潜在的に強く思っているのだと思う。
あの出会い。オレンジ色に輝く校舎がぼくのその後の人生を決定づけ、今を埋め尽くしている。
どうしても、何度も想い出してしまうのだ。彼女と言葉を交わしたわずかなシーンひとつひとつを。
高校二年の夏休み。ぼくは、サッカー部の練習終わりに美術部の顧問に頼まれて、阿保校の美術室で絵を描いていた。
美術部の部員が少なく、文化祭出展スペースを作品で埋められないから、ピンチヒッターで何か絵を一枚でもいいから描いてくれとゴリ押しにつぐゴリ押しをされ、断れなかった。
美術部の顧問がぼくをピンチヒッターとしてスカウトしたのは、ぼくがたまたま選択科目で美術を選択していて、コラージュの授業の時にたまたまセンスのいい作品を作ってしまったからだった。
良くも悪くもあの頃のぼくは、周りと比べてよく目立った。
色塗りは、昔から苦手だからとぼくは、散々、断ったのだが、美術部の顧問は、「君は、センスが良いから、何か描いた方がいい」とまるで聞く耳を持たなかった。
結局、押しに弱いぼくの方が負け、夏休み期間中のサッカー部の練習終わりの空いたわずかな時間で完成させられる程度のものでいいのなら、という条件で一枚の水彩画を描くことになった。
あー、やっぱり、そうか。勉強や運動だけじゃなく、芸術もね。と同じ美術が選択科目の友達は、あきれていたが、ぼくが完成させた絵は、そんな大層なものではなかった。
数字の替わりにトランプのダイヤ、クラブ、ハート、スペードのマークが幾つもぐるりと円を描く形で並んでいる金時計。その金時計の短針と長針は、ダリの絵のように溶けるように曲がっている。右下の端を占領しているアップの金時計のバックには、紫に錆びついた牢があり、その中に一人の女性がいる。女性は、紫の牢が半分ほど溶けていて、外に出られるのに、牢の中にいて、そこから出ようとしない。正面ではない何処かを一点に見つめている。
そんな精神鑑定に出されてもおかしくない病的な絵は、最初、紫に錆びついた牢の色合いがばっちり出ていて美術部の顧問に絶賛された。が、他の部分を描いている時に絵の具がハネ、牢の部分にかかったのを修正しようと重ね塗りしたところで、全てが台無しになった。
元の紫に錆びついた牢の色合いを出せなくなったのだ。
絵を真剣に学ばず、感覚だけで描いていたぼくには、自分が過去に描いた絵を、色を、同じように再現する技術がなかった。
おそらく、他の美術部員に訊けば、何か手立てを教えてくれるんだろうが、他の美術部員は、もう自らの絵を完成させて、さっさと家に帰ってしまっている。
美術部の顧問も夏休みなので、たまに見に来るだけで、今、学校にいるかは、わからない状況。
オレンジ色に輝く校舎の美術室にいるのは、ぼく一人。
「まぁ、こんなもんだろ」
ぼくは、完全に失敗作に終わった絵をそれ以上、なんの修正もせず、提出する事にした。
結局、みんなに天才扱いされてるけど、地道にやってきた奴といざ、同じ土俵にたったら、ぼくなんて、こんなもんさ。
当時、ぼくは、自分がトータルの能力なら、学校で一番という自信があったが、何かその道で一つの分野で頑張ってきた奴には、それで勝負されたら、自分は、とても敵わないんだろうとも思っていた。
よく友達に「世乃道は、いつも頑張っていて偉いよな」と言われ、ぼくは、「頑張るって、なに?」とよく思っていたが、あの時の自分は、確かに勉強もスポーツも友達より頑張っていたんだと思う。
世の中の大半の天才と呼ばれる人達は、頑張るのが上手い人、努力を努力だとも思わない人、努力する才能がある人なんだと思う。
そういう本当に頑張っている人に当たったら、自分よりも頑張ってきた人に当たったら、自分は、負けるんだろうと当時から感じていた。
だから、美術部員とのガチンコ勝負は避け、わざと自分の納得のいっていない作品を文化祭に出すことにした。渾身の力作を出して自分よりも他人が評価されることが、たぶん、怖かったんだと思う。
俺は、なんでもできるんだぜ無敵マンの自分を無意識的に守ろうとしていたんだろう。
もう、この美術室にサッカー部の練習後、入ることはない。
そう思って、一階の美術室から出て、鍵を閉めた時、オレンジ色の光が射し込む校舎の廊下の遠くの方で何かが横切った。
一瞬だが、それは、この学校の制服を着た女子生徒に見えた。
バカな、今は、夏休みでこんな時間に校舎に生徒なんて、ぼく以外にいるわけ……。ひょっとして、幽霊?
いや、そんなわけない。ぼくは、オカルトは、信じない。
ぼくは、女子生徒が横切ったと思える付近まで近づいた。
そこには、女子トイレがあった。
ぼくが見た女子生徒は、女子トイレから階段へと向かって、横切ったはずだ。
つまり、女子生徒は、二階か三階か四階の何処かに向かったことになる。
ぼくは、気づけば、階段を登っていた。
二階に着いて、すぐだった。女子生徒が生徒指導室あたりで扉を開け、閉めて、その中へと消えた。
今度は、ばっちりと姿を見た。
オレンジに限りなく近い明るい茶髪のロングヘア。間違いないあの白い美脚は、明野原朱美だ。
一年の時、クラスが同じであの美脚は、何度も眺めたから見間違えようがない。
それまで一度も喋ったことはなかったが、小綺麗で他の一緒にいるクラスのギャル達と雰囲気が違うので、印象に残っていて、名前までフルで覚えていた。
美脚を視姦しているのがバレて、強く睨まれたこともある。
ぼくは、とりあえず、彼女が入室した扉の前まで行ってみることにした。
その扉は、生徒指導室の真隣にあり、文芸部とマジックインキで書かれた張り紙がセロハンテープで貼られていた。
この阿保校に文芸部があることをぼくは、それまで知らなかった。
生徒指導室と教職員の喫煙室の間のスペースにあり、中は、とても狭そうに見えた。
ぼくは、考えるより先にその文芸部の扉を開けていた。
中に入り、一番に目に飛び込んできたのは、女子高生のパンツだった。
ぼくの正面の一番奥のテーブルにツインテールにメガネの女子生徒が大股を開いた状態で両足を上げ、スカートをパタパタさせ、あおいでいた。
「お?」とツインテールにメガネの女子生徒は、いきなり、入ってきたぼくにじっと目を合わせ、足を降ろしもしなければ、スカートを閉じたりもしなかった。
後にわかった事だが、この恥じらいも色気も感じさせない女子生徒こそが、ヨヨギちゃんが敵視するかの悪名高き貴島晴香先輩だった。
貴島先輩が占領する机の前に並んでくっつけてある長机。それを挟んで向かい合うかたちで二人の女子生徒がパイプ椅子に座っている。
一人は、ベリーショートの髪型でロングスカートの知らない歳下に思える童顔の女子生徒で、もう一人がぼくが追ってきた明野原朱美だった。
普段、女子しかいない空間だから、貴島先輩は、油断して、こんなはしたない格好をしているのかとも一瞬、思ったが、貴島先輩の隣には、本棚を背にして、文庫本を立って読んでいる男性教諭がいた。
ロマンスグレーの髪をセンター分けにして、口髭を生やした昔はモテたんだろうなと思える見た目の男性。
雪代冬二。校内一有名な教師だから、名前も知っている。昔、小説家をやっていたが、盗作問題を起こして、文学界から追い出され、自分の小説のファンだった校長に教師として拾ってもらった話は、あまりにも校内で有名だ。
彼がひょっとして、文芸部の顧問? という当時のぼくの予想は、当たっていて、雪代冬二は、文芸部の顧問に他ならなかった。
「出たな、ストーカー。先輩、こいつ、一年の時に私をストーキングしてたストーカーです。通報してください」
「ストーカーなんて一度もしてないだろ!ぼくは、遠くから君の足を見てただけだ!」
これが明野原朱美とぼくがはじめて交わした会話。出会いだ。
「私のストーカーをしに来たんじゃなかったら、あんた、ここに何しに来たのよ」
「そっそれは……」
たいした考えもなく、文芸部の部室に入ったぼくは、一瞬、言葉に詰まった。
「文芸部に入部したいから、とか?」
なんとかひねり出した回答がそれだった。
「あんた、サッカー部じゃん」
明野原朱美は、ぼくがその日、サッカー部の部活動からずっと着っぱなしだった練習用のユニフォームを視線で指した。鋭い女だ。
「うっ……えと、このガッコー、部活、掛け持ちできんじゃん。ねぇ、先生」
ぼくは、たいした知り合いでもない雪代先生に助け舟を求めた。
「まぁ、そうだな」
と雪代冬二は、短く答えただけで、何事もなかったように文庫本を読み続ける。雪代、テメェ〜。
「先輩、やっぱり、通報してください」
「まぁまぁ、いいじゃんか、朱美。入部したいってんなら、入部させてやれば」
貴島先輩は、どうでもいいことのように粗雑に言う。
「嫌ですよ。私、絶対に嫌です」
明野原朱美は、力強い口調で拒否反応を示す。
「そんなこと言っても、3年のわたしが卒業したら、この部活、朱美と代々木ちゃんの二人きりでおもくそ定員割れじゃん。三名以上の部員がいない部活は、原則、このガッコでは、廃部。そうなったら、一番、困るのは、朱美だろ?」
「来年になったら、また一年が入りますよ」
と言いつつ、明野原の顔には、不安がにじんだ。
「そう言って、今年、誰も入部しなかったから、わたしが美術部から代々木ちゃんを引き抜いたんだろ」
「私、騙されました。ここに入れば、絵画じゃないアニメイラストをいっぱい描かせてくれると言ったから、入部したのに」
これが、ぼくが聞いたベリーショート髪のヨヨギちゃんの第一声。
「嘘なんて、ついてねーだろ!小説の挿絵いっぱい、描かせて、やってるだろーが!」
「描かせて、やってるって言い方……」
「一年がナマ言ってんじゃねぇぞ!あぁん!」
「ブラックだ……」
ヨヨギちゃんは、しゅんとなる。
それになんのフォローも入れずに文庫本を読み続ける雪代。
ぼくは、自分のせいで場が嫌な空気になった気して、視線をあわあわと漂わせた。
すると、珍しいものが視界に入った。
原稿用紙だ。
「君、ひょっとして、原稿用紙に小説、書いてんの?」
ぼくは、口実よく明野原に近づいたが、彼女に
「悪い?」と力強い目で睨まれたてしまった。
「いや、悪くはないけど、いまどき珍しいなと思ってさ」
「ここだと原稿用紙は、学校が用意してくれるし、原稿用紙に私が書いたものを先生が部活動のいっかんとして、PCに打ちなおして、ネット小説の賞に投稿してくれるの」
「でも、それって二度手間じゃない?自分の携帯で打って、そのまま、投稿すれば、いいじゃん」
と言ったら、ぼくは、また明野原に強く睨まれた。
「朱美ん家は、貧乏で携帯もPCも買う金がねーんだよ」
「先輩!」
「別にいいじゃん。隠してるわけでもないだろ」
「隠してないけど、言いふらしていいとも言ってません!」
「あっ、そうなん?」
貴島先輩は、悪気がなさそうにけろりとしている。
明野原は、平然をよそおったが、耳がほんのり赤くなった。
「マジの話なの?いまどき、携帯、持ってないなんて」
「原始人と一緒?」
「そこまでは、言ってないけど……でも、貧乏な割には、髪、いつもきれいにブリーチしてるじゃん」
「これ、地毛よ。外国の血が入ってるの」
「じゃあ、肌が白いのも……」
「化粧は、してない」
「ノーファンデってこと?」
「そう、ノーファンデ」
信じ難いぐらい明野原朱美は、肌も髪も芸能人を扱うプロのヘアメイク等がついてるのかと思う程、きれいだった。
苦労を感じさせない貧乏を感じさせない美貌を持っていた。
どうせ、ただのきれいなだけの頭からっぽで男を食い物するタイプのろくでもない女なんだろうと思っていたが、苦労人だとわかるとぼくの心は、簡単に揺らいだ。
彼女がどんな小説を書いてるのか猛烈に気になり、原稿用紙を覗き込んだ。
原稿用紙には、タイトルだけ「紅の月光」と書かれてあり、冒頭部分が何度も鉛筆で書いては消され、書いては消されした跡が残っていた。
「これ、なんで何度も書き直してるの?」
ぼくの自然に出た問いに明野原は、
「ああ、学校が用意してくれると言っても、文芸部に無限に予算があるわけじゃないから」と答えた。
「いや、そういう意味じゃなくて」
とぼくが言うと、すぐに
「ああ」と明野原は、質問の意図を理解する。
「一週間に一回、月が紅色に光る世界でね。その紅の月光を浴びた人は、人間を襲う異形の者へと姿を変えるの。そんなディストピアな世界で生きる男女七人を主人公にした物語を書きたいんだけど、どうしてもライトノベルと純文学が混ざったような作風にしたくてね。それが上手くいかないの。素人に言っても、わからないか。純文学なんて」
「明野原先輩は、すごいんですよ。すでに全国の高校生を対象にした文科省主催の小説の大会で一回、優勝してるんです。出版社から小説家デビューの話もあったんですよね?」
ヨヨギちゃんは、自分のことのように誇らしげに言ったが、
「いや、あれは、自費出版をすすめるクソ会社だった」
と明野原は、悲しげに言った。
これから数年後、明野原朱美は、出版界がこれまで二度に渡って失敗してきたライト文芸というジャンルの確立に一役を担うことになる。
これまで個人個人の作家でライト文芸に作風があたる作家は、いたものの、ライトノベルと純文学の間のジャンル ライト文芸のコーナーが本屋に設けられることはなかった。
が、明野原朱美が小説家としてデビュー後、彼女の作風をマネて、小説を書く新人作家が多発し、ライト文芸というジャンルがメジャー化し、ライト文芸は、ついに本屋でコーナー化されるまでに至る。
しかし、そんな彼女の起こす一大旋風など知る由もない当時のぼくは、「小説家かぁ。それもいいかもなぁ」などと思っていた。
当時のぼくは、やりたいことが何か特にあるわけでもないのに、リーマンになるのだけは、嫌だと思っていた。自分は、他の誰かとは違う何者かになれるとなんの根拠もないのに信じていた。
今から思えば、普通に就職して普通にリーマンになれば、子供も三人ぐらいいて、普通の幸せが手に入ったかもしれないのに、大学四年という大きな時間のアドバンテージをぼくは、小説家になるという夢でドブに捨て、その後の人生で失敗し続けてしまった。
それは、控えめに言って、愛おしき明野原朱美のせいである。
貧乏という苦境に立たされていて尚、文科省主催の小説のコンクールで優勝したという彼女は、身近にいる一番の特別な何者かだった。
正直、彼女のことをかっこいいと思った。ぼくも彼女のようになりたいと思った。特別な何者かになりたいと。
それがぼくが小説家を志した一番の動機だった。
彼女には、生き方を真似したくなる引力があった。
「そのユニフォームの背番号、4番って、あなた、ひょっとして、御影先輩ですか?」
ぼくがそろそろ時間も時間だし、文芸部の部室を出て、帰ろうとした時、ヨヨギちゃんが訊いてきた。
「そうだけど」
とぼくは、二枚目を気取って振り向いた。
御老公の印籠を出すシーンだ。
ぼくが何者かを知って、この学校で落ちない女性は、いない。
「なに、あなた、こいつのこと、知ってるの?」
とヨヨギちゃんに明野原が訊く。
来い。来い。来い。来い。
「はい。有名ですよ。勉強もスポーツもできるイケメンだって、一年の女子の間で人気です。みんなからヒーローって呼ばれてるって」
来たぁーーーーっ!!!
はい、必勝パターン、入りました。
「ヒーロー?そんなあだ名の奴、実在するの?」
「いい意味じゃないよ。いつも、いいところ取りするから、嫌味で言われてるんだ。ぼくのことをヒーローと呼ぶ奴は、友達じゃないよ」
ぼくは、最高にかっこをつけて、明野原に言ったが、明野原は、「ふーん」と言って、そのまま、ぼくを残して、帰って行った。
あれ?いつもの必勝パターンとリアクションが違うな。
女子ほど、周りの評価に敏感な生物は、いないというのに。
しかし、大丈夫だ。残りの夏休みを使って、何か大傑作な小説を完成させよう。そして、それを携え、文芸部に電撃入部するのだ。ぼくの完成させた小説を読み、明野原は、言うだろう。「すごいわ。私を超える大天才が現れたわ。その優秀な遺伝子を私に頂戴。結婚よ。結婚しかないわ」そして、ぼくは、学生のうちに小説家デビュー。印税がっぽがっぽで明野原を貧乏な生活から救うのだ。
というぼくの今から思えば、阿保としか言いようがない計画は、もちろん、失敗する。
ぼくが文芸部に入部するよりも先に彼女が学校を去るのだ。
「実物は、思ったよりもイケメンではないですね」
ヨヨギちゃんは、この頃から、すでにぼくに対する当たりが強かった。