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#13 仲秋

挿絵(By みてみん)

 五年前の秋の日、矢野はまだ一九歳の大学生だった。

 翌年に徴兵を控え憂鬱な日々を送っていた彼は、何となく、さしたる理由もなく、ふとした思いつきで東京の下宿先から静岡の実家へ帰省した。それは、バイトをクビになって暇になったせいだったのかもしれないし、あるいは虫の知らせというものであったのかもしれない。

 無人の駅を降り、閑散とした商店街を抜け、七色に汚れた川を渡り、実家へ徒歩で向かう。本当は安全を鑑みればゴロツキが徘徊する街中などは車両で移動するべきだろうが、しかしこの時代において貧しい地方ではタクシーやバスなどの公共交通手段はほとんど失われてしまったため、歩くより他はなかった。

 2021年の羽田事件から二十年を経た今、日本は貧困国に転落していた。飢餓がはびこり、治安は悪化し、武装組織が跋扈する紛争地帯となったのである。

 矢野は防衛省に勤める背広組であった両親の稼ぎにより裕福な生活を送っていたが、幼少時より静岡の本家に捨て置かれて育っており、あまり幸福とは言えない子供時代を過ごしていた。

 矢野が己の境遇の幸運を自覚したのは、彼が高校に上がって以降のことである。彼の中学生の頃の同級生達は、その多くが高校へ進学することも叶わず、出稼ぎに行った都会や海外で過酷な生活を送っていた。それに比べれば、高校や大学に進学できる矢野は社会の勝者と言っても過言ではなかった。

 羽田事件の年に生まれた矢野は、滅びゆく社会を内側から傍観しつつ成長し、大人へ近づいていった。無事に大学へ進み、卒業後の進路がおぼろげにも見えてきた、そういう時期を迎えていたのだ。

 矢野はエリート階級ではあるが、官僚への道を選ばず、技術者として一般企業へ務めることを目指していた。そのため兵役免除の対象から外れ、多くの労働階級の家庭に生まれた同世代の若者達と一緒に徴兵されることが決まっていた。

 矢野は廃屋が立ち並ぶ住宅街を抜け、なだらかな丘を登る。息を切らせつつ頂上に着けば、目の前には懐かしき生家の門扉が佇んでいた。

 矢野は木造の古めかしい門柱に備えられたインターホンのボタンを押す。

 反応はない。

 何度もボタンを押してみるがインターホンに返答はない。

 矢野は諦めて裏口へまわり、鍵を開けて敷地内へ入った。

 砂利と芝生と飛び石の中庭。大きなカエデの木。和風平屋の巨大な豪邸。何もかも見慣れた光景だった。

 しかし、人がいない。駐車場へ回り込むが、一台も停められている車はなかった。

 実家は放棄されていたのだ。矢野を置き去りにして。

 無人の屋内で矢野は呆然と佇み続けた。


 矢野が日中開戦と東京消滅の報を知ったのは、その日の夜のことだった。

 矢野は幸運だった。彼が東京を発ってから数時間後に、大学や下宿先は核の炎で焼き尽くされていた。矢野は紙一重の差で命を拾ったのである。

 矢野の両親や祖父は、前日のうちに日中開戦の予兆を知り、財産を携えて海外へ逃げていた。

 矢野の両親にとって、矢野は“家庭を持つ”という出世に必要な要素を満たすための道具でしかない。つまり矢野はこの世に誕生した時点で一族からはお役御免とみなされていたのだ。そして官僚や政治家への道からドロップアウトし一族の利害関係者ではなくなったことで、矢野の存在価値は完全に消滅した。だから見捨てられたのである。

 意図せぬ幸運な巡り合わせで命を拾った矢野は、電車やバス、そしてヒッチハイクを駆使し、数日を費やして何とか東京へ戻った。静岡の生家へ留まることも考えたが、治安の悪い地方に長居することは危険であると判断したのである。そしてその選択は正しかった。開戦からほどなくして、静岡県東部は戦禍に見舞われて壊滅したのであった。

 矢野は東京の復興に技術者として従事することで、日々の糊口をしのいだ。やがて矢野の働きは戦争によって人手を失った三津菱重工業の目に止まり、彼は雇用されることとなった。


 そして五年後の2047年8月末。

 矢野少尉は東京の三津菱本社での仕事を終え、部下の小林軍曹とともに静岡空港へ戻ってきていた。両者ともビジネススーツを纏っており、一見すると民間の会社員であるようにも見える。

 矢野は少尉の肩書きを持ってはいるが士官としての権限は有しておらず、実態としては軍属の一般人である。彼は三津菱の技術者であり、静岡基地試験場のKRV装備研究所システム研究部へ技術スタッフとして派遣されていたのである。矢野の少尉の階級は、基地内で仕事を行うための制度上の身分に過ぎなかった。

 矢野はエンジニアとしての仕事の他にも、今回のように技官として折衝や交渉に駆り出されることもあった。これは、彼の祖父が元防衛大臣であったことや、両親が官僚であったことが理由である。軍閥に文民統制も何もあったものではないが、しかし軍人だけで政治が回せるほど日本社会も単純ではないのだ。

 矢野と小林は機体を降り、国内線のロビーを進む。構内は以前と変わらず混雑していたが、心なしかかつてと比べて軍服姿の者の割合が多く、雰囲気もピリピリと張り詰めている。

 静岡空港は、上陸軍の蹂躙により日本の要所が焦土と化した現在でも稼働している数少ないハブ空港の一つである。現在は自衛軍の管理下に置かれており、軍用機も数多く発着していたため、その警備は厳重であった。特にここ数日は、富士で発生した騒乱の影響を受けて警備体制が一層神経質なものとなっており、富士基地から派遣された部隊までもが施設内の各所で目を光らせていた。

 矢野と小林は人ごみでごった返すラウンジの壁際にて静岡基地からの迎えを待つ。

 矢野は壁に背を預け、売店で買った早めの昼食がわりのコーヒーを啜る。矢野は分厚いメガネの奥で神経質に視線を巡らし、人混みの中に迎えを探し求めた。一方、小林は矢野の傍らで直立不動のまま周辺の様子を注意深く伺っている。二人の間に会話はない。

 小林は書面上では矢野の助手ということになっているが、実際には情報保全隊から送られた監視役である。矢野が自衛軍両内部の機密を漏らすようなことがあれば即座に処刑……とまではいかなくとも、上層部に告げ口され、矢野とその仲間達は研究所から放り出されて失業してしまうだろう。馴れ合うような関係ではないのだ。

 背丈こそ高いものの不健康に痩せ気味で姿勢も良く無い矢野に対し、小林は小柄ながら引き締まった兵士として隙のない体躯をしている。化粧気はなく、髪も短く切りそろえられているため一見すると少年のようにも見えるが、小林は矢野と同年代の女性であった。

 ふと、小林が一点の方向へ鋭い視線を向ける。小林の視線の先には、矢野たちを見据える数人の兵士の姿があった。

 兵士たちは大股で矢野たちの元で歩み寄り、二人の行動を阻むように囲む。

「矢野少尉ですね」

「そうですが、何か」

「あなたたちが不法に持ち出した機密文書についてお聞きしたいことがあります。ご同行願えますね」

「機密文書?」

「KTDLSの仕様書ですよ」

 兵士たちは携えた小銃を威圧的に構え直す。兵士たちのネームプレートには、富士基地の治安隊第三分隊に所属している兵士であるという旨が表記されていた。

「仕様書って……あれはただ追加修正の要件をメモっただけの」

「少尉」

 兵士たちに抗弁する矢野の腕を、小林が掴む。

「彼らも命令に従ってるだけでしょう。この場でどうこう言ってもしかたありません」

 小林の言葉に、矢野は肯首するしかなかった。


 矢野たちは大人しく兵士たちに連行されていく。

 行き先は空港の警備室ではなく、治安隊の詰め所であるようだった。

 兵士たちが穏当に二人を連行したのは、三津菱から派遣されてきた軍属である矢野に対する配慮である。矢野がただの一兵卒か、あるいは一般人であるならば、抗弁した時点で銃弾を脳天に叩き込まれていてもおかしくはない。矢野は武装した兵士へ丸腰で抵抗することのリスクに気がついていないのだ。素行の良さで知られる治安隊が職分を超えて空港で活動しているという状況も不穏に感じられる。小林は矢野の能天気さに腹を立てていた。

 空港の警備部に話を通す様子もなく、軍の部隊が銃器をちらつかせて技術者を連行しているという状況もおかしい。筋が通っていない。

 小林は原隊である静岡基地の情保隊へ連絡する機会を伺っていた。


 小林が警戒心と危機感を募らせる一方、矢野はこの連行を軍による嫌がらせと捉えていた。“仕様書について”という彼らの言葉からして、この治安隊の兵士たちは機密情報の持ち出しという口実で自分を空港へ足止めする気なのだろう、というのが矢野の考えであった。

 矢野は軍人としての教育を受けていない一方で少尉としての肩書きを持っている。開戦前後に敵前逃亡した富裕層、いわゆる“逃げ得組”の血縁者であり、軍の流儀も知らずに士官の地位を得たのである。それについて良い顔をしない兵士は大勢いた。彼には敵が多いのだ。

 矢野は小林を信用していない。矢野からすれば小林も治安隊と同じ側の人間であり、仕事の障害物でしかないと認識していた。矢野の同僚の中には、小林を矢野の愛人だと謗る者もいるが、それは全く根拠のない中傷でしかない。

 矢野は、自分が世間の道徳に悖ることのない、後ろめたさなどない正しい人生を歩んでいるという自負がある。今は不本意にも軍に組している身分ではあるが、いずれ自分の技術は復興の助力になるだろうという確信があった。矢野は技術者であることに誇りを抱いており、兵隊の難癖など歯牙にかける必要などないと認識していたのである。

 警戒心を漲らせる小林の横で、矢野は、早く家に帰りたい、などと呑気に考えていた。


 そのとき、地響きが起きた。

 同時に乾いた破裂音とガラスが砕け散る音が空港内で何度も響いた。空気が重く震える。矢野は小林にタックルされ、硬い床に押し倒された。

 悲鳴と怒号が聞こえる。

「テロだ!」

 誰かが叫んだ。

 空港は狂騒の坩堝となった。

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