チキンレース
「殴ってなんか。」
「殴ったわ、何度も。診断書もある。私は弟の所に逃げたわけじゃないわ。あなたに殺されかけて救急センターに居るところを弟と母に連れ帰られただけよ。さぁ、離婚するわよ。弟を車で轢いたあなたを、私は、絶対に、許すことはできない!」
これで近所中に宏信の悪行は広まったと思うのだが、しかし、宏信は真砂子が話している間に余裕と言う気持ちが生まれたのか、口元には笑いさえ浮かべてきた。
「離婚なんて、喧嘩するたびに口にしてどうするんだ。それに謝ったじゃないか、あれは不幸な事故だろう。君の暴力的な弟に脅えて、僕はハンドル操作を誤ってしまっただけじゃないか。殺す気も、ケガさせる気さえ無かったさ。あれは申し訳ないよ。君と一生添い遂げて、僕に償いをさせてくれ。」
ドカ!
宏信は地面に這いつくばっていた。
彼は、なんと、真砂子に下腹部を蹴りつけられたのである。
そして、蹴りつけた真砂子は高部家の玄関へと駆け抜けていき、ピンクの車へと乗り込んだのである。彼女は運転席に納まると、きゅっという風に方向を転換し高部家の男達へと向かってきたのだ。
「うわ。」
「この馬鹿女!」
その車の動きに高部の父と弟は口々に罵りながら慌てて立ち上がって脇に除け、しかし、宏信だけは車をよけるどころかその場から動かない。
良純和尚がにこやかな顔で宏信を捕まえて自分の脇に立たせているのである。
車が彼らを避けて百メートル程進んでUターンをし、今度は闘牛の牛のように良純和尚達へとエンジン音を轟かせている。
「わたしもあなたに怪我させる気も殺す気は無いわよ!あなた目掛けて車を走らせるだけよ。あなたが大怪我しても、これはあなたが弟にやった事と同じ!単なる不幸な事故でいいわね!」
「やめてくれ!俺を殺す気か!」
真砂子の大声に宏信は情けない大声を上げた。
宏信はもがくが、彼を捕まえている良純和尚が離すわけはない。
「ハッハハ、いいぞ!チキンレースだ。タイマン勝負だ!」
良純和尚が叫ぶと、真砂子が運転する車は良純和尚めがけて突進してきた。
「ぎゃああああ。」
宏信は車が動き出すや断末魔の様な叫び声をあげ、良純和尚は掴んでいた手を開いた。宏信は自宅敷地内へと逃げて転がり、僕達の目の前には、人を轢くどころか半メートルは間を取って止まっている車と、動じることなく立っている良純和尚だ。
「真砂子、お前は最高だな。とっととその男の形をしただけのどぶ鼠を切り捨てて来い。前も後ろも漏らしている、哀れなどぶ鼠をね!」
そこで、高部家の家の中からの女の金切り声が、せっかくの場を台無しにした。
「私の車を!この、この糞女が!せっかく嫁に貰ってやったというのに!恩知らず!まともに学校を出ていない貧乏人の娘が!」
目に爛々と怒りをたぎらせて出てきた女性は、信利ぐらいの年齢で小柄で少々ふっくらとしている。紺ストライプのフレアスカートに袖がパフになっている無地の紺ニットというフレンチカジュアルでまとめた服装から、彼女の印象は気安い奥様というものだったろう。
明日からの近隣では、「鬼ばばあ」と陰口をたたかれそうでもあるが。
「うるさい!くそばばあ。自分で自分の車も買えない貧乏人はお前でしょう!私の車を運転も出来ないくせに自分のものにして。そんなに欲しいなら本気でくれてやるよ!」
叫び返したのは真砂子だ。
真砂子は車のエンジンをかけ直し、高部家へと猛スピードで突進し、今度は高部家に停めてある自家用車の脇を取りぬけざまに横から助手席側の後部をぶつけてから車を停止させた。
真砂子の軽自動車は左側後方がひしゃげているだけだが、隣の車の横腹はかなりのへこみどころか歪んだ後部ドアがバタフライドアのように開いてしまった。
「はぁっははは。家族だと保険は下りないわね。家族だったら、車で怪我をさせても犯罪にならないんでしょう。離婚しないんだったらさ、私は好きにさせてもらうわね。こんな人殺しの家、全部、柱一本残さず破壊してしてやるわ!」
ピンク色をした凶器は再びエンジン音を轟かせ、高部家の男達は全員腰を抜かして座り込み、そして、高部家の本当の主であったらしき人物が主としての断末魔を叫んでいた。
「な、な、な。こんな女、離婚よ。出て行きなさい!宏信、さっさと離婚して縁を切ってしまいなさい!さっさと追い出してしまいなさい!」




