ある幸せな日
宿屋の一階、入り口から入ってすぐの辺りで頑丈な箱を椅子のようにして座ったアオイは、熱心に新聞を読んでいた。
ここ最近は魔の者災害のせいで客も減り、以前のような活気はもうない。
少し前まではアオイが父と営む宿もそこそこ人気な宿であって評価も低くはなかった。客にも恵まれていた。その中には気に入って定期的に通ってくれている者もいたのだ。
だがそれらの大切な人たちさえも今は失われた。
すべては魔の者発生のせい。
「はーぁ、もうほんまたまらんわ」
またこの街に魔の者が発生した――そんなニュースを読んで溜め息をつくアオイ。
そんな彼のところへてててと少し早足で寄っていく少女がいた。
黒い髪をなびかせている彼女はトニカだ。
「……ぉ、これ、たべて……げん、き……だし、て」
ミトンをはめた両手を開けば、そこには個包装されたクッキーが一枚。ちょこんと可愛らしく差し出されたそれを見て、アオイはふふっと笑みをこぼす。
「ありがとぉ、トニカちゃん」
アオイはそのクッキーをさらりと受け取った。
そこまでは良かったのだが。
「でもどこから持ってきたん?」
深く考えず放ったアオイの問いに、トニカは不安げな表情になる。
「……たな」
肉食獣に狙われ恐怖の沼に落とされた小動物のような顔で答えるトニカ。
「え!? それってお客さんに出すやつちゃうん!?」
「ぅ……ぁ、ご、ごめん、なさ……」
畏縮するトニカを見て、アオイはハッとしたように話の方向性を変える。
「ま、ええんやけどね」
それからアオイはその大きな手でトニカの黒い頭を撫でた。
「励ましてくれてありがとうな」
アオイは何も気づいていないようだったが――トニカは撫でられたことが嬉しくて顔面に花を咲かせていた。
しかもそれだけでは終わらず。
その日の晩、トニカは、これまでにないくらい熱心に玄関入ってすぐのところにある置物を磨いていた。
溢れ出しそうな嬉しさを発散させる方法が、トニカにはそれしかなかったのである。
そんな場面をたまたま通りかかったアオイの父親に見られてしまって絡まれる。
「トニカちゃん熱心やなぁ」
「……ぉ、とうさん」
「んん!? お父さん!? アオイと結婚するんか!?」
「……ち、ちがう!」
「ごめんごめん。いやでもほんま助かってるで。トニカちゃん、ありがとう」
少し恥ずかしい思いもしたトニカだったが、それでもおつりがくるほどの喜びを彼女は手にしていた。
◆終わり◆
2023.3.3 に書いた作品です。