#27 晨朝の鐘
開戦からほどなくして、小林は徴兵された。それ以前の生活のことはおぼろげにしか覚えていないが、しかし母の小さい背中だけは、夕食の匂いと共に鮮明に記憶に刻まれていた。
小林の父は、彼女が幼いころに過労死している。自己管理を怠り死亡したことで業務に穴をあけ損害をだしたことと、過労死などと言う不名誉な死に方で企業イメージを毀損したことで、小林家は亡き父の勤め先から多額の賠償金を請求されていた。
膨大な負債を支払うために母も姉も昼夜を分かたず働き、小林も中学へ進学せずに労働に明け暮れた。体は売ったし、盗みや暴力にも手を染めた。海外へ出稼ぎに行かなかったのは、単に渡航費がなかったためである。もっとも何のコネもスキルもない小林が海外へ出稼ぎに出たところで、無給で農場や工場にて酷使され、最後は内臓を抜かれてうち捨てられていたであろう。多くの日本人出稼ぎ労働者と同じように。
当時の小林はその生活をとてもつらく苦しいものと感じていたが、思い返せば営内よりはずっと恵まれた環境であったと今の彼女は思う。少なくとも、家に帰ればそこには家族がいた。貧しくとも、家庭の暖かさと安らぎはあった。営内にはそれがない。営内を支配する助教や先任たちは、敵兵などよりもよほど危険な存在であり、そこでの生活は正に生存競争そのものであった。。
小林が徴兵された後、母がどうなったかは彼女は知らない。生きてはいないだろうが、せめて安らかな最後であったことを小林は願っていた。小林とともに徴兵された姉は、訓練兵同士による糧食の奪い合いに負けて飢死していた。
小林は、ただ目の前に現れた障害を乗り越え、その日の糧を得るためだけに生きてきた。状況の部品として順応することだけが、彼女の生きるすべだった。
早朝、立木たちはセキュリティのアラートと爆発音で叩き起こされた。
駐車場から、セントリーガンの発砲音と男たちの怒号、悲鳴、命乞いが事務所の敷地内に響く。やがて銃声も途絶えると、あとには硝煙と焼ける人肉の悪臭ばかりが残された。
立木はデスクで監視カメラの映像を確認すると、素足につっかけを履いて、しかめっ面で駐車場に出る。そして倒れ伏している襲撃者たちの中の、死にぞこなっている者を、拳銃で撃ち殺して回った。
睡眠時間とセントリーガンの弾薬費を引き換えに立木が得たものは、無数の死体と車両の残骸だった。突如として居候を二人も抱える羽目になり、夜を徹して今後の金策と立ち回りに頭を悩まし、そして夜が明ければこれである。
「どいつもこいつも俺の足を引っ張りやがって」
立木は腹立ち紛れに男の死体を蹴り飛ばす。
「こいつらはお前らのお友だちか何かか」
立木は事務所の玄関口で様子を伺っている矢野と小林に、この襲撃者たちが夕映会の関係者であるかどうか訊ねた。矢野は凄惨な光景を目の当たりにして嘔吐し、小林は渋面で首を横に振る。立木はため息をついた。
「お前ら、ここに住みたいならこのゴミどもを掃除しとけ」
立木は矢野と小林に命令すると、ガレージへ引っ込んだ。セントリーガンの弾丸を補充するためだ。
我関せずと朝食を勝手に漁る姉弟の傍らで、小林は野良のベンダーと呉越同舟するリスクの高さに頭を抱えた。
翌日も、翌々日も、襲撃者は立木の事務所に現れた。
襲撃者の所属も、現れる時間も、保有する戦力もバラバラだったが、その攻撃の動機は概ね怨恨と、少なからぬ功名心だった。
最近の立木は目立ちすぎたのだ。
武装難民のトラックを襲撃したこと、自衛軍の兵士を基地内で殺したこと、姉弟が強盗を撃退したこと、先日の作戦でショッピングモールに巣食う上陸軍のシンパを虐殺したこと、“あずまや”で多くのベンダーと敵対したこと、情保隊と接触したこと。立木自身にその自覚はなかったが、彼は多くの恨みと敵意を買っていた。
立木は日常生活をいつも通り送っているだけのつもりであったが、実際には四方八方に因縁を作ってしまったのである。
そして矢野たちが立木宅に居候を始めてから四日目の早朝。穴だらけになった駐車場のアスファルトの前で、立木は焼け焦げたタイヤを前に頭を抱えていた。
セントリーガンの弾薬や地雷は、もう底を尽きかけている。立木は一銭の得にもならない招かれざる客の対応に心底うんざりしていた。
「そろそろ限界か……」
今まで現れた襲撃者は、設置しておいたトラップのみで大半は迎撃することができた。しかし、いずれはセントリーガンの攻撃をかいくぐって事務所へ到達する者も出てくるだろう。あるいは、駐車場に侵入せず、その出入口で待ち伏せるような、知恵の回る者たちも現れるかもしれない。
立木は矢野と小林に駐車場の片づけを命令すると事務所へ向かった。金のことも、襲撃のことも、今日中にでも何らかの手を打たねばならない。
矢野は一輪車にゴロツキの死体を積み上げ、とぼとぼと事務所の裏手の排水路へ運んだ。排水路は立木がゴミ捨て場に使っており、淀んだ汚水に死体やらガラクタやらが山と積み重なっている。腐った死体の猛烈な悪臭が近隣にわだかまり、近づく者を苛んだ。
死体の廃棄には慣れ始めている矢野だが、しかし胸の内の嫌悪と恐怖はそのままであった。軍隊もゴロツキどもも、人の死に無頓着すぎる。人の死とはこんなにも呆気なく軽いものなのか。命はこんなにも粗末に扱って許されるものなのか。この傭兵の男は、今までどれだけの命を奪って来たのだろうか。
初陣でブレードキルという戦果を挙げた矢野だったが、それは彼に深い後悔を抱かせていた。死体を見て、それでも殺しという行為を畏れない者など、人間ではない。少なくとも矢野はそう感じていた。
矢野は、自分の傍らで暗い顔をして死体を乗せた台車を引く小林の顔を見た。
「小林軍曹、話がある」
思いつめた表情で語り掛ける矢野を、小林は見つめ返した。
「僕は、ここを出て行こうと思う。君も来るか?」
小林は矢野の言葉に頷いた。
「矢野少尉、久々に意見が合いましたね。私も得体の知れない傭兵の元に身を寄せるなど、あり得ないと思っていました」
小林は矢野の身柄に対する責任がある。供に来ないという選択肢はない。
今後の行動指針が決まったことで、地下街以来ずっと翳っていた矢野の表情が少しばかり和らいだ。
事務所の表側で、幼い姉弟が洗濯機を回す音がしている。いかなる経緯でこの姉弟は立木などという武骨な傭兵のもとに身を寄せたのか、矢野と小林にはまるで想像もつかなかった。しかし、子供たちはなぜか立木に懐き、彼らはそれなりに上手くやっていっているように見えた。
立木はプロパーになることを目標としているという。もし立木がその夢を叶えたとしたら、姉弟はどうするのだろう。
シンプレックスの本社は東京にあり、プロパーになればそこへ勤務することとなる。立木が東京へ引っ越したら、姉弟も連れていくのだろうか。読み書きすらおぼつかない子供が東京で食い扶持を得ることは難しい。となると、彼らが生きていくためには、今後も立木に食わせてもらうしか方法はない。無慈悲な傭兵の、そのなけなしの良心に頼る生活は、果たしていつまで継続できるのだろう。
立木が姉弟をこの地に置き去りにするとしたら、それこそ彼らの命脈は断たれることとなる。暴力の餌食となるか、人買いに攫われるか、あるいは飢えて死ぬか。この世界の子供にとって、ありふれた末路を辿るだろう。
そういったことを思うと、矢野は絶望感と無力感で怒りすら湧き上がってくる。しかし、矢野も大人だった。自分の力では姉弟を救うことはできないということも良く分かっていた。
「あの子達を置き去りにするのは心苦しいな……」
「そうですね。でも、仕方ないです」
矢野は小林の答えに、少しばかり驚いた。彼女のようなプロの兵隊にも弱者に対する哀れみの感情というものが残っていたことに、救いのようなものを感じた。




