事の始まり。
「ラヴェンナ。準備はいいか」
「はい。わたしの準備は万端です」
広い広い洋館の中、一角に据えられた和室で私と彼は向かい合って座っている。
昼間なこともありランプ等のあかりは付けられていない。ショージという異国のスクリーンが適度に日をさえぎり、薄暗い、けれど不快ではないリラックスできる部屋になっていた。
では、と前置きをし息をひとつ吸う。
そのまま吐かずに衝動に任せて、笑った。
「はい!いかがでしょうか!」
「ラヴェンナ、非常に言いづらいが口元が引き攣っている。残念だが笑顔とは程遠い表情だ。」
「全然言いづらくなさそうですねリヒト様。」
「いや……、すまない。」
もにもに、と自分の頬を掌で揉む。
あまりにも柔らかい。表情筋を使っていない証拠だ。
おかしい、ここ数日はお付きの者に見てもらってまで笑顔の練習をしていたのだ。今日こそリヒト様に〝勝った〟と思ったのに。
「ではリヒト様はいかがなんですか?」
無言でニッと口角をあげた目の前の彼の表情はまさに恐怖。
顔から上が微動打にしない。なのに口は不自然に弧を描いていた。
「リヒト様も同じじゃないですか」
「笑顔というのは難しいな。」
2人して膝に目を落とす。
はぁ~……というため息が聞こえてきたのはどちらが先だろう。
私、ラヴェンナは元聖女であり目の前の彼と婚約をしている。
目の前の彼はリヒト・ルーデルシュタイン。
竜族であり竜人である彼は家督を継ぐにあたり聖女の役目を終えた私を拾ってくださった方だ。
そして今は、笑顔が下手くそ、という自覚を持った2人による恒例の笑顔練習日である。
事の始まりは聖女だった私が捨てられた日にある。
聖女最後の役目を遂行する日はやけに風が耳障りな日だった。いつもなら美しく結われた髪も今日は酷い風に煽られ顔に被っている。
ニヤニヤ、と下卑た笑みを浮かべる奴らが見えなくてちょうど良かったかもしれない。
「すまんな、聖女よ。これは全ての聖女が迎える最後なのだ。」
いえ。でも、はい。でもなく返事はない。
する気がないのだ。自分の命はここでただ悪戯に消費される。だがそれも分かっていたこと。
しかしすまない、と言うにはあまりにも横柄な態度に腹を立てるのを通り越して呆れが勝る。
この国、シカリーンは聖女を絶えさせない。
前任の聖女が力尽きたらすぐ他の国から聖女を呼び補充させ、そして国のために祈らせる。
宗教国家なのだ。仕方ない。
そして私はその補充として呼ばれた聖女、ラヴェンナ。全く神気などという物は皆無であるただの薬草取りだ。生まれてすぐ貧しさから山に置き去りにされ、そして山の中に住んでいた物好きな老婆に拾われ育てられた。
9つの年になるまで生きるのに必要な知識を全て教わった。母親と言うより、先生だった。
そして10になる頃、先生は死んだ。
老衰だった。
「山を超えて国に行きなさい。」
その言葉に従い私はシカリーンに来た。そこで教会に身を預ける事になる。
シカリーンは宗教国家という事もあり、体調不良となると教会に行くことはあれど医師を尋ねるものはあまりいない。
皆、祈れば治るものだと思っていた。
シカリーンは山の中枢に建てられていた事もあり、周りの国と少し距離があった。
外界から中途半端に遮断されていた国は若者の刺激を満たす物はなく、シカリーンを母国としている若者の多くは国を出ていってしまう。
そうして残るのは昔からの宗教を信じている歳を重ねた者達だけ。
幼かった私は、当時教会に来る度に可愛いねぇとお菓子をくれた老婆が体調が悪いのだと嘆いていたのを見て直ぐに山に登って薬草を採ってきた。先生が私にしてくれたように、良くなったらいいなとその一心で薬草を煎じて。
しかし、そこからがおかしかった。
その後体調が回復した老婆は私を神の子だと言い出した。次の聖女に違いないと。
弁明しても聞き入れて貰えず、そうしてトントン拍子に前任の聖女が最後を迎え私が次の聖女に据えられた。
特に何も出来ない自分が聖女なんぞを務めたら国が崩壊するのではないかと思ったが特に何もしてなくても務まった。
祈りの時間はただ目をつぶってるだけだったし体調が悪いと尋ねてくるものにはその症状に聞く薬草が生えてるであろう場所に行くようアドバイスをした。
しかしそんな聖女も入れ替え時が来た。
聖女の代用品はいくらでもいるのだ。