#15 泉津の底
矢野が小林と出会ったのは、静岡基地試験場のKRV装備研究所システム研究部に初出勤した、一年前の初春のことであった。
矢野からの小林に対する第一印象は、決して悪いものではなかった。今でこそ小林の態度は冷淡そのものであるが、矢野と出会った当初は、顔を合わせれば愛想笑いの一つくらいは返していたのである。しかし、軍人と一般民間人は、やはり相容れないものである。企業体制の原型は軍隊であるとは言われているが、しかし命に対する根源的な捉え方の違いは、やはり軍民の両者に見えざる埋め難い溝を刻んでいたのだ。
矢野は静岡基地近隣の街の官舎に住んでいたが、仕事の進行の状況によっては研究所に泊まり込むこともままあった。また、そういった場合にはもちろん小林も共に徹夜を行うこととなっていた。
そしてその日、矢野が人気のない深夜の事務所で書類仕事を行っていると、不意にけたたましい足音を立てながら屈強な兵士たちが現れた。彼らは石鹸をタオルに包んで振り回しながら矢野のデスクを囲んだ。
矢野は階級こそ与えられているが実態はただの軍属であり、よそ者として兵士たちから嫌われている。だから、常日頃から不平を溜め込んでいる普通科の兵士たちから、鬱憤ばらしを兼ねた制裁の標的となってしまったのだ。
それは軍隊においてよくある新米への洗礼であって、兵士たちに殺意などは無かったのかもしれない。しかし、矢野の護衛を任務とする小林は、彼らの凶行を許さなかった。
小林は拳銃を向けて兵士たちに警告し、その様を彼らが嘲笑するや即座に発砲した。兵士たちは全員死んだ。一瞬の出来事だった。
矢野が人間の死体を見たのは生まれて初めてのことではない。解放軍の核攻撃で煉獄と化した東京では、数え切れないほどの亡骸や、死に切れずにいる半死体をその目に焼き付けてきた。しかし、そこに同じ日本人同士の殺し合いはなかった。
その日以来、矢野は小林からあからさまに距離をとった。平然と人間に向かって銃を向けることができる者とともに仕事をするのは、矢野に多大な心労を強いたのである。
そして小林は、そんな矢野を軽蔑した。誇りやイデオロギー、あるいは信条などといった理屈などではなく、女性としての本能で、小林は“弱い男”である矢野を嫌ったのだ。
「あの日の東京では全ての人々が力を合わせていた」これは矢野の主観であり、実際には人々の間で様々な形の生存競争が勃発していたのだが、しかし彼のちっぽけな世界観の中では真実であり、心のよりどころとなっていた。
狭く暗い地下の一室にて、矢野は硬いパイプ椅子に後ろ手で拘束されていた。立て付けの悪い鉄扉が耳障りな軋みを立てながら閉じる。矢野の周囲を屈強で柄の悪い男達が取り囲み、彼を剣呑な目つきで睨めつけている。
矢野の正面には錆びついたテーブルが設置されており、それを挟んだ対面で東田が丸椅子に腰掛けていた。東田はタバコを吹かし、机の上の電灯を点ける。古めかしい電球が放つ煌々とした光が矢野の顔面を炙った。矢野は呻き声をあげて顔を背ける。
「なんなんだ……あんた達みたいなのが僕にいったい何の……」
「KTDLSについて、だ。迎えによこした連中から聞いてなかったのか?」
東田は矢野のカバンを机の上にひっくり返した。大量の書類や記録媒体がこぼれ落ちる。東田はその書類の中からKTDLSに関する資料を一枚摘み上げると、矢野にひらひらと見せつけた。
「単刀直入に言う。KTDLSのサーバに侵入して、ちょっと細工をしてもらいたい」
東田の要求は明快だった。KTDLSの運用情報を収集し送信するスパイウェアをサーバへ潜ませたい、そして夕映会のKRVにもKTDLSと同様のシステムを搭載したいという話である。
「そんなの無理だ」
矢野は恐怖に震えながら喉から絞り出すように答えた。
「あのシステムは僕一人で開発しているわけじゃ無い。アクセスキーだって常時変更され続けてるし、操作ログは本社が逐一監視してる。できるわけない」
東田の傍に控えていた男が矢野を殴りつけた。矢野は椅子に拘束されたまま勢いよく仰向けにひっくり返る。眼鏡が部屋の隅に吹っ飛ぶ。矢野は生まれて初めて暴力に晒され、白目を剥きながら嗚咽を漏らした。
東田はひっくり返った矢野の横に腰を下ろし、その顔を覗き込む。そしてタバコの煙を吹き掛けた。
「なあ、俺たちはな、何も考えず勢いで攫ってきたってわけじゃない。ちゃんとお前さんのことを調べた上で、こうやって頼んでんだ」
矢野は返す言葉を探し、口をもごもごと動かした。東田は言葉を続ける。
「あんたが作ってる提供型KTDLSは、ベンダーとの連携を考慮してカスタムされているだろう。そして、不届きな下請け傭兵の不正利用による情報漏洩を防ぐため、スタンドアロン化されているはずだ」
東田の言葉は事実であった。
静岡基地が運用している提供型KTDLSは、矢野たちが所属する静岡基地研究所とシンプレックス静岡支店との共同開発で製造された特別製である。短期契約兵力であるベンダーに対し期間限定でKTDLSユーザー権限を提供することができるというシステムであり、不正アクセスの踏み台にされないように三津菱本社のネットワークから遮断されていた。そして提供型KTDLSの開発環境の管理者は矢野である。
つまり矢野は、静岡基地に設置されているKTDLSサーバへ、痕跡を残さずアクセスすることが可能なのであった。
「矢野さんよ、あんたはさっきの爆弾テロで死んだことになってる。治安隊の手回しでな。今頃は、あんたの名前が書かれた死体袋に、そこらで適当に調達したバラバラの肉片が詰められてる所だろう」
矢野はポロポロと涙をこぼしながら東田の顔を見上げた。
東田は机の上の煙缶へタバコを押し付ける。
「あんたのアクセスキーが失効するまでどれくらいの時間が残されてるかはわからん。今はまだ大丈夫なはずだが、そう長くはないだろう」
天井の蛍光灯が明滅する。周囲の男たちが影に揺らぐ。
「もう一度だけ言うぞ。KTDLSのサーバに侵入しろ。今ならできるはずだ。できなければ……」
できなければ殺す。東田の要求はやはり明確であり、有無を言わせぬものだった。
「急にスパイウェアなんて作れない」
「サーバーにバックドアを仕込むなりすれば、あとでゆっくり作り込むこともできるだろ」
東田の言葉はいちいち尤もであり、矢野の退路を確実に塞いでいく。そもそも東田はKRV開発に携わった著名な技術者でもあり、ハードウェアに関する知識ならば矢野よりも秀でているのだ。その場しのぎの誤魔化しなど通じる相手ではなかった。
「とりあえずパス通すだけでもやってくんねえかなあ。それともタコ部屋にぶち込まれて死ぬまで穴掘りするか? つらいぜ、ありゃ」
矢野は決して頑なな男では無い。企業や軍に対する忠誠心や、身の程を超えた功名心なども持ち合わせていない。
矢野が東田の要求に渋っているのは、反体制組織に協力すれば仮に救出されたとしても死刑になるからである。救出されなければ、用済みになった時点で始末されるだろう。もちろん、このまま反抗し続けても即座に殺される。
矢野が生き延びるには、とにかく救助が来ることを信じて時間を稼ぐしかないのだ。
「あんたたちは、なんで軍を攻撃するんだ。恨みでもあるのか」
矢野は必死に話題をすり替えてタイムリミットを引き延ばそうと試みる。
「僕は軍人じゃ無いんだ。巻き込まないでくれ」
「なんでって、そりゃ日本の未来のためかな。笑うなよ、本気だからな」
東田の返答は胡乱だった。嘘だ、と矢野は感じた。矢野は東田の言葉の欺瞞に直感的に気がついていた。金の力学が支配するビジネスという戦場において生き延びてきた矢野にならばこそ、東田の嘘を本能的に察することができた。東田の言葉には誠意がないのだ。
そして矢野は、この土壇場で思い出してしまった。あの日の、嘘つきへの怒りを。
どのみち死ぬなら、という捨て鉢な根性が、矢野の意思を固めた。
「ぼ、僕はお前らの命令なんて聴かないぞ。犯罪の片棒なんて担ぎたくない」
即座に、椅子に縛られたまま倒れ伏している矢野の全身へ、難民の男達の踵やつま先が叩き込まれた。吹き飛んだ歯が薄暗い床に散らばる。薄暗い部屋に矢野の悲鳴が響いた。




