もしかして、暗黒微笑ってやつですか?
──王道転校生、って知ってる?
少し前……十年ぐらいも前になるのかな。それはネット小説で流行ったジャンルの総称で。全寮制の男子校に賑やかな転校生がやってきて、俺様な生徒会長に楯突いて気に入られ、優しい副会長の裏の顔を見抜いて一目置かれ、チャラ男会計に本当の愛を教えて執着され……
とにかく、ものすごく流行ってた。みんなこぞってその設定で物語を書いた。そう、今で言う……「悪役令嬢」みたいに。
自己紹介をしておこうかな。わたしの名前は前川千代。大学三年生。成績は振るわないけど、現代文だけ抜群に良かった。それこそ、他の科目全部カバーして、公立の大学に入れるくらい。
わたしの現代文の成績は、ひとえにわたしの趣味のおかげで培われた。冒頭の「王道転校生」も「悪役令嬢」も、わたしの趣味によって得た知識。人呼んでわたしは「活字中毒」、寝ても覚めても物語のことしか考えられない、文字ジャンキーなのである。
多分わたしのことなら、これくらいわかってれば問題ない。そしてわたしの今置かれている状況も、きっとこの一言でわかるはず。
事故をきっかけに異世界に転移して、流されるまま大きなお屋敷に雇われるメイドになりました。
「千代」
ここに転移したきっかけは、わたしの向こうでの最後の記憶に依存する。冬のある日、安く買ったストーブが、ブランケットに引火した。わたしが電子書籍を嫌うせいで異常な蔵書量を誇る我が家は、それはもうよく燃えた。
「千代?」
それはもう。それはもう……わたしまで巻き込んで、ポックリ逝っちゃうぐらいには。
「千代!」
「わっ、はい!」
凛とした声が脳内の炎を消火して、わたしは目を開ける。そこに立っていたのは、先程説明したわたしの「ご主人さま」だった。
突然異世界に来て右も左もわからないわたしを、優しい笑顔で「ならうちに来ればよいでしょう」と受け入れてくれた。齢十五にして華族の血を引くこの家を、次代当主として管理しているスーパーボーイ。名前を白鳥秀さまというけれど、わたしなどが呼ぶのを許される筈もない。
最初は「華族」と聞いて、異世界ではなくタイムスリップかと疑いもしたけれど、年号を聞いて理解した。なんとこの時代、「大正二十四年」にあたるらしい。生活様式は昭和の初期から中期程度の発展を遂げているし、単純な過去の世界というわけではないみたい。
「また、物思いに耽っていたのですか?」
「申し訳ございません」
ともすれば空想の世界に旅立つわたしを、ご主人さまだけは優しく諭してくれる。今のわたしは衣食住すべてをこのひとに依存しているというのに、見上げた聖人君子っぷりである。
……客観的に見て、どう考えても一回死んだわたしが、こうしてぼんやりできてるのも、その空想癖のおかげだけど。どうにも全てが物語の中のようで、現実味もなければ、それについて深く考える気概もない。
「大丈夫ですよ。それより千代、今晩の『お話』ですが……」
「はい」
ご主人さまは少し声をひそめて、いたずらっ子のように笑った。
便利な現代に慣れたわたしは、ナンチャッテ大正の文化についていくのが必死で、とてもメイドとして満足な仕事が出来るとは言い難い。それでもわたしがここにいられるのは、ひとえに「活字中毒」であったおかげだ。
古今東西、ありとあらゆる物語を読んだわたしは、そのほとんどを覚えている。寝物語として聞かせたそれらは、ご主人さまにすっかり気に入られ、今では寝所の整えはわたしが専属となった。
「昨日の話はあれで終わりでしたよね。今日からはどんな話を聞かせてくれるつもりなんですか?」
「そうですねえ……」
わたしがこの屋敷に勤めて、早いものでふた月。最初は戸惑うばかりだった仕事も、何とかかんとかこなせるようになってきた。同時にそれは、その分だけここで夜を過ごして、寝物語を聞かせたということでもある。
現代よりずっと暗い電気をさらに布で落として、薄暗くなった室内に、わくわくとしたご主人さまの顔が浮かぶ。さて、これを気に入って早寝になってしまったご主人さまに、今日からはどんな話をしようか。
十二歳で招待状が来る、魔法学校の話は昨日終わってしまった。七つ集めると光を放つ宝石を集める旅の話も、灰色の脳細胞をもつ名探偵の話も。
「どんな話がお好みですか?」
「……では、今日は千代の話が聞きたいです」
レパートリーはまだまだあるけれど、こうなればリクエストでも聞こうと尋ねたところ、返ってきたのはそんな言葉だった。
「わたしの?」
聞き返すと、布団に潜ったご主人さまは、照れ臭そうに頷く。
「ぼくは、千代のことを何も知りませんから。あなたのことが知りたいんです」
とんだ口説き文句だけど、ご主人さまのことだから多分、ここには親愛も恋愛も連なっていないだろう。いいところが身辺調査、何なら疑われていてもおかしくない。わたしはそういう身の上だから。
「……じゃあ、今日はわたしのお話を。その時々に読んでいたタイトルもお伝えしますから、気になるものがあればお申し付けくださいね」
まあ、本当のことを聞かせてもいいか。どうせ、信じてもらえないだろう。わたしはのんびりと、わたしの記憶を語る。ここより遠い現代、女子大生として生きていた頃。
生まれて、過ごして、学んで、読んで、読んで、読んで……口に出して辿ると、なんて本にまみれた人生。思いつく限り時系列順に、わたしはわたしの人生を……というか、人生で読んできた本の話を、語って聞かせた。
「そうしてわたしは火に巻き込まれて、気付けばこの世界にいて。ご主人さまに拾われてからは、ご存知の通りです」
平常のトーンで話を終わらせたけれど、ご主人さまからの反応はない。見れば彼の形の良い瞼は下りて、呼吸は深く、長くなっていた。ふた月も見ればわかる、これは寝たふりをしているとき。彼はもっと、浅い呼吸で眠るから。
わたしよりずっと歳下で、わたしよりずっと重い家の枷を背負う男の子。それなのにいつも温厚で、たおやかで、たまに心配になるくらい優しくて。きっと今もわたしに気を遣って、眠ったふりをしている。
だからわたしもそれに気付かないふりをして、音を立てぬよう部屋を出た。
「千代、今日は『王道転校生』の話が聞きたいです」
翌日寝台の中から投げられた言葉に、わたしは少なからず面食らった。何故と聞くと、昨日はそこで眠ってしまったからだと言う。なるほど、ご主人さまの中では、そういう設定なのか。
その単語を出したのは、わたしの人生の中盤。その後は高校、大学と話が進んだから、その辺りなら楽しく話せると判断してくれたのかもしれない。
「かしこまりました。といっても、あまりお話できることはないのですけれども……」
「どういう意味です?」
「それより少し後に流行った『悪役令嬢』ものと比べると、『王道転校生』ものは少し、偏執的だったと言えば良いでしょうか。内容も同性愛、特に男色を主だって扱うものが多く、火付け役となった作品も憶測でしかわかりません」
十年前の記憶を呼び起こしながら、わたしはゆっくり語る。出来るだけ眠くなるように、低めの声で。
「けれどもその内容は、それこそ『王道転校生』と聞くと、皆が同じ設定を思い浮かべるほど広く普及していました。そのうち物語の主人公は渦中の『転校生』から『脇役』へと移り、書き手の個性はその『脇役』の設定へ反映されていたように思いますね」
「例えば?」
「ええと……『転校生』の同室者で、見た目は地味だけれど実は……というものが多かったと思いますが。あとは生徒会の面々が、本来の『王道転校生もの』の性格とは少し違っているですとか」
王道転校生ものの生徒会といえば、冒頭にも述べた通り。
俺様で高圧的で、自身に楯突く人間を面白がって興味を持つ生徒会長。
温厚で優しく笑顔と敬語を崩さないけれど、裏ではそんな社交辞令に辟易している副会長。
不特定多数と夜遊びして、不誠実に生きてきたせいで、本当の恋愛を知らない会計。
無口で大柄で、コミュニケーションに苦手意識をもつ書記。
一卵性をアイデンティティにしながら、個々を尊重してほしい願いを抱える双子の庶務。
書紀と庶務が入れ替わったり、はたまたどちらかしかいなかったりはしたけれど、あの頃のネット小説は大体こんな設定で進んでいた。ここに爽やかスポーツ特待生とか、ホストみたいな先生とか、ツンデレ不良の一匹狼とか、ちょこちょこキャラが加わっていく感じ。
当時の記憶を必死で手繰り、わたしは辿々しくならないよう考えながら説明していく。何せわたしは、活字なら何でも良かったのだ。好んで選っていたわけでもないので、今となっては「こんな感じだった」という程度の記憶しかない。
「……その、副会長というのは?」
珍しくよく口を挟むご主人さまに、説明が上手くなくてすみませんと萎縮する気持ちになる。いつもは目元を緩ませて、黙って聞いてくれているのに。
「副会長は……いつも笑顔で、誰に対しても丁寧な態度を変えなくて。『転校生』の校内案内を頼まれた初日に、『転校生』から社交辞令を指摘されて興味を持つ、という流れが一般的でしたね」
そう言うと、ご主人さまの目がゆるりと細くなる。やっと眠くなってきたらしい。あまり夜更しをさせてはわたしがメイド長に怒られてしまうので、これ幸いと副会長の話を続けさせてもらうことにする。
「初対面で自分の嘘の笑顔を見抜き、自然な態度で接してくれと言ってきた『転校生』に、副会長は……」
「その時『転校生』は、何と言うんですか?」
少し硬く響いた声に、わたしは少なからず驚愕する。ご主人さまがこれまで、わたしの話を遮った事など、ただの一度も無かったからだ。
「え? ええと、その、『ウソの笑顔なんて気持ち悪いぞ』だとか、何とか……」
しまった、これは『脇役』が主人公の、『アンチ王道転校生』もののセリフだったかもしれない。本来の……というか元ネタの王道転校生は、果たして何と言ったんだろう。
考える間もなく、わたしの視界はぐるりと回る。ベッドサイドに腰掛けていた身体が傍の寝台に引き込まれたのだと理解するのに五秒、誰かに腕を引かれたと気付くのに三秒。それが出来るのは一人しかいないと思い当たるのに、更に五秒かかった。
「へえ。『気持ち悪い』ね」
「ご、ご主人さま……?」
ゆら、ゆら。弾みで布が揺れたランプの光が、ご主人さまの顔を半分ずつ、照らしては動く。さっきまで布団を被ってウトウトしていたかわいい年下のご主人さまは、何やらくつくつと笑みを浮かべて、わたしの右腕を寝台に押し付けていた。
上体を起こして体重を掛けられると、不安定な体勢のわたしは、とても抵抗できそうにない。そうでなくても彼はわたしの主で、わたしはただの召使い。意図が汲めずただご主人さまを見つめていると、彼は一層楽しそうに笑った。
「千代にしては上手く、ぼくへの不満を紛れ込ませていたね? まさか『気持ち悪い』とまで思われていたとは、予想外だったけど」
待てよ待てよ、順に考えよう。
ご主人さまがこうなったのは、王道転校生ものの副会長の話をした直後。そういえば話の最初から、副会長に興味を持っていたようだった。原因は間違いなくその話だろう。
ええと、わたしはどんな話をしたっけ? そう、いつも優しくて、笑顔で、敬語だけど、裏に一物抱えた副会長の話。あれれ、これって、誰かに似ていない?
「優しくて、笑顔で、敬語で……」
それはまるで、目の前の。
「うん? うん。千代も気付いていたんだろう、ぜーんぶ『社交辞令』だよ。まあ内面じゃ、辟易なんてもんじゃない。犬の餌にもならないこんな面倒ごと、クソ喰らえとまで思っているけどね」
ついていけない頭の中で、ぐるぐる思考が回っていく。答え合わせは、案外直ぐだった。
「物語と称して、よく語ってくれたよ。当てつけのつもりだった? それとも、本当に『自然な態度』で接してほしかった? ぼくは別に構わないけれど。ぼくのしたいまま千代に振る舞うなら、千代はずーっと寝室にいてもらわないといけないね」
ご主人さまの空いた右手が、わたしの詰め襟の釦を擽った。耳の裏にじれったい悪寒が走ったけれど、不思議と不快ではない。何なら「この人今、片手でわたしのこと抑えてるんだな」って、どうでもいいことに思考が逃げていった。
「ご主人さまって、わたしのこと好きなんですか?」
聞きたいことは、山ほどある。なのに最初に口をついたのは、そんな世迷言だった。それだけはないだろと自己ツッコミを入れるより先に、拘束された右腕が、硬い指の腹でつるりと撫でられた。
「好きでもない女を無条件で雇って、屋敷に住みこませて、毎晩寝室に招いて、声を聞きながら眠る趣味があるように見える?」
今のあなたの笑い方だと正直見えますとは、口が避けても言えそうにない。なんというか、百戦錬磨の風格がある。
「じゃあ、わたしを雇ったのも」
「顔と身体が好みだったから。中身も好きになったけど。察しは悪くないくせ、流されやすくて御しやすいところなんて特にね」
それはわたしに主体性がないだけでは。
「お屋敷にわざわざ住み込ませてくださったのも」
「あわよくば個人的な関係になれないかなって。ぼくに興味がない割には、毎晩愛おしそうに語ってくれるものだから、狂いそうな気分だった」
愛しているのは語る対象ではなくて、語る内容だったのですが。
「毎晩、寝台を任せてくださったのも」
「千代が整えれば、敷布に千代の香りが移るからね。それに千代の声を聴くと、不思議とよく眠れるんだ」
好きだから。
そうハッキリ口にされてようやく、あぁ、今わたし口説かれてるんだな、とどこか他人事な脳が言った。ご主人さまはゆっくりと腰を折る。気付いたときには唇が触れて、離れて、撫でられていた。
「……無反応かよ」
「いや、えーと……」
まだ脳みそが、王道転校生のくだりで停まっているというか。
「別にいいよ。女はみんな優男が好きなんだと思っていたけど、『自然な態度』がいいならもう容赦しない」
そもそもそこが勘違いなんですわたしさっぱりあなたの本性気付いてませんでしたと、言い訳する暇は与えられなかった。唇はまたご主人さまのそれに塞がれ、ちゅっと、軽い音を立てて離れていく。
「精々覚悟してるといいよ。千代が求めた『自然な態度』で、遠慮なく、君を求めてあげるから」
眉毛を吊り上げて、ご主人さまはたった今わたしの唾液で濡れた唇をぺろりと舐めた。薄暗闇の中で、「悪役令嬢」より「王道転校生」より前に流行った単語が、わたしの頭を駆け巡る。
──もしかして、「暗黒微笑」ってやつですか?