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#18 東洋戦線

 半裸で地下道を連行されている小林を、男達が卑猥な言葉で侮辱する。小林は男達に取り合うことなく、横目で周辺の状況を観察する。車庫の横に車両用エレベータを発見すると、その場所を目に焼き付けた。

 小林の心は長い軍隊生活の中で固く凍り付いており、そう簡単には揺らがないのだ。

 尋問室の前にたどり着く。

 多井は懐から鍵を取り出し、ノブの鍵穴へ差し込む。軋んだ音を立てて、分厚い鉄扉が開いた。

 尋問室の様相が小林の前に現れる。

 薄暗い室内の奥には、パイプ椅子に拘束され、全身に傷を負って俯く矢野の姿があった。血と汗と嘔吐物の匂いが小林の鼻をつく。

 矢野の目元は涙に濡れていたが、その眦は怒りに燃えて東田を睨んでた。

 小林は瞠目した。矢野は心折れてなかったのだ。

「まあ、入ってくれや」

 東田の言葉に従い、多井達は小林の腕を掴んで尋問室へ足を踏み入れる。

 矢野は半裸の小林を見て顔を歪めて歯ぎしりした。矢野は小林の受けた仕打ちに怒っているのだ。小林は形容しがたい気まずさを覚え、矢野から目をそらす。

「じゃあ後は頼むわ」

 東田は取り巻きを引き連れて部屋を後にした。

 尋問室には、矢野と小林、そして治安隊の隊員達が残される。仄暗い室内に重い沈黙と燻る敵意が横たわった。

 数分間、彼らは無言で睨み合いを続けた。多井は矢野が状況を飲み込む時間を与えたのだ。

 多井はおもむろに、後ろ手に拘束された小林を矢野の目の前に立たせる。そして、彼女のこめかみへ拳銃を突きつけた。

「なんでここに女を連れてきたか、わかるな?」

 多井は矢野を見下ろす。その口調は穏やかであり、理性的であった。多井は己の行動に何の迷いも抱いていない。必要とあらば殺す、その頑なな揺るぎなさが彼の軍人としての資質であった。

 小林は、トリガーにかけられた多井の人差し指一本に命を握られながらも、冷静に目の前の矢野を観察した。彼の顔はパンパンに腫れ上がり、スーツは血と砂にまみれている。実質的に民間人の身に過ぎない矢野が兵隊達の暴力に耐えるには、果たしてどれほどの覚悟と意思の強さを必要とするのか、小林には図りかねた。

「拳銃が嫌ならナイフでもいいぞ。まずは鼻から削ぎ落としてみようか?」

 多井はナイフの切っ先を小林の鼻先に押し付ける。冷たく硬い刃が小林の皮膚を裂き、口元を介して彼女の浅黒く日焼けした顎に血が伝った。

「やめろ!」

 矢野が怒鳴る。

「わかった、わかったからやめてくれ」

 矢野は折れた。うなだれ、涙をこぼしながら、蚊の鳴くような声で白旗を揚げた。

「あんたらに従う。だから彼女を放してやってくれ」

 多井はうなずき、小林から銃口を離す。そして部下に矢野の拘束を解くよう命令した。

 矢野は自分の保身のためではなく、小林の命のために己を曲げたのだ。

 小林は長らく暴力の世界に生きてきたからこそ、暴力に耐えることの難しさを知っている。暴力に耐えることはできても、人死にには耐えられない男である矢野の、その子供じみた矜恃に、小林は苦笑した。

「本当は私があなたを守らなきゃいけないんですけどね。これじゃ立場が逆ですね」

「小林軍曹、僕は」

「私もそろそろ仕事をします」

 小林は舌の上で転がしていた差し歯を、多井の横顔へ吐きつける。

 閃光と轟音が尋問室に満ちた。


 組織の中で人間を使役したいのであれば、賞ではなく罰を与えるべきである。結局、人を最大限に動かすものは、報酬ではなく恐怖なのだ。古今東西の軍隊において、上官が部下を暴力で屈服させ支配しているのは、それが最も効率が良い方法であるからだ。

 飴など無くとも鞭さえあれば人間は奴隷にできる。

 とはいえ、国家は軍隊でも企業でもない。

 軍事や経営は最終的な勝利のみが尊ばれるが、統治には手段や過程の正当性が不可欠だ。国家を成しているのは自由意志を持った人間であり、彼らを精神的に掌握しなければ政治を運営することはできない。イデオロギー的な正しさを持たない国家は、いくら軍事的、経済的に強大であっても容易に瓦解してしまうものである。

 だから、統治者は被支配者が力を持つことを良しとしない。

<国民など多少飢えて元気が無い方がちょうど良い>

 国民が力を持ち過ぎれば、個々の権力者の立場は相対的に弱くなる。日本が国家総体として豊かになろうと、権力者個人には利益にならないのだ。

「それがあんたら“逃げ得組”の総意ってことでいいのかい」

 東田は自室でタバコをふかしながら通信機の向こうの相手をなじった。

<オリエンタルフロント(東洋戦線)構築に与するものの総意だ>

 それはアメリカの意思であるということだ。日本はアメリカの国家戦略の下に、再び太平洋の蓋となる事が定められている。

 かつてアメリカは日本を御し切ることができず、それが中国の増長を招いた。だから、日本には適度に弱体化してもらうこととなったのである。

「あんたのお孫さんは大した奴だったよ。だいぶ痛めつけたがなかなか頑固でなあ」

<そうか。ところで一緒に連れてきた小林という女、あれは目障りだ。早めに消しておけ>

「あの娘がどうかしたのか?」

<臨時政府の中でも鼻っ柱の強い連中の犬だ。こそこそ我々の所在を嗅ぎ回っている。生かしておけば夕映会にとっても害になるだろう>

「わかったよ」

 通信は終わった。

 東田は短くなったタバコを床に投げ捨て、足で踏みにじる。そして新たな一本を取り出し、火をつけた。

 元防衛大臣“矢野治郎”。彼こそが先ほど東田と通信を行っていた相手であり、矢野の祖父だ。腐敗し機能不全を起こした外務省に代わり、米国との強固なパイプを短期間で築き上げ戦中戦後のロードマップをほぼ一人で書き上げた男である。そして逃げ得組の中でも最大の派閥のリーダーであり、夕映会の有力なスポンサーでもあった。東田はこの矢野元防衛大臣の意向を受けて、彼の孫を拉致してきたのである。

 矢野治郎と東田の付き合いは長い。

 そして、旧自衛隊が軍に昇格したのも矢野治郎の尽力の賜物である。

 矢野は夕映会の工作によって、すでに公的に死んだこととなっている。そして、矢野の死は三津菱の怒りを買うだろう。三津菱の怒りは東京政府の怒りだ。東京政府と静岡自衛軍は協調し、反体制勢力との対テロ戦争を開始する手はずとなっている。こうして東京政府と自衛軍が手を取り合ったという実績は、やがて来たる日本再統一のための布石となるのであった。


 そのとき、突如として耳を擘く金属音が、扉の外から轟いた。東田は舌打ちをすると廊下へ飛び出す。

 銃声と絶叫が地下道に響き渡る。東田は矢野と小林の反撃を察した。

 小林と矢野を引き合わせたのは失敗だったのだ。むざむざ二人に反抗の機会を与えてしまった。欲をかかずさっさと殺すべきだった。東田は己の判断を悔いた。

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