僕を待っていた人
タクシーが病院に戻るまで、真砂子は笑いながら泣き、涙をこぼしたからとモヒートを飲み、また泣くを繰り返していた。
それでも僕達が彼女が大丈夫のような気がしたのは、彼女がそれまでの壊れた人形のような様子ではなかったからだ。
その後、葉山の病室に戻った真砂子は、僕が録画した動画によって病室のろくでなし軍団の女王様となった。
真砂子の運転技術と度胸に拍手喝采で、動画を頼んだ本人である葉山が乾いた笑いをあげるほどだ。
しかしろくでなしの女王となっても、いや、なったからか、せっかく自由になったはずの真砂子は身を持ち崩した。
真砂子は良純和尚に惚れたと言い出したのだ。
「好きにやれって。奪われたものを取り返してこい。取り返せないならね、壊して来いって。金なんか働けば手に入る。俺が奴隷にしてやるんだからな、徹底的にやってこいって。私はそれで本来の自分に戻れたんだわ。」
僕は自分以外の一般人を過小評価しやすいきらいのある傲慢な保護者に目線を動かした。絶対に彼は真砂子があそこまで思い切った事をするとは考えていなかったはずだ。その証拠として、良純和尚は僕から目を逸らしたどころか、車を取りに帰ると世田谷に逃げ帰ったのである。
幾つかの病室の見舞い品、特にシャンパンは忘れずに盗って行ったが。
「あいつが戻ってきたらお前は世田谷に戻るのか?」
「いえ、たぶん良純さんも一緒に葉子さんの所に行くはずです。僕の祖母もいますし、僕はやっぱり友君や淳平君の退院まで傍に居たいですからね。」
「よし、よし。」
僕は楊に犬のように頭を撫でられた。
楊がこんなに褒めると言う事は、僕の判断は大正解なのであろうと嬉しくなった。
「すいません。また武本様宛にお荷物が届きました。」
看護士の呼びかけにまたかと楊と目線を交し合い、彼と一緒にナースセンターに行くべく病室を出た。
病室から出れば、ナースステーションまでは一点透視図のように廊下が広がって見えた。
どうしてそう思ったのかというと、中心となる一点が、目を背けられない一点が、僕の視界を釘付けにするようにして立っているのだ。
あぁ、彼は、僕が忘れていた玄人の小学校時代の唯一の友人じゃないか。
彼が纏う浮浪者のように薄汚れた服からは、左側の頬と腕に火傷したばかりのただれがはみ出ており、痛々しいどころか嫌悪感を抱かせるほどだ。
しかし、そんな汚濁とは対照的に、彼の顔形も表情もあどけなさで清純だ。
まるで、高校生の十代で時間が止まってしまったかのように。
「……徹くん。君は徹君だよね。」
ふらりと体が動き、僕は一歩踏み出そうと足を前に出した。しかし、足を床につく前に僕は楊によって彼の背中に庇われ、目の前の旧友から隠された。
楊の腕の隙間から覗き見た僕に対して、柴崎徹は地平線を臨む様な切なそうな笑みを見せるだけだ。
「久しぶりだね、クロちゃん。全部終わったから。もう怖いものはないから、君はもう一度輝いて。ほら、これが証拠だから。」
記憶の少年時代の頃と違ってたどたどしい動きをする彼は、ぼろぼろの古ぼけて焼け焦げのある服のポケットから、血らしきものが滲んでいるハンカチの包みを取り出し、僕に捧げるようにして中を開いた。
中には……。僕は実際には見えていない。
楊が僕の頭を抱え込むように腕を回し、完全に僕を隠すように抱きしめたから。
見るんじゃない、と。
楊は僕の視線を自らの体で塞いだと思ってるだろうが、ごめんなさい、僕には全部見えているの。
柴崎の手の平に乗っているのは、笹原健太の耳たぶが二つ。
「あれは、笹原くんです。」
「いいから。」
楊が僕の言葉に腕の力を再び込める。
そして僕はもう一つ隠していた記憶が頭に浮かんだ。
何てこと。忘れていてごめんなさい。メグミちゃんの事を。