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#25 夜気

 要人警護の仕事は“あずまや”での打ち合わせが終わった瞬間から始まった。

 立木は、セーフハウスへ矢野と小林を連れ帰る羽目になったのである。

 宵闇の中、ひび割れた道路を、立木の運搬車が走る。運転席でハンドルを握る立木の背後では、男女が押し黙って席に揺られていた。

「……」

 三人の間に会話はない。

 現在の状況は、この三人にとって不本意なものであり、全員が互いに警戒し、怒っていた。


 もともと立木は戦車手であり、要人警護のための訓練など受けたことはない。

 しかも井上は、対象の衣食住の提供まで立木の責任の元で行えというのだ。立木のセーフハウスには、すでに難民の姉弟が住み着いている。大の大人二人を押し込めておく場所などもうどこにもない。あまりにも勝手な井上の言い分は、ともすれば責任放棄に聞こえなくもなかった。

(もしかしたら、俺の責任で作戦を失敗させたいのか?)そう立木が勘ぐるほどに、井上の判断は無謀であった。フリーの傭兵一人で二人の要人を守ることなど、普通に考えるのであれば不可能だ。これがシンプレックス正社員採用試験というならば、確かに難易度はとても高いものとなるだろう。

 立木は、井上に言われるがままノコノコと立木の後を付いてきた警護対象の二人にも腹が立っていた。彼らは自分の置かれた状況が理解できているのだろうか、と。

 立木の胃はキリキリと痛み、運転も自然と荒くなるのであった。


 矢野は、ほとぼりが冷めるまで情保隊の別荘で身を隠すのだと思い込んでいた。しかし、そうではなかった。

 井上の判断で、然るべき場にて治安隊と夕映会の繋がりを告発する機会が来るまで、粗暴な傭兵の庇護下に置かれることとなったのだ。

 立木なる傭兵は、今、己の目の前で乱暴にハンドルを切っている。身もすくむような威圧感を纏ったその背中は、矢野のような頭脳労働者と相容れないタイプの人間であることを雄弁に物語っている。

 何もかも放り出し、情保隊とも縁を切って帰宅したいが、しかし財布も携帯端末も持っていない今の矢野には不可能な望みであった。眼鏡も地下街の尋問で失い、ここ数日間ぼやけたままの視界が何とも心もとない。

 なんの非もない、ただの小市民である己が、いったいどうしてこんな目に合わなければならないのか。いつまでこんな軍隊同士の争いに関わらなければならないのだろう。早く家に帰りたい。そのような矢野の訴えを、井上は曖昧に笑って聞き流すばかりであった。矢野は情保隊に失望した。

 矢野の胃はキリキリと痛み、顔もすっかり青ざめるのであった。

 

 小林はもともと矢野のお目付け役兼ボディーガードであり、彼女は自分自身が警護対象となる事態など全く想定していなかった。

 信用の置けない在野の傭兵に重要人物の身柄を預けるなど、正気の沙汰ではない。

 素性の知れぬ部外者に背中を預けるよりは、今まで通りに小林一人で矢野を警護していた方がずっとマシだ。

 立木が運転している運搬車には、情保隊がお近づきの印にと押し付けた二台の41式もドーリーごと牽引されている。これは矢野と小林が夕映会から脱出する際に治安隊から奪った機体であり、書類上は浜松基地へアビエイターとともに出張しているはずのものであった。

 この二台の41式は治安隊と夕映会のつながりを証明する重要なカードだが、何の準備も整っていない今のタイミングでその存在を公にすると逆に情保隊が反逆者に認定されかねないため、今は立木に押し付けておこうというのが井上の腹であった。

 治安隊叛逆の証拠をことごとく赤の他人に無理やり放り投げたのだ。この傭兵が情保隊を裏切った場合、井上はどうするつもりなのだろう。彼女には検討もつかない。

 小林も小林で、事態を放り出して逃げ出すわけにはいかない事情がある。元々、彼女がボディーガードとして矢野に張り付いていたのには理由があったのだ。しかし、井上は小林の事情など知る由もなく、勝手に状況を面倒なものにしてしまった。

 小林の胃はキリキリと痛み、眉間には深い皺が刻まれるのであった。


 三人はお互いに警戒し怒っていたが、しかしそれ以上に、全員が井上の判断へ不審を抱き、苛立っていた。

 そういった意味では、この場にいる者たちの心は一つであった。


 カオリは熱心に国語の教科書を読みふけっていた。まだ、音読しなければ読み進めることはできないが、しかし彼女はすでに文章というものを理解していた。

 カオリがめくっているページには物語が記されていた。鉄道に乗って遠い星空を旅する物語だ。その内容が意味するところを、カオリはほとんど理解できない。物語の作者が読者に何を訴えかけたいのか、推し量ることもできない。

 しかし、それに描かれた、どこか遠くの知らない世界の情景は、カオリの荒んだ感受性に眩いほどの衝撃をもたらした。カオリ知る由も無いが、その不可解な情動の正体は、俗に感動と呼ばれるものだった。視界の中の狭く暗い現実にのみ生きてきたカオリに、想像力という力が萌芽したのだ。


 タダシは事務所の片隅に放置されていた民生品の古いラジオ受信機をいじり回している。幼いタダシの手のひらに乗るほどの小さくチャチなラジオ受信機は、元は防災グッズの一種として販売されていたものであり、非常に頑丈であることだけを特長としていた。

 タダシはラジオのダイヤルをいじり回し、電波を拾うべく試行錯誤する。彼の興味はラジオ放送のコンテンツではなくラジオという機械の仕組みにあった。

 タダシにとって、世界のほとんどは理解できない不条理なもので構成されていた。戦争、貧困、社会。どれもが非合理的で不可解なものだ。分析しようとすればするほど飲み込み難い矛盾に突き当たってしまう。一方、機械の解釈は簡単だ。明確な目的によって存在し、人の操作をあるがままに受け入れる。タダシにとって機械の道理とは、世界という夜道を照らす微かな星明かりに等しかった。


 姉弟の耳に、駐車場のほうからエンジン音が届く。警報は作動していない。立木が帰ってきたのだ。


 車庫に運搬車を入れると、立木は事務所へ向かう。その立木を追い、矢野と小林も車を降りる。

 三人が廃材置き場のような事務所へ入ると、ボロボロのソファの上に寝っ転がっている幼い姉弟が迎えた。

「おかえり、立木」

「ああ」

 くたびれた国語の教科書から目を離さず、それでもカオリは迎えの挨拶を立木に投げかけた。

「ごはん」

「ああ」

 タダシは立木のシャツの裾を掴み、給湯室へ牽引しようとする。

「えっ、子供」

 矢野が素っ頓狂な声を出すと、ようやくカオリは教科書から顔を上げ、立木の後ろの二人へ目を向けた。

 立木の後ろには、ひょろ長い体躯の頼りなさげな若い男と、小柄で引き締まった身体付きの女がいる。男の方は、肩の力の抜け具合やぼんやりとした表情から、感覚的に“ちょろい”と判断することができた。しかし、女は違う。敵を見るような目つきで静かに周囲を伺う女のその様は、暴力の行使に慣れた者特有のきな臭さを漂わせている。カオリは見知らぬ大人の闖入に、身を硬くした。

「誰なの」

「仕事の客だ。無視していい」

 “あずまや”での打ち合わせで井上たちに向けられた刺々しさは鳴りを潜め、立木はただ言葉少なげに子供達の話に応じる。

 立木は給湯室の冷蔵庫から缶詰やら冷凍食品やらを取り出すと、流し台へ山積みになっていた皿を引っ張り出し、そこへ開ける。皿の上に糧食とも呼びがたい食材の山を築き上げると、レンジでしばし温め、背もたれの壊れた丸椅子に乗せた。これが今晩の食卓である。

「俺は食って来たから、お前たちだけで食え」

「わかった」

「食ったら歯を磨けよ。歯ブラシの使い方、覚えただろ」

 床に座り込み、スプーンで皿の上の食料を掻き込む姉弟。それを尻目に、立木はソファへ腰掛けると、カバンからタブレットを引っ張り出して書類仕事を始めた。

 矢野と小林は捨て置かれたまま部屋の隅に突っ立っている。

 立木の子供たちに対する穏やかな対応を見て、矢野はわずかな希望を抱いた。立木という傭兵は、その容貌よりは優しい男なのではないかと。

 矢野は恐る恐る、タブレットと格闘している立木へ声をかける。

「あの、僕たちはどうしましょう。どこか、邪魔にならないような、休める場所は……」

「床で寝ろ」

「えっ」

「床で寝ろ」

 立木はタブレットの画面から顔も上げずに冷たく言い捨てた。

「私は構いませんが、こちらの矢野は軍属の民間人です。できれば配慮いただきたいのですが」

 小林の声を聞き、立木は顔を上げる。そして目を瞬かせた。

 “あんた女だったのか。”立木はその言葉をすんでのところで飲み込む。

「……何か?」

「いや」

 小林の冷たい視線を躱し、立木は部屋の収納スペースの扉を開いた。シュラフを一つ探し出して小林に渡す。

「向こうの応接室の長椅子で寝てくれ。女一人分くらいのスペースならある」

 シュラフを抱えた小林は応接室へ立ち去った。立木は再び仕事に戻る。

 矢野はオロオロと、立木と応接室への扉を交互に見やった。

「それで、僕はどこに」

「床で寝ろ」

「えっ」

 二台の41式の置き場所も考慮する必要がある。今後の出費に想いを巡らせつつ、立木はタブレットの画面を睨んだ。

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