母と子と
「ですが、ただ同然で買い取ろうという管理組合には驚きですね。滞納金を引いても提示金額は普通に安すぎる。」
「あら、滞納金にも利息が付きますし、迷惑料だってあるでしょう。それにもともとあぶく銭で手に入れたものですもの。出て行く時に三千万ならば、盗人に追い銭でしょう。以前に住んでいたぐらいの場所に戻れば、しばらくはいい暮らしが出来るでしょう。」
「以前に住んでいた場所?とは?以前もこのようなマンションだったのでは?」
「あら、いいえ。あそこの一家は、近隣には評判の悪い人ばかり住んでいるって噂の、大昔に建てられたぼろぼろの賃貸でしたよ。放火で全焼した三丁目の建物をご存知でしょう。あら、神奈川県警でございましたね。ご存じないかもしれませんが、あそこに武本一家は住んでいたのですよ。」
「そのような賃貸に以前に住んでいたから、それでこのようなマンションを購入するには、あぶく銭で、ですか?宝くじでしょうか。先程おっしゃった言いがかりで奪ったお金、とは何でしょうか?」
楓は鼻でふんと笑うと、慰謝料です、と言い放った。
「慰謝料?」
「プール事件の被害者だと騒いで、数人の家族が会社を辞めて引っ越していきましたからね。あんな場所に住んでいた一家ですもの。きっと、やくざのように脅して退職金をもぎ取ったのでしょうよ。全く。そんなことをされたら私達の子供が虐めをしたって認めることになるでしょうに。」
「……小学校の虐めはなかったと?」
「息子は真っ直ぐな子でしたから、武本君の行動に見かねたところがあるからと注意をしただけでしょう。子供ですから、上手に注意出来ずに手が出ることもあっただけでしょう。」
「何を……注意ですか?その、当時の武本君に何か異常行動でも?」
「礼儀正し過ぎる子供には裏の顔があるものです。そして、その裏の顔を親や大人に見せないものでしょう。私は教師をしておりますからね、子供には詳しいですよ。時々いるのですよ、プライドか何かが高過ぎて自分の非を認められない子が。親の躾でしょうね。そういう子は嘘つきが多いですから、自分の母親には嘘しか言いませんの。あの母親の子供ですからね、仕方がないですよ。息子とそっくりで、私達を馬鹿にして鼻で笑うような嫌らしい人でした。」
楊は武本の母親の詩織の外見も振る舞いも、息子である武本と全く似ていない事を思い出していた。
なぜだか、楊は詩織の振る舞いは鼻につくと感じた時もあった。
鼻につくと保護者連中も思っていたからこその武本への暴力か?
暴力は弱い者に必ず向かう。
しかし、玄人がいじめを受けていた時は実の母が生きていたはずである。
彼女も性格に難のある女性だったのであろうか。
「あの、どういった女性だったのでしょうか。」
「美人であることを鼻にかけて私達を見下すどころか、他所の父親達を誘惑して女王様のように振舞っていたのです。彼女が指を動かすと、男共が調教された犬みたいになって何でもハイハイと。学年違いの事情を知らない方々は、PTAの仕事に男連中が手伝うようになって楽だと、行事が盛り上がるなどと持て囃して。」
くどくどと続く楓による武本の実母への愚痴を聞きながら、楊は武本の現状を思い浮かべた。
今でさえ彼がお菓子が欲しいと呟くと、楊の部下達が一斉にお菓子を差し出す。
髙も葉山も山口も、ポケットには必ず武本用のお菓子が一つは入っているという状況だ。
それを恨んだ楊のストーカーを彼は重ねて思い出し、武本の実母は武本そっくりの可愛い系の人なのだろうと結論付けた。
「あの……武本君のお母様の当時の写真か何か残っていますか?」
すると、楓は目を輝かせて居間のソファから立ち上がった。
「小学校の入学式の集合写真を持って来ますね。」
「ありがとうございます。」
妙に生き生きと部屋を飛び出した楓の姿に、楊は武本への虐めは、親が気に入らない相手の子供を潰すという親の主導もあるのではないのかと考え始めていた。
子は親の鏡というではないか。
「どうぞ、これです。この方です。」
戻って来た楓はアルバムを開き、大判の集合写真を指差した。
楓が指さした女性は、肩先までの真っ直ぐな黒髪を持ち、美しく妖艶に笑いながら、その手を武本の肩の上に置いていた。
楊はその写真の女性が武本にそっくりだと思いながらも、武本の方が可愛らしいと思ってしまった。
目元が武本の方が華々しくつぶらであるのだ。
「この方が。」
「まぁ、お可哀相にお亡くなりになりましたけどね。」
楊は胸が痛いどころでは無い。出来る限り俯いている武本が顔を何時でも上げている時は、女装して喜んでいる時であるのだ。