#26 貧者の一問
現在、夕映会の危険性は市ヶ谷の参謀本部でも知られているところであり、制圧のための作戦はすでに検討されていた。
しかしそれに先立って、まずは軍内の反乱分子を一掃する必要がある。富士基地の治安隊までもが夕映会に与している可能性があるという状況に強い懸念を抱いた朝霞司令部は、まず情保隊に治安隊の動向を秘密裏に探るよう命じた。井上率いる静岡情保隊は、矢野の身柄を確保し、そこから富士治安隊造反の尻尾を掴んだ実績から、上層部の信頼を得ていたのである。
住民に対する警察権を有している治安隊が、反体制勢力に肩入れしているという疑惑。それが周知のものとなることは、司令部にとっても非常に都合が悪い。少なくとも夕映会を掃討するまでは、治安隊に関する醜聞は絶対に避けたい。そういう意味でも、隠密行動を十八番とする情保隊はこの仕事に適任であるとは言えた。
差しあたって、今の静岡情保隊が為すべき仕事としては、富士情保隊と連携して、夕映会内部における富士治安隊の役割や目論見を調査することである。
井上は夕映会摘発に一噛みするための外堀を徐々に埋めつつあった。
その日、静岡情保隊は夕映会が手駒としていた武装難民を捜査していた。多くの武装難民は先だっての暴動以来、各地に分散して身を潜めているが、今もって夕映会へ情報や物資を供給するパイプの役割を果たしている。
彼ら武装難民は治安隊と行動を共にしている形跡があり、そこを足掛かりに情保隊は裏社会の陰謀へ切り込んでいく腹積もりであった。
早朝の貧民窟。
戦前は飲食店などが軒を連ねていた駅前商店街も、今や戦火によって多くの建物が破壊され、瓦礫の山と化していた。無残に傾いだ廃墟の傍らには粗末なテントによる掘立小屋が並び、そこには貧しい人々がまばらに身を潜めていた。
不意に、テントを震わすエンジン音が近づいてくる。自衛軍の装甲車両が二台、現れた。
車両は貧民窟の入り口で駐車すると、後部扉を開いた。そして兵士たちが次々と降車し、最後に士官らしき禿頭の中年男が表れる。井上である。
「あそこの家じゃない?」
井上が掘立小屋を指さす。その掘立小屋は、周囲のものと比較すれば若干豪勢に見え、広く頑丈な造りとなっていた。貧民窟の権力者の家屋なのだろう。
掘立小屋に押し入る兵士たち。住民の悲鳴が響いた。
兵士に続いて井上も踏み込むが、悪臭と熱気に顔をしかめる。夏の日差しは布製の天幕によって辛うじて防げても、空調設備など存在しないテントでは熱気まで掃うことはできないのだ。
屋内には、三十そこそこの男と、十にも届かない幼い少女が二人いた。この家の主とその娘たちである。
男は殴り倒されて床に這いつくばっており、娘たちは部屋の隅で震えていた。
二人の兵士が左右から男の肩を拘束して立たせ、井上と対面させる。
「きみ、治安隊と仲いいんだって?」
井上はタバコを咥えて火を灯すと、にこやかに男へ話しかける。
「あいつらと普段どんな話してるの? 最近どこにいるか知ってる?」
男は真っ青な顔で首を横に振った。井上の表情が悲し気に曇る。
「言ってくれないとガキを殺さなきゃいけないんだよねえ」
「まて、まってください」
「だめ」
井上は壁際で蹲っていた少女に銃弾を叩きこんだ。
少女は脳天から鮮血と黄色い脳漿をまき散らしながら床に転がり、ジタバタと痙攣する。彼女の妹であろう、もう一人の娘の絶叫が貧民街に響き渡った。
「殺す前に楽しめばいいのに、もったいないですよ、隊長」
「病気貰っても知らねえぞ」
醜悪な欲望で歪んだ笑みを浮かべる兵士たちを横目に、井上は男への尋問を続ける。
「どう? まだ言えねえか?」
「治安隊ってなんですか? わからないんです、堪忍してください」
井上は震える男にタバコの煙を吹きかけると、兵士たちを目線で促した。
井上の許しを得た兵士たちは、少女の小さな体へ覆いかぶさる。
それから耳をつんざく悲鳴が掘立小屋に響き渡り、やがてそれが嗚咽ばかりになると、兵士たちは場を盛り上げるために、組み敷いている少女の体をナイフで刻み始めた。片方の眼球を摘出し、それを残った方の瞳へ見せつけると、これまで以上にけたたましい絶叫が貧民街に轟いた。兵士たちの哄笑が続く。
近隣の住人たちは、あばら家やテントなどの各々の住居で息をひそめ、いつものように軍隊の狼藉が過ぎ去るときを待ち続けていた。
井上は再三、男に尋ねる。
「そろそろ言えない? まだ駄目?」
「許して下さい、許して下さい」
男は嗚咽するばかりであった。
井上はため息を吐くと、仰向けに倒れ伏している娘の額に拳銃を押し当て、引き金を引いた。乾いた発砲音と共に、真っ赤な体液が床へまき散らされる。
「次はお前さんを直接痛めつけるしかないんだけど、わかってる?」
井上の言葉に難民の男はすくみ上った。
「俺まで撃つんですか!?」
井上は部下に命じ、男を壁に押し付けて腕を上げさせた。開かれた手のひらに拳銃を向けて発砲する。小指が吹き飛び、男は雷に打たれたように全身を強張らせて甲高い悲鳴を上げた。
「次は薬指な」
「わかった、わかりました!」
男は心が折れた。兵士たちが男を俯せに床に引き倒し、顔だけを井上に向けさせる。
井上は二本目のタバコに火をつけ、屈んで男と目線を合わせた。
「で、治安隊について、最近あいつらどこで何やってるか教えてほしいんだけど」
男は口をもごもごと動かして言葉を探していたが、ほどなくして喋り始めた。
「その……、治安隊ですが、第一分隊と第二分隊は、最近は警察軍領に出向いて支援を取り付けようとしてるみたいです。ホントかどうかは知らないです」
治安隊はその役割や設立の経緯から、比較的警察軍に近い立場にあり、交流もたびたび行われている。そのコネクションを利用して、支援の便宜を頼もうとしているのだろう、と井上は推理した。
「第三分隊もいたはずだが、そいつらはどうした」
「第三はほぼ壊滅したって聞いてます。噂ですが」
井上は男の言葉に頷いた。実のところ井上は、第三分隊が大損害を負っているということはすでに予想していた。第三分隊の隊長である多井を小林が射殺していたためである。
つまりこの難民の男は、己の知る情報を正直に語っているということであった。
「第一分隊と第二分隊は、今は警察軍の領土にいるってことか?」
「たぶん」
井上は唸る。自衛軍の支配域の外にいるのであれば、治安隊に対して情保隊ができることはあまりない。
とはいえ行き詰ってしまったわけではない。別の方向から間接的に治安隊の動きを探ることもできる。
「お前らは夕映会とはどうやって繋がったんだ? 」
治安隊が夕映会に取り込まれたのは、先日の暴動以降のことである。一方、武装難民は暴動を煽る工作員として活動していたので、治安隊よりも以前から夕映会の傘下に収まっていたはずだ。
「いつも世話してくれてる人に紹介されたんです。荷物を運んだり、隠しておいたりする、割のいい仕事があるって」
ここは港にほど近く、貧民街の住人の多くは沖仲仕として糊口を凌いでいる。表ざたに出来ないような運び屋の仕事を斡旋されることもあるのだろう。
「その手配師は何者なんだ。名前は? どこにいる?」
「枯野っていう人です。港町に家があるって」
ようやく具体的な名前が出てきた。手がかりに繋がった、と井上は感じた。ここ数日、手あたり次第に暴徒の潜む貧民窟を襲撃していたが、ようやく成果らしい成果を挙げることができた。
「もう撃たないですよね? 俺は助けてくれますよね?」
「うるせえよ」
井上は男を射殺すると、貧民窟に火をつけて回り、その場を後にした。
“枯野”なる難民ブローカーの住居へ向かう車中、井上はようやく掴んだ出世のチャンスに思いを馳せていた。
棚ぼたで富士治安隊の背任の証拠を掴み、自衛軍内を跳梁する夕映会を鎮圧する糸口を発見した。矢野を通じて東京政府とも繋がりを築き、興田というシンプレックス本社のエージェントとのコネクションも得られた。うまく立ち回れば、反体制勢力制圧の立役者として軍内全域で名を挙げることも夢ではない。
井上は田舎の兵隊として人生を終える気などさらさら無かった。夕映会も、情保隊も、踏み台に活用するつもりであった。
ちなみに、立木へ依頼を出すことを井上へ提案したのは興田であった。これは明らかに情保隊の職分を逸脱した越権行為であるのだが、あえてそのような暴挙を井上が行った真意としては、矢野の身柄の責任を部外者に転嫁したいという意図と、東京政府の息がかかっている小林を部隊の外に置きたいという狙いがあったためである。短慮かつ無謀な采配だが、井上自身は小賢しく立ち回っているつもりでいた。
興田とは東京政府からの紹介で出会っているが、彼はわきまえているのか小林のように隊の状況を古巣へチクったりせず、あくまで部外者として距離をとって接してくれている。そういった配慮も井上の精神状態の安定に一役買っていたのであった。




