結局は隅っこ虫
「だから、あの坂下さんの奥さんが柚っちのお姉さんだって。」
「あら。」
「まあいいからご飯を食べちゃおう。食べれるときに食べる。それは重要。」
「そうですね!」
僕と佐藤はせっかくだからと本日のおすすめ定食を選び、チキングラタンと小さなサラダ、そしてカボチャのスープと全粒粉のロールパンに飲み物はアイスティーと全て揃いのものが載ったトレイを持ちながら、一緒に座る席を探したのである。
そうではないか。
佐藤は周囲に煩そうな学生のいないテーブルをすぐに見つけ出しており、僕は彼女が目的地へと歩く後ろを盆を抱えながら追いかけた、が、正しいだろう。
彼女の真っ直ぐな後ろ姿を追いかけるのは、なんと安心できるのだろうと、僕は思いながら彼女を追いかけたのだ。
席に座って僕達は、いや僕は彼女との空気を悪くしたらどうしようと急に不安になり、会話することのないように一心不乱に食事に没頭してしまったが、彼女はそんな僕に呆れることもなく、僕のするように同じように食事に没頭している風に振舞ってくれていた。
僕は佐藤の気づかいに癒され、気づけばいつも脅える人の笑いあう声の細波が僕を不安にさせるどころか、僕の楽しい気持ちを盛り上げるバックミュージックとなるということに気が付いて感動さえもしていたのである。
「ねぇ、クロ。ところでさ、この間の山さんとのデートはどうだったの?」
突然の攻撃に僕はむせた。
そのままごまかそうとしたが、佐藤は目を輝かせて僕の返答を待っている。
佐藤の期待した瞳は僕が答えなくとも良いという風にただ煌いていたが、僕は彼女を信用し感謝さえも示さねばと、いや、彼女に答えながら実は楽しかったあの日の事を誰かに、恐らく良純和尚や楊以外の誰かに話したかったのかもという気がしていた。
「ただのお買い物です。……でも、楽しかったです。淳平君はリードが凄く上手です。僕の好きなようにさせてくれるけれど、僕が迷って、迷った事が申し訳ないと考える前にすっと違う話題や違う場所に誘導してくれて。凄く楽しくて気が楽でしたね。」
「かわさんはハラハラしていたわよ。クロが行く所まで行ったらどうしようって。」
「かわちゃんは冗談が過ぎるよ。でも、今日は本当に楽しかった。さっちゃんもリードが上手ですよね。僕はこんなに大学にいて落ち着けたのは初めてです。」
「あら、私は自分が楽しんでいるだけだからね。クロ、あなたもね、楽しめばいいの。他の人の気持ちばっかり考えていないでね。あなたが楽しければ私が楽しい。反対に、私が楽しければあなたも楽しいでしょう。」
「僕は、……ええ、そうですね。はは、僕は人に気に入られたいばっかりで、本当に他の人の事を考えていなかったみたい。さっちゃんは優しいし、すごいです。」
佐藤は僕に微笑んだ。
その微笑はなぜかせつなさが胸に湧いてくるという懐かしさもあるもので、僕は同じ目線の女の子にこうして何でも決めてもらって安心をさせて貰いたかった自分を認めた。
これは母親に認められないからこそ、いや、何でも勝手に決めて僕の存在さえも消そうとする母親への思慕なのだろうか。
そんな事を考えた一瞬、僕の目の前を黒い蜘蛛がひゅっと走り去り、黒い蜘蛛が向かったその方向にあるものが僕がその答えを今出す必要は無いと知らしめていた。
もしかしたら、一生答えを出せない状態になるかもしれないが。
僕は手に持つカトラリーを置くと、テーブルに両手をついて彼女に深々と頭を下げた。
「本当に今日はありがとうございました。凄く楽しかったです。」
「クロ?ちょっと、どうしたのよ、急に。」
僕はゆっくりと椅子から立ち上がった。
僕以外の違和感が僕に向かってやってくるのが分かったからだ。
三人もの集団で。
狙いは僕であるならば、彼女から離れ、それから、逃げれる場所まで逃げるのだ。
「あぁ、そうか。座りなさい。」
「え?」
「いいから、座れ。」
佐藤のどすの利いた声に僕はぶるっと震え、調教され切った犬にように椅子に座り直した。