哀れな裕一
お茶のお代わりに楊が茶碗を差し出すと、それに茶を注ぎながら遠藤がおもねる目線を楊にむけてきた。
「何か?」
「いいえ。お聞きしていますよ。昨年林警部補に犯人扱いされた青年。彼が実は武本物産の御曹司で、おまけに財界に親類縁者がひしめいているそうじゃないですか。」
「本人は普通の子供ですよ。」
「またまた。でも、上手くおやりになりましたよね。あなたを通して財界の彼らと繋がりたいと、警視庁内は恥も外聞もなく大騒ぎですよ。この署においてはあなたの愛車の見守り班までもいる。林はね、相手が金持ちだからというだけで、何もしていない子供が犯人扱いされた上に将来まで潰されたと嘆いておりましたよ。」
「将来とは?」
「武本君に関わったばかりにいじめだと訴えられたと。してもいない罪で全員が巻き込まれて、中学受験を試みた子供は全員失敗したそうです。会社をリストラされた保護者も何人かいるそうで、許せないと。」
「その林さんのご子息が中心で虐めを行っていたそうじゃないですか。」
「あの子はいい子でしたよ。小さい頃しか知りませんがね。女の子のように可愛らしくて、道で会うとぴょこんとお辞儀する礼儀正しい子で。可哀相に。武本という子に人生を台無しにされたから悪い道に走ったのでしょう。」
楊は昨年の十一月に殺されたとされる林裕一のことを思い出していた。
彼が殺されたのは本当は十一月のもっと前で、十一月に殺されたのは別人であったのだが、その過誤が起きたのは林自身が三田葉月と言う名で病院に療養と言う名目で閉じ込められていたからである。
そして、林の振りをしていた三田葉月は煌びやかな美形でもあり、高校時代は武本の影武者迄もしていたほどだが、殺された本物の林自身は、それなりに整っている顔立ちだといっても、華やかな武本や三田と違い普通のどこにでもいる顔でしかなかったのだ。
「遠藤さんは、昨年の事件時はこちらの警察署にはいらしていませんでしたよね。」
「林さんの事件からこの署は総入れ替えがあったのですよ。私は呼び戻される形で。久しぶりに戻ってみればそんな話で、本当にあの可愛い子が可哀相だと。」
楊はなんとなく懐に入れていた、柴崎宅で手に入れた写真を取り出した。
「写真ですか?」
「はい。ご記憶がありますか?」
楊から写真を手渡された遠藤は、写真に写る人物を見るや目を潤ませた。
「可哀相な裕一君。」
「それが、武本君です。」
「え?」
「ですから、その子が武本玄人君です。」
彼から写真を取り返して、楊は写真に目を落としてから再び内ポケットに戻した。
写真の武本は公園で柴崎と仲良くシーソーに乗っている。
柴崎は母親が構えたカメラではなく、高い位置だと目を輝かせて喜んでいる武本の姿に夢中になって憧れの目線をむけていた。
世界に恐怖は一つも無く、無邪気に笑って輝いている、太陽のように輝いていた頃の武本の姿である。
「え?林さんから見せて貰った息子さんの写真だったら彼でしょう。私に挨拶した子供を自分の子供だって指差して教えてくれたのも彼で。」
楊は武本を苛め抜いていた、林少年の行動理由がようやくわかった気がした。
彼が武本を殺したかった理由は、彼が武本によって父親に存在を打ち消されていたからなのだ、と。
ところが、楊が林裕一に哀れみを感じている程であるのに、あんなにも林裕一が可哀想だと繰り返していた遠藤は本当の林裕一に憐憫の情もみせず、急にそわそわとし出して話題を変えるだけであった。
「そういえば遅いですね。彼は大丈夫ですか?やはり、そちらさんはのんびりしておられるから、この様な陰惨な写真に弱いのですかね。羨ましい限りですよ。」
楊は目の前の真面目腐った制服姿の中年男性に微笑んだ。
彼は善良かもしれないが、自らを取り繕うだけの表面だけの人間でしかない。
あるいは、誤解したと言っても彼が口にした武本への悪口を、楊が武本に伝えないかと一気に不安になったのだろう。
民間よりも定年が早く退職金が少ないと考えている輩には、退職後の天下り先の確保が重要なのである。
「彼はね、助けようと頑張った被害者が捜索願が出ていた時には既に殺されていて、見つけた時には腐って虫まみれだった現場を体験していますからね。拷問された遺体と虫の組み合わせが、どうもね。こちらはのんびりしていますから。この少女達のように生きながら虫に啄ばまれるって想像すると、どうもねぇ。」
被害者の顔面の写真を楊は取り上げ遠藤の真ん前に翳した。
大きく開けた爛れた口の中も外も、黒蠅と孵ったばかりの蛆が這いまわっているという少女の哀れな写真である。




