#3 夏の暮夜
戦争の夜。
炎の赤。血の赤。全てが赤に沈んだ街を、幼い立木は熱に追われながら孤独にさまよっていた。もしかしたら兄弟や友人、あるいはたまたま同行することになった見知らぬ他人も共にいたかもしれないが、立木は良く覚えていない。
いつの間にか炎の夜は明け、なんだか良くわからぬうちに施設へ身を寄せ、自分が帰る家の無い孤児になったということに気がついたのは軍隊へ放り込まれてからであった。軍隊へ入る以前の施設での生活については、立木はあまり記憶に無い。とにかく空腹であった事、大人が恐ろしかった事、子ども同士で憎み合っていた事だけは朧げに覚えていた。
寄る辺が無いという事は、とてもつらく苦しいものだ。子どもであればなおさらである。
孤児の姉はカオリ、弟はタダシと名乗った。
姓は不明。姉弟は読み書きが出来ず、ただ“カオリ”と“タダシ”という音の並びだけを知っていた。
立木は二人に生活用品と寝床を与えた。歯ブラシやら毛布やらは溜め込んでいた予備のものを渡し、衣服は子供用のものが無かったため立木の部屋着を裾折りして貸した。
事務所の応接室の狭いテーブルを囲んで、三人は缶詰やらレトルト食品やらを貪る。この近隣の街では軍の放出品であるレーション以外にも民間業者が手がけた食料品が流通しており、特に缶詰やレトルト、カップ麺などは安く手に入れる事ができた。
時刻は昼前であるが、立木にとっては二十四時間ぶりの食事である。
「あっちは弾薬庫で危ないから入るな。あの鉢の野菜はまだ青いから食うな。俺は寝る」
立木はソファに寝転がるとすぐにイビキをかき始めた。
立木は、今日は一日を休暇とした。ねぐらに籠り、鋭気を養う心づもりである。機材の補給や整備を兼ねた買い出しは明日行い、その際ついでに姉弟をキャンプに送り届けるという算段であった。
浅ましくレトルトパウチの残りかすを啜っていた姉弟は、昏々と眠りこける立木の顔を覗き込み、次いでお互いの顔を見合わせる。そして、用途不明なガラクタの転がる室内を見渡した。
立木のイビキと扇風機の回転音が雑然とした事務所に響く。窓際の棚に陳列された色とりどりの水耕栽培が生温い風に揺れていた。
姉、カオリは考える。この立木と名乗った男は、なぜ自分たちに食料と寝床を与えたのだろう。その風体からして、殺し屋か兵隊の類いであろう事は推測できる。無意味な施しをするような人間では断じてないはずだ。
カオリは身寄りの無い孤児を奴隷として売買する者たちの存在を知っている。この事務所に連れてこられた時のカオリは、立木という男が人身売買業者である可能性を懸念していた。しかし姉弟は閉じ込められる事も拘束される事も無く、食事を振る舞われ、放置されている。逃げようと思えば逃げられるし、金目のものを盗む事だってできるだろう。こんな隙だらけな大人を、カオリは見た事が無かった。もしかしたら、この男はただの馬鹿であるのかもしれない。
逃げるべきか、ここに留まるべきか、カオリは迷った。
幼いタダシは好奇心が旺盛であり、特に機械に強い関心があった。
錠前などは針金一本さえあれば簡単に開け放ってしまうし、複雑な装置の仕組みも見ただけである程度直感的に理解することができた。在りし日、亡き母は姉弟に、タダシの器用さは機械屋であった父の血によるのだろうと言った。しかしカオリは、幼い頃に死んだ己の父の仕事が単なる空き巣であった事を覚えていた。
「おねえちゃん、でかいのがいる」
いつのまにかタダシは応接室から姿を消していた。事務所に併設されたガレージから、タダシの姉を呼ぶ声が届く。
弟のやたらと機械を触りたがる悪癖を思い出し、カオリは足早にガレージへ向かった。タダシが高価な機械を勝手にさわり、あまつさえ壊してしまっていたのなら、カオリ達は即座にここから逃げ出さなくてはならない。
果たして、彼女の弟は薄暗いガレージの中でその巨体と対面していた。
「KRV……」
KRV。カオリは生まれて初めて間近でその兵器の威容を見た。
濃緑の分厚い装甲を纏い、両肩に副腕を生やした異形の巨人。
一般的な機械が持ち合わせていない、兵器特有の重く冷たい威圧感。ざらざらとした装甲の質感が、このKRVが殺人の道具として使い込まれている事実を物語っている。
この機械は一体どれほどの命を奪ってきたのだろう、とカオリは考えた。夏場の密閉空間だというのに、彼女の背筋は震える。KRVの足下をべたべた触ってはしゃぐタダシの神経が、カオリには理解できなかった。
自衛軍領の難民キャンプはひどい有様だった。
もちろん、国連や警察軍が管理している難民の居留地や強制収容所も似たようなものであったが、自衛軍領はそれに輪をかけて悲惨な状態にあった。そこは法の秩序が及ばない世界であり、塀の外の戦場と何ら変わりがない場所だったのである。
あばら屋が点在するばかりで、他には草一本も無い黄土色の荒野を、数台の兵員輸送トラックが走行していた。かつては難民のテントが所狭しと並び、貧しい老若男女で溢れ返っていたのだが、今となっては人の気配は全くしない。
まばらに転がる白骨死体を踏みしだきながら、トラックの一群はキャンプ唯一の水場へ向かう。
「ほんとにあんなとこに居るんですかね、生き残り」
「将官殿は小心者だからな」
トラックの助手席で、分隊の隊長がビールの瓶を煽った。
「そんなに気になるなら自分で行けってんだ」
空になった瓶を車外へ投げ捨てる隊長に、運転手はため息をつくしか無かった。非番であったのに、突然外出許可を取り消されて任務に駆り出されたのは、他の隊員も同じであるのだ。愚痴りたいのは隊長だけではないが、上官の前で任務の是非を問うわけにはいかない。
元々ここ東海地方は、西日本を拠点とする警察軍の弾圧から逃れてきた人々が、東京へ向かう途上で通過する地域であり、殺到する難民を管理選別するための自衛軍の施設が多くあった。しかし、この数ヶ月の間に、施設の中で難民の姿はほとんど見られなくなっている。理由は、住人の殆どが死に絶えたためであった。
以前より自衛軍は、難民を使役して麻薬を製造し販売する事で多大な利益を得ていたが、その強制労働の実態が同盟国に知れ渡ってしまい、国際的な非難に晒されて事業を畳む羽目になってしまった。これでキャンプを維持するための予算は失われ、難民達は高い塀の中で放置される事となった。
このキャンプも数ヶ月前に閉鎖され、居住者達が餓死するまで放置されていたのだが、ここ数日、難民の生存者の活動が活発化している兆候が見られるようになった。広大なキャンプの中央に設けられた唯一の水道管の周囲に、倉庫らしき建築物が設営されていることが発見されたのである。
自衛軍領に到達した難民は随時キャンプの塀の向こうへ放り込まれるため、ここの人口が完全に皆無になるという事は無い。しかし食料のないこの地で、相当数の人間が秩序だって行動し、何らかの目的を持って物資を収集しているなどというのは不自然だ。
よって、彼らが調査のために派遣されたのであった。
「どうせ畑でも耕してるとかそんなんだろ」
大量の土ぼこりが風に乗ってトラックの窓を叩く。
この地の草木がことごとく根こそぎ失われているのは、飢えた難民が掘り返して食らってしまったからである。難民が困窮している事は確かなはずであり、彼らが何を目論んでいようと自衛軍の脅威になる事などあり得ない話なのだ。
分隊の隊長は、貧しい者たちを管理するために費やされるコストを無駄だと考えていた。彼らのような弱者は体制に抗う力などなく、わざわざ金と時間をかけて抑圧する必要など無い、というのが隊長の主張であった。
「まあ、最近の奴らは武装して山賊みたいになってるらしいし、危ないっていうのもわかりますけどね」
「バカ言え」
隊長は主張する。近年は、武装した難民が自衛軍領へ向かってきたらベンダーPMCを雇って追い返したりしているらしいが、そんなのは金の無駄だ。塀の中に迎え入れて、そこで殺せばいいのだから。隊長は、自分たち現場の人間の力を信じず胡乱な傭兵に頼る上の者に憤っていた。
そろそろ難民キャンプの水場が見えてくる頃合いだった。隊長は助手席の脇に吊るした双眼鏡を手に取り、前方を確認する。
水道の周囲には、土色の風に紛れ数人の薄汚い身なりの男達が集まっていた。男達は水場に向かうトラックに気がつくと、倉庫から小銃を取り出し、それぞれ手に取って構えた。
夕方。時刻は十八時を回っている。
立木は起き抜けの頭で今朝の行いを思い出し、後悔した。なぜ自分は薄汚い浮浪児を自宅へ招き入れてしまったのだろう。しかも、その浮浪児の前で無防備に眠りこけるなど、いくら疲れていたとしてもありえない。
浮浪児たちに荒らされたもの、壊されたもの、盗まれたものは、どれほどになるのだろう、損害は昨日の仕事の報酬でまかなう事が出来るだろうか、などと暗澹たる気持ちを抱きながらソファから身を起こす。
そして目の前で姉弟が地べたに転がって眠っているのを発見した。
事務所の備品には、荒らされたり壊されたり盗まれたりしたような形跡はなかった。
立木はしばし佇み、姉弟について考える。事務所の物に手を出さず行儀良くしているのは、孤児になったばかりで強かさが足りないためか、立木に一宿一飯の恩を感じているのか、それとも立木を恐れているからか。
立木はだんだん姉弟について考えるのが億劫になってきた。明日、適当な人身販売業者に売り払ってしまおうか、と考え始める。子供ではまともな働き手にはならないが、むしろそういった非力な子供を求める特殊な需要もあった。
もちろん、明日にまで姉弟が立木のもとから逃げ出して姿を晦ませたのなら、それはそれで構わない。
立木は水を一杯煽ると、仕事の後片付けを始めた。
兵隊は戦場を離れすぎると、麻痺していた恐怖心が息を吹き返し、再び戦う事が難しくなる。四十年前の中東で自衛“隊”初のKRVアビエイターとして勇名を馳せた東田一尉も、今となっては貧しく孤独な老人に変わり果てていた。
自衛軍領の古めかしく狭苦しい公営団地で、わずかな財産で食いつなぎながら余生を過ごす七十歳間近の独居老人。それが、かつて海外自衛隊創設の立役者と呼ばれた男の末路であった。
「そんなか弱い年寄りを軍人が寄ってたかって、情けないとは思わんかね」
「黙れ!」
東田老人は丸めた背中を震わせて、己を包囲する兵士達をあざ笑う。ガスマスクを被った兵士達は、肩を怒らせて東田に詰め寄った。彼らは富士基地治安維持部隊機動特捜部第三分隊に所属する隊員であり、つまり自衛軍領内における警察活動に従事する者達であった。
「貴様が難民ブローカーと組んで武器を横流ししてるのはわかってるんだ」
「それで?」
「我々と共に来てもらう。武器の仕入れ元も“夕映会”の共謀者の所在も洗いざらい吐いてもらうぞ」
東田はボサボサの白髪を掻き、ふてぶてしく鼻を鳴らしす。
ヒビの走る窓ガラスの向こうは夕闇が広がっている。幾棟かのアパートの連なりの向こうには、難民キャンプを囲う白く高い塀が見えた。
「多井少尉、警務隊も到着したようです」
多井と呼ばれた治安隊の隊長は頷くと、東田に機関拳銃を突きつけた。東田は従順に腕を背へ回し、抵抗することもなく手枷を受け入れる。
「お前さん達、最近の兵隊さんにしちゃ真面目だな。練度も高い。見所がある若者達だ」
東田の繰り言に応じず、部隊は速やかに拘束した老人を装甲車へ乗せる。装甲車はステルス化されており、さらに二台の41式まで護衛に就いていた。
「どうだ、お前らもこの“祭り”に一枚噛んでみないか。悪いようにはせんぞ」
「黙れと言っている」
治安隊から現場を引き継いだ警務隊が、東田のアパートに踏み込んで捜索を開始する。
ひび割れが刻まれた車道を、装甲車と二台の41式が基地へ向けて走り出した。
「我々はテロリストとは交渉しない。我々の使命は治安の維持であり、金儲けではない」
「金儲けね」
多井の言葉を東田はせせら嗤う。装甲車の小さな窓の向こうから、西日がうっすらと差し込む。
「わかったら、黙れ」
「でも、もう手遅れだぞ」
装甲車の後方が一瞬まばゆく光った。破裂音と共に、地響きが路面を揺るがせる。装甲車が横滑りしながら急停車した。
周辺の住人達が屋外へ飛び出し、怒号や悲鳴を挙げる。治安隊の隊員たちも装甲車の外部カメラから周囲の状況を見回し、絶句した。
東田のアパートが炎上している。警務隊の隊員や周辺の住人たちが火達磨になって倒れ伏していた。アパートの後ろに連なるキャンプの塀の向こうでも、夜の闇よりなお暗い、いくつもの巨大な黒煙が天を突いている。
無数の銃声が遠雷のようにこだましていた。
夜も更けた。日付を跨ごうかという時間帯である。
明かりが消えた室内で、立木はデスクでタブレットを睨みつつ帳簿をつけていた。弾薬は業者へメールにて発注し、41式改のメンテナンスの予約も取り付ける。シンプレックスプロパー選考参加への申し込み費用は、あと三、四回仕事を受ければ捻出できるだろう。
おおむねやるべき事は完了し、立木はいつものようにソファへ寝転がる。
窓の外を見やると、廃墟の暗闇が広がっていた。
立木の事務所は水道も電気も通っているが、これらのインフラは富裕層を顧客としている業者に多額の金を支払って維持している。このインフラを求めて、たびたび街に潜むならず者たちが事務所へ襲撃を仕掛けてきており、立木はその対応に苦慮していた。夜間に消灯するのも、招かれざる客の目からこの事務所の存在を隠すという意図があってのことである。
明日は、シンプレックスの支店に赴いて書類を提出しなければならない。また、物資の補給やメンテナンスを業者に頼む必要がある。姉弟の処遇については、街の人買いにでも売れば二束三文にはなるだろう、と立木は投げやりに考えていた。
ふと、立木は視線を感じ、部屋の入り口に視線を向ける。
弟とロッカー室で寝ていたはずのカオリが、開け放たれた扉の向こうに立ち尽くしていた。
訝しむ立木。
しかめっ面で立木を睨みつけていたカオリは、やおら服を乱暴に脱ぎ捨て、素っ裸で大股にソファへ歩み寄った。
「立木、服脱いで」
「なんだって?」
口を半開きにして呆気にとられている立木の横で、カオリはつっけんどんに言い放った。
「服脱いでよ。ご飯のお礼、するから」
カオリは、こうすれば大人の男たちは少しだけ優しくなることを知っていた。特に兵隊は理由がなくとも物凄い力で殴ったり蹴ったりしてくるので、できる限り機嫌を取らないと酷い目に合うということを、貧しい生活の中で学習していた。
「やめろ、そんなことは、子どもが」
「大丈夫。お母さんの手伝いで色んな人を相手にしてたから」
傷だらけのやせ細った体が、立木の前に晒される。
立木は兵士としての長いキャリアの中で、様々な無惨を目の当たりにしてきた。だが、一日の終わりを迎え生温く緩んだ精神へ、不意を打って晒された醜悪な欲望の生々しい爪痕は、立木の抑圧されていた人間的な感情を激しくかき乱した。
難民キャンプに連れて行くという約束を反古にして、人買いに売らんとしていた立木。それを少女が感づき、自分が何をしようとしているのか立木に見せつけて責め立てている。立木はそう錯覚し、動揺した。
「べつに何されても我慢できるし、病気も……」
「やめろ!」
大声を出した立木に怯え、カオリが後ずさる。
「俺には、そんなことはしなくていい」
カオリは黙って服を拾うと部屋を出て行った。
先ほど立木はカオリに、子どもがそんなことをするな、と言った。しかし、当の立木自身、それが無責任な言葉であることはよく理解していた。非力な子どもが生き延びるには体を売らなければいけない場面もある。それが現代の日本社会の現実である。
二十年ほど前、立木が子どもであった頃、この国はまともだった。幾たびかのテロに見舞われる事はあったものの、困窮した孤児たちが体を売る境遇を当たり前に受け入れているような、そういう社会ではなかった。しかし、今は何もかも変わってしまった。
立木は窓の外に広がる夜の街を見つめる。その暗闇の向こうでは、多くの悲惨が繰り広げられているのだろう。
シンプレックスのプロパーとなり、安定した収入と社会保障を得られたならば、もうこの暗闇と背中合わせに眠る必要などなくなる。立木は腹の奥にわだかまる鉛のような感情をいつものように忘却の虚無に押しのけて、目をつむった。