みっちゃん
武本の到着の知らせに親友が部署から消えると、楊はおもむろに立ち上がり机を片付けて外回りの準備をし始めた。
たいして片付ける必要もないが、楊は出かけたくない気持ちが大きいのである。
先日今井家を辞去した後、楊はやるせない気持ちのままその足で、今井楓の語った武本が住んでいたという幽霊マンションにも足を運んでいた。
それは、今現在の武本そのものであるように楊には見えた。
焼き尽くされて空っぽな内部を持つ、いまにも崩れ落ちそうな煤けた建築物。
その廃墟を武本だと思ってしまった罪悪感に、せっかく建て直されてきた武本を廃墟に戻してしまったのは自分では無いのかという無意味な思考が、あれから楊の内部で燻り続けている。彼はそんな自分の思考にイラつきながら、普段使わない仕事鞄を乱暴に取り上げた。
「どうしたのですか?かわさん。なんだか怒っている?」
彼が声の主に振り向くと、それは本日の武本の護衛官だった水野である。
「うん?これから外回りが面倒だなって。気も体も重いのは年だからかねぇ。」
「嘘ばっかり。」
「本当だよう。俺は夕方には戻るからね、留守番を頼んだよ。」
笑う水野を残して楊は部署を出た。
水野を連れて行けば彼女には良い勉強になるのであろうが、原付バイクの持ち主が武本の同級生であった事から楊は一人で動く事を決めたのである。
楊は武本の同級生関係を聞き込む度に、大声をあげて叫びたくなるのだ。
武本への虐めは壮絶で味方は誰もいなかったと、世田谷から戻った山口が楊に語ったその通りである。
ちなみに、なぜ山口がそこまで詳しく武本の過去を知ることが出来たのかは、絆された武本が山口の腕の中で全てを語った訳ではなく、山口が武本の体に触れれば、武本の過去や見た物が彼が見た通りに山口には見えるのだと言うだけの話だ。
「部下まで見える奴って、あぁ、もう。俺はすっかりオカルト担当の人間になっちゃったよ。糞署長は勝手に変な回覧を県警中に回していやがるようだし。」
「いいじゃん。それで、かわさんはどこに行くの?」
車の前で空に向かってぼやいていた楊は、若い悪戯そうな声の主にゆっくりと振り返ると、彼女は腕白な五歳児のように彼に微笑み返した。
「……付いて来たんだ。部署の留守番はどうしたの?頼んだじゃん。」
「宮っちが気前よく引き継いでくれましたよ。それから、彼が会う前にクロを帰したって、かわさんのこと怒っていました。嘘つきって。」
「だって、あいつやばいじゃん。でもさ、怒っていたのに快く、なんだ。」
「今日のクロの写真をあげました。喜び過ぎちゃって宮っちヤバイ。」
「えぇ、個人情報バラ舞いちゃ駄目じゃん。それも護衛対象でしょう。」
「いいじゃん。宮っちは仲間じゃん。そんで、あいつ、髪の毛が伸びちゃってるせいか、男の子の格好でも女の子みたいですっごい可愛いよね。大学で女も男も遠巻きにあいつをボケっと見惚れていてさ。それなのに僕は隅っこ虫ですってビクビクして。普通にニコニコすればお友達なんてすぐだと思うんだけどなぁ。」
楊が佐藤と水野を護衛につけたのもそれが理由だ。
彼女達は普通以上に美人であるので、武本の美少女顔を悪目立ちさせず、且つ、美人の傍だから注目されているという勘違いで、彼が気楽に構内を歩けるのではないのかという親心である。
その上、彼女達は真っ直ぐで優しいだけでなく、信頼の置ける最強の用心棒だ。
「業務以上に彼に気を使ってくれてありがとうね。それじゃあ、僕は出かけるから。」
「だからぁ、一緒に行こうよ。あたしも刑事っぽい仕事をしたい。さっちゃんは葉山さんと聞き込みに行っているじゃない。あたしも聞き込みしたい。」
明るい色のショートカットの毛先は、くるくると彼女自身のように好き勝手にカールしている。
楊は彼女が高校生だった時代から知っているが、彼女が楊の言う事を聞いた事は一度も無いと思い出し、彼は彼女を部署に帰すことを一瞬で諦めた。