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人魚の涙は碧空に舞う

人は一生のうちに、どれだけの涙を流すだろう。


悲しいとき、嬉しいとき。

その時々に溢れた言葉にならない想いは透明なしずくとなって、目からこぼれ落ちる。


流す涙は色なんてなくて、ただただ金剛石のようにきらきらと輝く。


少年はそんな、誰もがもっているものに憧れた。

だって、彼の涙は───。









彼の一日は、水平線から太陽が顔を出した時に始まる。


「んん…」


ベッドから身を起こして眩い朝日をしかめっ面で睨み返す。

寝起きが良くないのはいつものことだが、今日はことさら眠くて仕方がない。


「…もうひと眠り…」


二度寝しようとベッドに倒れ込んだ少年だが、彼の耳が笛のような音をとらえた。

高くたかく、海鳴りに乗って聞こえてくるのは彼の友人の声。


「もう、しょうがないなぁ…」


そう口にした少年の唇は、楽しげに弧を描いていて。


クローゼットから適当にシャツを引っ張り出し、歩きながら器用に着替えて食べられそうなものを適当に掴んで外へ飛び出す。

天の光を集めたような銀に近い金色の髪がさらりと潮風に揺れ、空色の瞳が力いっぱい輝く。


少年の名は、シエロといった。









「きゅ〜…」


「だからごめんって。昨日読み始めた本が面白くって、寝るのが遅かったんだよ…」


誰が作ったかもわからない古びた木の桟橋の先端に腰かけ、シエロは波の合間から顔を出しているイルカの鼻先を軽くたたいてやった。

食べかけのパンをちぎって放り投げると、イルカは水面から飛び上がって器用に捕らえる。


よくシエロのもとへ遊びにくる若いイルカ。

会話はできないが、彼の大事な友人だ。

低い海鳴りの中に高い笛のような声が聞こえたら、それは「一緒に遊ぼう」の合図。

幼い頃からの友人であるこのイルカは、シエロにとって兄弟に近い存在なのである。


桟橋のある浜辺のいちばん端、石の階段を少し上って朽ちた教会を通り過ぎたところにある白壁のちいさな家が、彼の暮らしている場所。

両親は何年か前に海の事故でこの世を去り、今あの家にいるのはシエロただひとり。


加えてあたりにはシエロのほかに誰も住んでおらず、話し声といえば彼が楽しげにイルカに語りかけるそれだけだ。


しばらくイルカと会話らしきものをしていたシエロだが、唐突に何かを思い出したのか、ばね仕掛けの人形のように立ち上がった。


「そうだ、今日は町へ買い出しに行くんだった!」


ここから一時間ほど歩いた場所に、比較的大きな町がある。

シエロは時々町へ出かけ、生活に必要なものを手に入れに行くのだ。

もちろんただで、というわけはなく、このあたりの海で釣った魚を売り、貰った代金をその費用に当てている。


「ごめんな。夕方には戻るから、そうしたらまた会いに行くよ」


「きゅきゅっ!」


シエロの大事な友人は「また会いに行く」という言葉をちゃんと理解してくれたらしく、ぐるぐるとそこらじゅうを泳ぎ回っている。


「ははっ、じゃあ、また後で!」


残りのパンを口に押し込み、軽快な足取りで走り出す。


今日は忙しくなりそうだ。









「地図と買い物リスト、あとお金…」


必要なものを革の鞄に詰めていきながら、部屋を忙しなく歩き回る。

両親以外の人間が身近にいない環境で育ったシエロにとって、町へ出かけることは常に緊張がつきまとう。

町で暮らすことも考えたことはあったけれど、どうしても踏み切れなかった。

それはシエロが大勢の人に慣れていないせいもあるが、いちばんの原因はシエロが抱える秘密にあった。


った!」


周りが見えていなかったシエロは、クローゼットの角にしたたかに足の小指をぶつけてうずくまる。

脳天まで貫くようなじんじんとした痛みにしばしの間悶絶していると、目元から何かがぽろりとこぼれ落ちた。


「またかぁ…」


拾い上げたのは、きらきらと光る魚の鱗のようなもの。

うっすらと陽の光に透ける乳白色のそれは夢の名残にも似て淡くきらめいている。


そう。

彼は、涙の代わりにその目から小さな鱗を落とすのだ。

また、今は服に隠れその上包帯を巻いているため見えないが、右腰骨には薄い水色をした鱗が少しだけ生えている。


少年は、その身に人魚の血をひいていた。








かつて、人魚と人間は住処を近くする存在として互いを尊重しながら生きていた。

美しい容姿の人魚たちは好奇心が旺盛で、人間の暮らしに大いに興味を持っていたし、人間もまた海での暮らしを知りたがった。


しかし。

いつからか、そして確かな原因も定かではないが、人魚と人間は住む場所を完全に違え始めた。

人間は海で事故が起こったり消息を絶った者がいるとそれを人魚の仕業だとし、人魚もまた行方不明となった仲間は人間に捕らわれたのだと考えるようになったのだ。

事実、それは全くの間違いであったのだが。


二本の脚で歩く人間のような姿をとれるにもかかわらず人魚たちは陸に上がることなく、互いが互いをよく知らぬまま長い年月が経ち。


そんな折、偶然気まぐれで陸に上がった人魚がひとりの人間に恋をした。

その人魚が、シエロの祖母だったのだ。


一目で恋に落ちた彼らは自分たちが相手に抱いていたイメージが全く正しいものではなかったことを知り、互いの親の反対を押し切って結婚した。


まるでロマンス小説のようだが、本当の話。


陸の世界で暮らし始めたシエロの祖母は周囲に正体を明かすことなく、明るく快活な性格ですぐに人間の社会に受け入れられた。


そしてシエロの母が生まれ、彼女もまた普通の人間の男と夫婦になった。

もちろんその男───シエロの父は、自分の結婚相手が人魚の娘だということを知っていて彼女を愛することを誓ったのだ。


ただし。

シエロの祖母と祖父の話はとても奇跡に近いもので、今もまだ、人魚が人間の敵であると考えている者は少なくはない。

海に近い町であればあるほどそこで事故が起こると人々は極度に敏感になり、人魚の仕業ではないかという噂が後を絶たないのだ。


もしシエロが人魚の末裔であるということを知られてしまったら、今まで通りの暮らしを続けることはおろか、命の危険すらあるのではないだろうか。


だからこそ一人ではあるがそれほど不自由せず、ゆったりとしたこの生活をシエロは気に入っている、のだが。


「…あー…痛い…」


それとこの痛みは話が別だ。

一瞬、小指の骨が折れたかと思った。

足の小指は小さいくせにぶつけるとこうも痛いものだから厄介だ。


よろよろと立ち上がり目からこぼれた数枚の鱗を屑かごに捨て、ため息をひとつ。

今日は、厄日になるのかもしれない。








「よっ!久しぶりだなあシエロ!二週間ぶりくらいか?」


「…元気に、してた…?」


町へやってきたシエロを迎えたのは、この町に住む双子のファビオとフィデル。

漁師の息子であるという彼らはシエロよりも頭ひとつほど背が高く、揃いの赤茶の髪はまさしく双子であることを示しているというのに二人の性格は面白いほどに真反対だ。


ファビオは明朗快活という言葉がぴったりでよく食べよく喋り、典型的な海の男らしく賑やかなことが好き。

対するフィデルはどこか臆病で一歩引いてしまいがちなのが玉にきずだが、長い前髪に隠れた瞳はその素直な性格を表すように澄んでいることをシエロは知っている。


これほどまでに対照的な彼らだが、時折町へ訪れるシエロを二人とも快く歓迎してくれる。


シエロの数少ない人間の友人なのである。


「この通り、元気だよ!実は四日くらい前に一度来てたんだ。タイミングが悪かったみたいで会えなかったけど…」


「四日前かぁ…何してたっけ、俺たち」


「…父さんと、船の修理、してたと思う…」


「あーそうか!たしかその前日に俺が底に大穴開けちまって…」


「父さん、すごく怒ってた」


「もうあんなことは勘弁だな…」


彼らの父親とは、シエロも何度か顔を合わせたことがある。

遠くの海まで響きそうな豪快な笑い声と、日に焼けた逞しい腕。

父を亡くしたシエロのことを実の息子のように扱ってくれる人だ。


怒られた時の記憶が蘇ったのか苦虫を噛み潰したような表情で頭を抱えていたファビオだが、急に何かを思い出したらしく、はっと顔を上げた。


「そういやシエロ、父さんがお前を家に呼んで来いってうるさいんだよ。なんならうちに泊まってけばいいって。もうすっかりお気に入りでさあ…」


「…母さんも、シエロに会いたいって…言ってた」


「……そっか」


この話をするのは、何も今日が初めてではない。

今までにも何度か彼らの家で食事をしないかと誘われているのだが、シエロはどうしても快い返事をできずにいる。

だからこそ、誰かの家を訪れたこともなければ自分の家に他人を招いたこともない。


万が一、自分が人魚の血を引いていることが知られてしまったら。

そうなってしまっても、彼らはまだシエロのことを受け入れてくれるだろうか。

人魚は漁師の敵だと、そう言われているのに。


もし拒絶されてしまったら。

きっともう自分は立ち直れないだろう。


だからこそ、シエロは時々その明るい笑顔の下にそっと"人魚"の自分を隠し、深く関わることを避けるのだ。

知られなければ、ヒトでいられるから。


「なあ、近いうちにまた誘うからさ。みんなお前と話したがってるんだ」


「シエロが、うちに来てくれたら…俺たちも、嬉しい」


「…うん」


彼らは悪くないのだ。

自分が、臆病なだけで。


シエロの秘密などつゆほども知らないファビオは友人の歯切れの良くない返事に疑問を抱きつつも、話題を変えることにした。


「んで?お前は今日、何しに来たんだ?」


「ああそうだ、忘れてた!買い出しに来たんだった」


急な話題の変化ではあったもののそれに安堵を覚えたシエロ。

普段の少年らしい明るさを取り戻し、頬を掻く。


「この間フィデルが教えてくれた店の果物が美味しかったからさ。また買いに行こうと思ってたんだ」


「シエロが気に入ってくれて、嬉しい…」


「なるほどな!んじゃ、そうと決まれば大急ぎで行くぞー!」


「うわっ!ちょ、ちょっとファビオ!引きずるなよ!」


シエロの肩に腕をまわしたファビオは、そのまま彼を連れて行こうとするが。


「…ファビオ、そっちじゃないよ…」


「えっ」


少々抜けているところがあるのは、ご愛嬌というものだろう。









「ほんとに大丈夫か?結構重いだろ、それ。家まで運ぶぞ?」


ひととおりの買い物を終えると、ファビオとフィデルは町の入り口まで見送りに来てくれた。


「大丈夫だよ。ほら、この通り…うわっ!」


重さのある紙袋を両手に抱えて飛んだり跳ねたりしていると、運悪く足元の石を踏んでバランスを崩してしまうシエロ。


「…大丈夫…?」


すんでのところでフィデルが支えてくれたからいいものの、このまま転んでいたらただでは済まなかったかもしれない。


「だ、大丈夫だいじょうぶ!ちょっと失敗しただけだから!じゃあ、僕もうそろそろ行かなきゃ。また来るね!」


フィデルからぱっと身を離し、誤魔化しもそこそこに背を向ける。


「おい、シエロ!」


「…ファビオ」


追いかけようとするファビオを止めたのは、意外なことにフィデルだった。


「…今は、追いかけないであげて」


「…なんでだよ」


「……」


片割れの長い前髪からのぞく瞳を見るファビオだが、何を考えているのかはわからない。

けれど、こうして自分の意志を示してくるときは何かあるということをファビオは知っているから、特に追及しようという気にはならなかった。


「次は、いつ来てくれるんだろうな」


「…そう、だね」


少年の姿がやがて夕暮れに霞んで見えなくなってしまうまで、彼らがその場を動くことはなかった。

背負った夕日が、地面によく似たふたつの影を作り出している───。








「…っていうことがあってさ。人と話すのは好きなんだ。でも、もうみんなに会えなくなったりするのは嫌だな…」


「きゅうきゅーぅ」


陽が落ちる間際の桟橋で、シエロは再び友人と語らっていた。

人語を理解しているのかどうにも怪しい気のいい友人は、朝と何ら変わらずぐるぐるとシエロの周囲を泳ぎ続けている。


腰の鱗が見えないように普段から巻いている包帯を手でさすり、重いため息をひとつ。


「僕が完璧な人間だったら、こんなに悩むことなんてなかったのかな…」


それか純血の人魚であれば。


「そういえば、母さんはどうしてたんだろう?聞いておけばよかったな」


身体の半分に人魚の血が流れていた亡き母も、シエロと同じような心を抱えていたのだろうか。

人間が持つ人魚のイメージを聞いたのは両親が命を落とした後だったから、これほどまでに壁があるとは思っていなかったのだ。


人魚は、海へ出た人間を美しい容姿と声で魅了し、近づいた人間を引きずり込んでその身を喰らうという。

人間は、陸に上がった人魚を捕らえてはその鱗を剥ぎ、挙げ句の果てには火というもので焼き殺すという。


どうしてこんなに酷い噂話になってしまったのか。

そんなこと、あるはずもないのに。


人間が海で命を落とすのは大体が高波による事故だし、人魚が時折行方知れずになるのは鮫に襲われたり遠くの海へ引っ越したりすることがほとんどなのだそうで。


ふと気がつくと、友人の姿はなくなっていた。

考え事ばかりで構ってくれないシエロに焦れて、海に帰って行ってしまったのだろう。


「うーん…」


纏まらない思考を放り投げるようにばったりと桟橋に寝転がれば、空は鮮やかな橙に燃え上がっていた。


雲すらも染め上げるその色は目の奥にまで鮮烈に焼きつき、吹きつける風に誘われでもしたのか、シエロは仰向けになったままひとり歌い始めた。



いのち煌めく 青玉せいぎょくの海

わたしは歌うわ 鈴のようなこの声で

陸のあなたと 海のわたし

生きるせかいは 違うけれど

海はすべてに つながっているの

だから 待っていて

まだ見ぬ いとしい 素敵なひと



シエロが幼い頃、母がよく歌っていた人魚の歌。

人間と人魚がまだ共に暮らしていたという遥か昔の歌だそうだけれど、もうこの歌を歌える者はほとんどいない。


それはもちろん、この歌が人間と人魚の恋を歌ったものだからだ。


けれどシエロの母は、幼い彼を腕に抱いて銀の髪を柔らかく揺らしながらこの歌をよく歌ってくれた。

繰り返し繰り返し耳にした、優しい波のような歌。

いつの間にかシエロも歌えるようになっていた。


誰も聴く者がいないからか、調子付いて続きを歌おうと口を開いた矢先。


「すてきな声ね」


透き通った響きが聞こえ、シエロは慌てて飛び起きた。


「だっ、誰!?」


こんな場所に人が来るとは思ってもいなかったシエロは上ずった声で小さく叫ぶ。

次いでみとめたその声の主に、すべての音を失ったような感覚に陥った。


波打つ銀髪は潮風を受けてふわりふわりとそよぎ、真っ白なワンピースの裾から見える手足は輝いて見えるほど白く、つばの広い帽子からのぞく深い海のように澄みきった蒼い瞳は好奇心をいっぱいに湛えている。

年齢としはシエロと同じくらいだろうか。


清廉で眩く、美しいひとだった。


絵から出てきたような、とか人形のような、とか、そんなどこにでもある美しさではない。

例えるなら朝の海。

波間から顔を出した太陽がまっすぐに光を放ち、鏡のような水面を煌めかせてシエロの胸を音もなく貫く。


やがてゆるやかに五感が戻ってきたころ、少女が薄紅の唇を開いて歌うように言った。


「ごめんなさい、急に声をかけてしまって。私はフェリース。ここへは旅行に来たの」


そう言ってふわりと笑うフェリース。


「ねえ、あなたの名前を教えて?」


「…僕は、シエロ」


かろうじてこれだけ答えたが、シエロの頭は疑問で渦巻いていた。


どうしてこんなところに人が来る?

彼女が旅行者だというのなら、いったいどうやってこの場所に来た?

まさか…誰かから聞いたのか?

誰かが、自分の家を知っている?


「…えっと、大丈夫?」


さらりという衣擦れの音に潮の香りが近くなったと思ったら、フェリースがシエロの隣に膝をついていた。

長い睫毛が天使の羽のようだな、なんて考えたのは一瞬のこと。

距離の近さにシエロの心臓は不安定なリズムを刻んだ。


「あ、ああ、うん。こんなところに誰かが来ることなんてなかったから」


「そうだったの。ここへ来たのは偶然よ。散歩をしていたら迷ってしまって。でも、ここから見る海は綺麗ね」


ふっと海に目を向ける少女の目元が、やわらかく細められる。

その横顔は、目の前の海を見ているだけのようでもあり、海ではないどこかを見ているようでもあった。

風に煽られた銀色の髪が輝く光のもとに立つ白波のようで、さらさらと揺れる音が心地いい。


何も言わず、ただ海に向かうだけの時間が流れる。

そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。

最初に口を開いたのはシエロだった。


「ここには、どのくらいいるの?」


「あまり細かいことは決めていないわ。でも、ひと月くらいはゆっくりしようと思っているの」


ふと、巣へ帰りゆく鳥の姿をみとめたフェリースがワンピースの裾を翻してすらりと立ち上がった。


「そろそろ戻らなきゃ」


その言葉に、シエロはどきりとした。

時が経てば別れるのは当然だけれど、別れをにおわせる言葉に動揺している自分がいることにシエロは驚いていた。


「…あ、うん、そっか…」


何かを言わなきゃ、そう思うのに上手い言葉が見つからない。

だいいち、自分は何を言いたいのだろう?何を言わなければいけないのだろう?

空気を求めるように口を開閉するしかできないシエロに、フェリースが問いかけた。


「またここに来ても、いい?」


「う、うん。もちろん…!」


「よかった」


ぱっと花が咲くような彼女の笑みに頬がかっと熱くなったような気がしたのは、なにも夕焼けのせいだけではないはずだ。


また彼女に会える。

そう思うだけで、シエロの心は軽やかに弾んだ。

それこそ、自分の抱える悩みを忘れてしまう程度には。








他愛のない話をし、また次に会う約束をして名残惜しさをぐっと飲み込んで華奢な背中を見送る日々が幾度か続いた。

二人が会うのはもっぱら夕暮れ時の短い間が多かったが、それでも同年代の異性とこんなに長く過ごすのが初めてなシエロにとってはすべてが新鮮に思えて。


あの桟橋でフェリースと出会ってから一週間ほど経った頃だろうか、シエロは町の人々から「何か良い事でもあったのか」と聞かれるようになった。


「何かしらね、前より声に張りがあるっていうか、歩き方も堂々としてるっていうか…」


いつも釣った魚を売りに行く場所のひとつである宿屋の女将に問うと、彼女は顎に手をあててこう答えた。

極めつけはこの一言だ。


「いい人でもできたのかと思ったわ」


…いい人、とは。

訳がわからないという顔をしているシエロに、女将はあらやだ、と声を上げて笑った。


「恋人よぉ、恋人!」


「なっ…!いませんよ恋人なんて!第一、女の人と碌に会話すらしたことなくて…痛い痛い痛い!」


「あたしは女じゃないって言うのねぇ?若い子意外は女じゃないなんて差別よー?」


「いや違っ…」


それなりに強い力で頬をぐりぐりと潰されるシエロ。

女将の手は若干乱暴ではあったものの、かけられた声はとても温かかった。


「気になる子がいるんなら躊躇っちゃ駄目よぉ?なんならあたしが女の口説き方をしっかり教えて…」


「それは遠慮しておきます!」


されるがままでは面倒なことが始まりかねないと感じたシエロは女将の手を振り切り、「また来ます!」とだけ叫んで飛び出した。


「若いわねー…」


女将がそう微笑ましげに呟いたのを、シエロは知らない。








「へえ、妹がいるんだ!」


「そうなの。二つ年下だけれど私よりもしっかりしていて…」


「君も充分しっかりしてると思うけど?」


「そう見えるように振舞っているだけよ」


「そうかなぁ」


シエロがわざとらしく肩をすくめてみせれば、くすくすと小さく笑うフェリース。

恋人のような、それでいて友達同士がただお喋りを楽しんでいるだけのような、微妙な距離感。

始めの頃は慣れない状況に戸惑っていたシエロだが、今では彼女が隣にいることがひどく自然なものに思えてならなかった。


また別の日にはふたりで昼食を摂ったこともあった。

シエロが簡単なサンドイッチを作り、フェリースが焼き菓子を買ってくる予定だった。…のだが。


「その…せっかくだから作ってみようと思って、宿の台所を借りたんだけど…」


気まずそうに開けたバスケットの中には、不恰好な形をしたクッキーが入っていた。


「この手のことには、向いてなかったみたいで…」


「でも、君が作ってくれたんだろう?」


ひょいと手を伸ばし口に一枚放り込むと、素朴ながらも優しい甘さがふわりと広がった。


「うん、美味しい!」


「無理はしないで…?」


「無理なんかじゃないって!」


シエロの表情に嘘がないことを読み取ったのか、フェリースはようやく笑みを浮かべる。

その笑顔に、シエロは思わず自分の未来を重ねた。

もしも…もしも、共に先を見据えて歩いてくれるひとがいるとすれば、彼女のようなひとがいい、と。

少し不器用で、けれど昔から一緒にいたように安らげるひと。


人魚の血をひく自分が誰かと一緒になれるなんて思ってはいないけれど。

それでも、彼女の深い海の瞳に、ありもしない「いつか」を見ずにはいられなかった。







フェリースとの出会いから、さらに幾日も経った。

お気に入りの景色、美味しいもの、そして家族のことなど、話が尽きることはなく。

互いの距離がまたさらに近づいてきたある日、フェリースは突然こんなことをシエロに聞いてきた。


「あなたは、人魚っていると思う?」


「に、人魚?」


「そう、人魚。海のちかくで暮らしている人なら生きているうちに話くらいは耳にするでしょう?」


「それは、まあ…」


結論から言ってしまえば、人魚は存在する。

自分がいるのだからそれは明白なことなのだけれど、いったい彼女がどんな答えを期待しているのかわからないシエロには何よりも難しい問いである。

たっぷりと悩んだあとで、結局シエロは自分の思うことを口にした。


「僕は、いると思うな」


「どうして?人魚は沖に出た人間を襲うって言うでしょう?」


───やっぱり。

そう聞かれると想定していたシエロは夕焼けの空にぽっかりと浮かべられた真珠色の雲を見つめながら言った。


「確かに、海の近くに住んでいればそういう話はよく聞くよ。でも、海で起こったことすべてが人魚のしたことだとは限らないんじゃないかな。僕は実際に人魚を見たって人に会ったことがないし、運悪く起こってしまった事故を他人のせいにするのは…違うんじゃないかと、僕は思う」


それに。


「…どこかには、人間と仲良くなりたいと思う人魚や、人魚と恋をする人間がいてもいいって、いてほしいって、思うから」


そう、かつての祖母のように。

人魚も人間も、同じように心がある。大切なひとを大切にしたいという心がある。


「あなたは、…いいえ、なんでもないわ」


緩く首を振るフェリースの横顔は複雑な色をのせていて、彼女が何を思っているのか、シエロには見当もつかなかった。









よく晴れたある日の昼過ぎ。

買い出しを終えたシエロは町を出てまっすぐ帰路につくところだった。

生憎フィデルとファビオの姿を見つけることはできなかったが、おそらく漁にでも出ているのだろう。


右手に広がる海は比較的おだやかで、漁をするにはうってつけの天気だ。

波の音と浜辺で遊ぶ海鳥の声。

家に戻ったらゆっくりとお気に入りの本に目を通すのもいいかな、などと考えていたシエロだが、無意識に海へ向けた空色の瞳が驚きに見開かれた。


浮かんでは沈む人の頭。

泳いでいるにしてはその動きは不規則で、伸びた両手は何かを掴もうとしているようだ。

誰かが、溺れている。それも、シエロよりももっと幼い子どもが。


「まずい…!」


辺りに人がいないことを確認すると、身につけていたシャツと靴を勢いよく脱ぎ捨て海に駆け出した。


波の抵抗をものともせず、シエロはすいすいと溺れている誰かに近づいていく。

幸い、人魚の血をひいているからか、小さい頃から泳ぐことは得意だった。


一度だけ派手に波を被ったものの、数分で子どものもとへ到着したシエロ。

冷えた小さな身体を抱きかかえ、飲み込んでしまったであろう海水を吐き出させると、ぐったりとしていた子どもが緩く顔を上げた。


「…シエロにいちゃん…?」


「大丈夫?」


溺れていたのは、シエロも顔だけは合わせたことのある漁師の息子だった。

まだ5歳のため漁に出ることはできず、船着き場までついてきては父親に叱られているのをフィデルたちと微笑ましく眺めていたのは記憶に新しい。


子どもを抱え、急いで陸地へ向かうシエロ。

いくら泳ぎの得意なシエロとはいえ、子どもの方は衣服を上下ともに身に纏ったままで、水を含んで重くなったそれが少しずつこちらの体力を削っていく。


「とうちゃんがおしごとに行っちゃったからね、さかなをつってたの…そしたら、つりざお流されちゃって…」


聞けば父から誕生日に貰った大切な釣り竿だったのだという。

彼の手にそれは握られていなかったから、おそらく取り戻すことはできなかったのだろう。


「…っそれでも、君が死んじゃったら、駄目だからね…っ」


余計に体力を奪われていくことはわかっていても、自分にすがる小さな身体を強く抱きしめてシエロは言った。


しかし。


「…っ!」


足をった。

片足だけではどうにも泳ぎはままならず、そのあまりのタイミングの悪さにシエロは舌打ちをしそうになった。

陸はまだまだ遠くに見え、シエロの体力も底を尽きかけている。


「うわっ…」


ひときわ強い波が二人を沖に連れ戻そうとし、同時に海に引きずり込まれそうな感覚に陥った。

せめて腕に抱える子どもの命だけは守らなければならないと、枷が嵌められたように重い片足を気力のみで動かそうとするが、うまく海面に顔を出すことができない。


気づけばシエロは全身を海に包まれていた。

大小さまざまな泡の粒が我先にと駆け上っていく。


水の向こうでゆらめく光がだんだんと遠くなり、音のない静かな世界に広がるのはどこか懐かしい、青。

この息苦しさを手放してしまったら、自分はどうなるだろう…?


と、その時。


「「シエロ…!」」


誰かに名前を呼ばれた気がした。

次いで力強い腕に身体をぐっと引き寄せられ、勢いよく海面に引き上げられるシエロ。


「げほ…ごほっ!」


急に呼吸を取り戻したせいで喉が痛み、頭がくらくらする。


「大丈夫か…!?」


焦りをあらわにしたファビオが、シエロの身体をしっかりと支えていた。

少し離れたところではフィデルが子どもを抱きかかえている。


「どうした、何があった!?」


「…その子が溺れてて…」


「んで助けようとして自分も溺れかけたって?そういう時は誰か人を呼べよな…」


「…俺たちの方が……きっと慣れてる、から…」


ひとりで泳ぐのと溺れた人間を抱えて泳ぐのとはわけが違う。

ファビオもフィデルも、漁の最中に海に落ちてしまうことは稀にあるため、そのような時の対処には慣れているのだろう。

二人が助けにきてくれたことに安堵したシエロであったが、結局のところ自分が足手まといになってしまったような気がして唇を噛んだ。

双子は力強い泳ぎで着実に岸へと近づいていく。見ると、子どもの母親であろう女性を含め、幾人かの人間が集まっていた。


「おい、何か拭くものもってこい!」


「怪我はしてないか?全員無事か?」


人々が右往左往している間、岸に上がり攣った足をなんとか元に戻しているシエロの肩に、ファビオがタオルをかけてくれた。


「ありがとう…助かったよ」


「ほんと無茶するなよな…ほら、これ。お前の服だろ?」


押しつけられるように渡されたのは、海に入る直前に咄嗟に脱ぎ捨てた生成りのシャツ。


「そういえば、色々と買ったものがあるはずなんだけど…どこに置いたかな」


「あ、あれお前のやつだったのか。それならさっき向こうで……おい、シエロ…それ」


「え?」


ファビオの視線をたどったシエロは、心臓が一瞬で凍りついたような心地がした。

腰に巻いていたはずの包帯がなくなっており、その下に隠していたものがあらわにされていた。

己が人ならざるものの血をひいている証───薄い水色をした、人魚の鱗が。


「あ……こ、これは…」


真っ白になった頭で必死に考えを巡らせるも、何をどうすればいいいのかわからずにいるシエロを追い詰めるように誰かが叫んだ。


「人魚だッ!あのガキ、人魚だったんだ!」


"人魚"という言葉に敏感な人々は一斉にシエロを見やる。

向けられる視線に滲むのは驚愕、恐怖、嫌悪、そして拒絶のいろ。


「騙してたんだな…俺たちを殺す機会でも探ってたんだろう…?」


「そんなはずないでしょう!」


「だからわざわざ少し離れたところに住んでいるなんて言っていたの?ほんとうは海で暮らしていることを隠すために…?」


「ち、違います!」


確かに町で暮らさないのは自分が人魚の血をひいていることを隠すためではある。

けれど誰かを傷つけようだなんて、そんなこと、ただの一度も思ったことはないのに。


じりじりと後退りをするも、町の人たちは見たこともない顔でさらに距離を詰めようとしてくる。

事態の把握ができていないのか、ファビオは口を半分開けたまま茫然としているし、フィデルにいたってはその長い前髪のせいで何を考えているのかさっぱりわからない。

ここに彼を助けてくれる人は、いない。


その場から逃げ出そうと背を向けようとした瞬間、シエロのこめかみに何かが鈍い音を立てて当たった。

足元に転がったそれは、拳よりもほんの少しだけ小さい石。


「化け物!人殺し!!」


…投げつけられた言葉は石よりも重くシエロの心を抉り、精一杯守ってきたものを一瞬にして崩してしまう。

こめかみから流れる血に不快感を覚え始めたころ、少年は後ろを振り返ることなく駆けだした。








ばれてしまった。

絶対に知られてはならなかったのに。

拒絶されてしまった。

もしかしたら、もしかしたら自分は大丈夫かもしれないと、そう心の片隅で思っていたのに。


気づけば目からははらはらと鱗が溢れ落ちていた。

波のようにきらめく鱗は彼の心を映した海よりも深い青色。

哀しみの色だった。

かつては笑顔を向けてくれた人々の剥き出しにされた敵意が、自分と彼らの生きる世界は全くもって違うのだと言わんばかりの眼差しが、何よりも哀しかった。


がむしゃらに走って枝葉をかき分け見慣れた家の近くの浜辺まで来ると、疲れきったシエロはまだ熱をもった砂地に膝をついた。

うるさいほどに聞こえてくるのは、荒くなった息と波の音。

青い鱗は花びらのように降り注いで白い砂浜に広がり、小さな海を作り出す。


町の人たちは、シエロを捕らえにくるだろうか。

捕らえて……それで?


両の腕できつく己の身体を抱きしめ、見えない何かから身を守るように小さく、ちいさく背を丸めて蹲る。

空色の瞳から鱗の最後の一枚がこぼれ落ちた頃、少年はどこか懐かしい声を聞いた───。








シエロが去った後、人々の反応は様々だった。


「ここ最近海の事故が多いような気がしたのはあいつのせいだったんだ!すぐに捕まえてなんとかするべきだ!」


「なんとか、って…?もし祟られたりでもしたらどうする?」


「…人魚って祟るのか?」


シエロを捕らえるべきだと言う者。人魚の力を恐れ、放っておくべきだと言う者。

しかしどちらにも共通しているのは、シエロを人間に危害を及ぼす存在と見なしていること。


「捕まえなくても、とりあえず町に入れなきゃいいんじゃないのか?」


「いーや。町に入れないようにしたって、きっとまた別の町に居付いてとんでもねえことをするに決まって

る。だったら今のうちに捕まえて焼いちまうとかなんとかしねえと!」


「焼く!?」


「人魚って水のモンだろ?火とか怖がるって昔じいちゃんが言ってたから」


「でもなあ…どうやって捕まえるんだよ?」


「な、なああんたら…」


いかにしてシエロを捕らえるか思案し始めた人々をはらはらしながら見ていたファビオがおそるおそる口を開いたものの、「子どもは黙ってろ」の一言でわずかに芽生えた勇気も泡のように消えてしまった。


たとえ人に害をなすと言われる人魚の血をひいていたとしても、やはりファビオにとってシエロは気の置けない友人なのだ。

しかし、そんなシエロの窮地をなんとかしてやれるほどファビオはまだ大人ではなく、また、友人が人魚であるという事実を受け止めきれずにいた。


爪の跡が残るくらい強くファビオが拳を握ったその時、ぎり、という歯ぎしりの音が聞こえ、傍らでじっと立っていたフィデルが前に進み出た。


「おい、フィデル?」


片割れの様子がおかしい。

丸くなった背中は普段と変わりないのだが、今はまるで威嚇する獣のようなぴりりとした空気を纏っている。

それがある一言で、爆発した。


「人間の振りしてたって、やっぱり化け物には違いない。いつ牙を向けられるかわかったモンじゃねえな」


「……て…」


「…え?」


「どうして、そんなことが言えるんだ!!」


岩場で遊んでいた海鳥たちが驚いて一斉に飛び立っていく。

人々は突然張り上げられた怒声の源がフィデルであることを知ると、どよめいて互いの顔を見合わせた。

そんな周囲の様子に臆することなく、フィデルは必死に言葉を続ける。


「い、今まで、シエロが誰かを傷つけたことなんてあった?ないでしょう?いつも明るくて、どんな人にも、もちろんこんな俺にだって親切にしてくれた!なのにみんなは、そんなシエロを傷つけようっていうの!?」


「…で、でもな坊主、あいつは人魚なんだぜ?人間の住む世界にいるべきじゃねえんだよ」


「人魚だからなんだっていうんだ!だからシエロはいつも……いつも寂しそうなんだ!こうなることを予想してたから…!」


町の外で暮らす不思議な少年が時折見せる翳った瞳を、フィデルはよく覚えていた。

ひとり離れた場所で暮らすのが寂しいなら町に引っ越したらいい、という申し出を、何気ない振りを装って断るその目に滲む様々な感情のいろが、記憶の片隅で長く引っかかっていた。

あの時はどうして町の外で暮らすことにこだわるのかと不思議に思っていたが、今ならよくわかる。


少しでも人としてみんなと生きていられるように。

化け物と罵られ石を投げられることがないように。


適度な距離を保ちながら、それでも彼は皆と同じでありたがった。一緒に生きたがった。

なのに。


「人間じゃないから、誰かを傷つけるかもしれないから生きてちゃいけないなんて…悲しいよ…。一番傷ついてるのはシエロのはずなのに……」


フィデルの足元の砂が、ぽつりぽつりと色を変えた。

顎を伝った海と同じ塩辛い雫は雨が降るように白い砂浜に滑り落ち、みるみるうちに吸い込まれていく。


「…もういいよ、フィデル」


弟が早口でまくしたてている間に幾分か冷静さを取り戻したファビオはフィデルの肩にそっと手をやり、首を振った。

…あとは、個人の問題。

理解してもらえたのならそれは弟の頑張りだし、たとえ理解してもらえなかったとしてもフィデルが初めて自分の意思をはっきりと口にしたのだ。

今はそれで十分だろう。


「行こうか。まずは、俺たちにできることをしなきゃな」


取りに戻る者のいない紙袋から転がった瓶詰めのジャムが、宝石のようにきらりときらめいた。








帰っておいで…と、誰かの呼ぶ声がする。

いったい、どこへ帰れというのだろう?

もう、人として生きることはできなくなってしまった。

だとすれば…


ざばざばと膝のあたりで波が白く弾ける。

太陽に十分と温められた海の水は先刻のように激しく牙をむくことなく、穏やかにシエロの身体を包んでいく。

この身の四分の一は海に生きる者なのだから、海に懐かしさを感じるのも当然なのだ。


「帰ろう…」


月の沈む場所、太陽の帰る世界に。

そこはきっと美しく、会いたかった人が腕を広げて迎えてくれることだろう。


そんなシエロを呼び止める者がいた。

焦りを滲ませてもなお耳に心地よい鈴の声は、シエロの幸福そのもの。


「何してるの!?」


自身が濡れるのも構わず、フェリースは波をかきわけてシエロのもとへと向かってくる。

そのまま存外強い力で浜辺へと引き戻そうとするフェリースの手を掴まれているのとは反対の手でやんわりとはずし、緩く首を振るシエロ。


「止めないで、くれるかな。…もう、いいから」


そう言ったシエロの声音は穏やかでこそすれ、その表情は硬く、決壊しそうな何かを必死になって押しとどめているようでもあった。


「嫌よ。だってあなた今、死のうとしていたでしょう」


ずばり言い当てられ、シエロは空色の目を伏せる。

冷えてしまった少年の手を両手で包み込みながら、少女は幼子に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「…何があったのか、話したくないのなら無理に話せなんて言わないわ。でもね、死んだら駄目。死んでしまったら、明日はないの。明日くるかもしれない良いことも、いつかくるかもしれない幸せも、なくなってしまうの」


「でも、生きていたらずっと苦しいことからは逃げられないじゃないか」


「そんなことはないわ。苦しくてすべてを投げ出したくなるのは、あなたが苦しいことの先にあるものを思い描けていないからよ。いま、自分のいる場所からは何も見えていないから…」


「……だったら、どうすればいいっていうんだ…」


「生きて。どんなに強い波に流されていたって、必死に泳いでいればいつか必ずどこかへたどり着けるんだから。もしも…もしもそれでも生きることが苦しいなら、どこかへ行こうなんて考えなくていいわ。ただそこで揺蕩うことも許されるはずだから」


フェリースの青い瞳は、見たこともない世界にある海の色のようだった。

懐かしくて、それでいてその先には何があるのだろうと、彼女の目はどんな世界を映し出しているのだろうと、その青い色を見て思う。


「浜にあがりましょう。このままでは風邪をひいてしまうわ」


シエロは何も言わず、ただ引かれるままに浜にあがった。

心も身体も疲弊しきったシエロは立っているのもやっとな状態だったらしく、その場に力なく座り込む。


「傷の手当をしないと。真水を汲んでくるから、あなたはここで」


「…いいよ。それくらいは自分でできるから。…今は、少しひとりにしてほしい」


シエロの言葉にフェリースは逡巡するような素振りを見せるものの、しぶしぶといった様子で「わかったわ」と言った。


「その代わりに。…もう、さっきみたいなことはしないって、約束してくれる?」


「……うん」


時間をおいて、シエロはゆっくりと頷いた。

今はもう、死のうなどと考えてはいない。それは本当だ。

それでも心は重い雲を纏い、見据える先はただただ濃い霧が漂っているようで。


フェリースが立ち去ったあともシエロはその場を動くことができず、また、青い色をした鱗を一枚、はらりとこぼす。








それから何回、太陽と月が追いかけっこをしただろう。二回だったかもしれないし、三回だったかもしれない。いや、もっと多かったか。

それすら曖昧になるほど、少年は自分の世界に閉じこもり、ろくに食事を摂ることもなく、空腹が耐えがたいほどになればかろうじて家にあったもので食いつなぐ日々が続いていた。

人々から拒絶を向けられたあの日、買ったはずのものはすべてあの浜に置いてきてしまった。

誰かが拾ってくれただろうか。


窓もカーテンも閉め切り、ベッドに横たわったまま己の身体を抱くようにしてただぼんやりと時を過ごす。

遠くでイルカの鳴き声がしても、今のシエロには外の世界に出ようという気が起こらず随分と相手をしていない。

そんな折、遠く聞こえる波と時々吹く強い風に木々の葉が擦れる音のほかに、人の声が聞こえてきた。


「なあ、本当にここで合ってるのか?」


「…わ、わからない、けど、ここじゃないかな…」


ファビオとフィデルの声だ。

薄く開けたカーテンの隙間から外を窺えば、紙袋を腕に抱えてあたりをうろつくフィデルの姿があった。


「なんで…どうして僕の家がわかったんだ…」


もし、二人が扉を開けてきたら?

近くに誰も住んでいないため鍵なんていうご大層なものはなく、ひとたび扉を開けられてしまったらシエロの身を守るものはなくなってしまう。

手に握るカーテンに皺が寄ったころ、窓の端からファビオがひょっこりと顔を出した。


「あ、いた」


「───っ!!」


声はよく聞こえなかった。けれど、そう言っていたような気がする。

咄嗟にカーテンを閉めたけれど、二人にはもうシエロがここにいることは知られてしまっただろう。


どうする、どうする…?

窓際にずるずると座り込んだままなんとかしてこの場を乗り切る方法はないかと思案しているシエロの動揺を更に煽り立てるように、ドアが三度ノックされた。


「シエロ、俺たちだ。ファビオとフィデルだ」


「…シエロ、大丈夫…?」


いつもと変わらぬ二人の声。けれど、今のシエロにとってはむしろ恐怖を煽るものでしかなかった。

ファビオもフィデルも、漁師の息子だ。人魚にまつわる話など、小さいころから何度も耳にしてきたことだろう。

そんな彼らがシエロを捕らえようと考えるのも、あり得ないことではなかった。


来ないで、開けないで。


何者にも己の存在が気づかれぬよう、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待つように息を殺してじっと耐える。

しばらくして聞こえてきたのは、フィデルの声。


「…この間の忘れ物、持ってきたから。…また、来るね」


再び、波の音と葉擦れの音がシエロの世界に戻ってくる。

こわばった脚を伸ばすようによろめきながら立ち上がったシエロはそのままドアに手をかけた。

もちろん、罠である可能性も考えなかったわけではない。それでも、心のどこかでは、まだ彼らが自分の味方であってほしいと思いたかったのだろう。


外に誰もいないことを願いつつそっとドアを開けると、足元にはあの日置き去りにしてしまったはずの紙袋がぽつんと置かれていた。


「ほんとうだったんだ…」


あたりには誰もおらず、ほんの少し安堵して袋に手を伸ばそうとしたその時、何者かに強く腕を掴まれ、シエロはパニックに陥った。


「や、やめろ!放してくれ!」


なんとかして相手から逃れようと、必死にもがき、暴れるシエロ。

激しく暴れまわっているうちに相手から「痛っ!」という声があがったから、きっと拳がどこかに当たったのだろう。

このまま逃げられるかもしれないとタイミングを窺っていると、別の人間の手がシエロの顔に伸び、そのまま向き合わされる。


「───シエロ、落ち着いて」


長い前髪に隠された、気弱ながらもまっすぐな瞳。よく見慣れたフィデルの顔だった。


「フィデル…なんで…」


さっと顔を青ざめさせたシエロを見て、フィデルも慌てふためき右往左往し始める。


「ち、違うんだ、これはその…えっと、」


「手荒な真似をしたのは謝るよ。でもお前、こうでもしないと出てきてくれなかっただろ?」


そう言いながらシエロを放してくれたのはファビオだった。


「俺たち、ちゃんとお前に謝らないとって思ったから。それに、話があってさ」


「僕は話すことなんてないよ。帰ってくれないかな」


足元で蟻が行列を作っている。

一匹として列から外れることはなく、どこかへ向かって皆懸命に進んでいく。

その蟻の一匹になることは、きっと出来やしないのだ。


「なあ、聞いてくれよ」


「嫌だ」


「あれから俺たち、町の奴らに説得してまわってさ…」


「聞きたくない」


普段はきりりと上がっているファビオの凛々しい眉が、へたりと情けなく下がっている。

進まない会話と重苦しい空気が広がるなか、口を開いたのはフィデルだった。


「…シエロ、聞いて。今じゃないと、駄目なんだよ」


しっかりと落ち着いた、ファビオとよく似た、それでいてどこか違うフィデルの声。

こんな声が出せるのかと、シエロは思わずフィデルの顔を見て息をのんだ。

双子の兄のそれよりもほんの少し薄い色をした洗い立ての新芽のようなペリドットの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちている。


「あのね……俺、シエロが人魚かもしれないってこと、なんとなく気づいてたんだ」


「えっ」


「はあ!?」


シエロとファビオ、二人の口から驚きの声が上がる。


「いつだったかな…前にシエロが階段から足を踏み外した時、あったでしょ?その時に、あの……シエロの目から鱗みたいなものが落ちるのが見えて…」


「鱗って?」


よくわかっていないファビオが首を傾げて訊ねる。

それに答えようとするフィデルを制し、シエロはなるべく感情的にならないよう静かに話し始めた。


「…確かにフィデルの見たものは鱗だよ。あれは、僕の涙」


「鱗が、涙なのか?」


シエロはこっくりと頷いた。


「僕の身体の四分の一には人魚の血が流れてる。涙が鱗になって落ちるのはそのせいだし、ファビオ、君も見ただろ?腰の鱗も、人魚の血の影響だよ」


「四分の一って…ほとんど人間みたいなもんじゃないのか?」


「余計な混ざり物があったら、誰だって嫌がるだろ?」


「混ざり物って…」


ファビオは、目の前に立つ友人がまるで別人のように思えた。

彼の中のシエロはいつも快活で、賢くて、間違っても何かの───誰かの価値を否定するような人間ではなかった。


それが今はどうだろう。

己の身体に流れるそれを"余計な混ざり物"と言い、皮肉を込めた笑みを浮かべているではないか。


「───知ってたよ」


沈黙を破ったのは、またしてもフィデルだった。


「俺、シエロが一人じゃ抱えきれないことを抱えようとしてて、本当のことを知られてしまったら、ってことをいつも考えてて、それでもみんなと一緒にいたくて、誰よりもつらい思いをしてたの、知ってたよ」


「なにを…」


「なにを知ったようなことを言ってるんだ、って言いたいんでしょう?むしろ言ってほしい。俺はシエロにそう詰られても仕方のないことをしてきたんだ。シエロが苦しんでるのを知ってて…何もできなかった…ううん、何もしなかったんだから」


フィデルの握った拳がちいさく震えていることにシエロは気がついた。


そうだ。

突然の変わりように驚いて忘れていたが、フィデルは元来、臆病さが先に立って自分から何かを語ることはとても少ない少年だった。

それでもその性根の優しさを捨てることだけは決してなくて、シエロは彼の陽だまりのような思いやりに救われていた。


それは今も同じ。

フィデルが何も言わないでいてくれたから、今まで普通に、どこにでもいる男の子として生きてこられたのだ。


「…でも、僕はみんなとは違う。僕は人間じゃないから…」


「人間じゃないから生きていちゃいけないの、みんなと違うから一緒にいちゃいけないの?人魚のことをいちばん理解しようとしてないのは、シエロの方なんじゃないの?」


「そんな…」


ふっと、シエロの肩から力が抜けた。それまで力が入っていたことにすら気づかなかった。


「ああ……」


そうか。

人魚であることを知られるから深く関わらない、というのは、自分が人魚の血をひいていることを誰よりも気にしていたから。

口では人魚も人間と同じように心がある、なんて言うことはできるけれど、誰よりもその存在を疎ましく思っていたのは、シエロだったのだ。


人魚の血なんてひいていなければ、皆と一緒にいられたのに。

僕は、人間にも人魚にもなれない化け物だ。


無意識のうちに、そうやって自分自身を縛り上げてきたのだ。


知らず、シエロの目から鱗がこぼれ始める。

赤、橙、黄、緑、青、紫。

その鱗は一枚いちまい様々ないろをしていて、足元を虹色のタイルのように彩っていく。

間近でその光景を目にした双子は呆気にとられてシエロの目元とこぼれ続ける鱗を見比べる。


「すげーな…」


「…きれい…」


双子の口から発された言葉には、全くもって嫌悪のいろなど含まれていなかった。


「…もう、大丈夫だから…自分を、殺さないであげて…」


「人間だろうが人魚だろうが、お前はお前だ。どっちか決めなきゃいけないってことも、ないだろうよ」


「うん…」


ひとしきり泣き終えたシエロは、わずかに腫れた目元を擦って小さく息をついた。

自分は人間でも人魚でもない。

けれど、彼らが自分の心を暗く、冷たい海から引きずり上げてくれた。

それが今は何よりも嬉しかった。









「それで、今日俺たちが来た理由だけどさ、」


全員が落ち着きを取り戻したころ、口火を切ったのはファビオ。


「…荷物を届けに来てくれたんだろう?」


「それもあるけど。あの日、お前がいなくなった後で俺たち、町の奴らを怒鳴りつけてまわったんだ」


案の定、シエロが人魚であるという噂は瞬く間に町中の人々の知るところとなり、動揺は広がり続けた。

しかしファビオとフィデルも、ただその様子を黙って見ていたわけではなかった。


「こいつなんて凄かったんだぜ?お前のことを捕まえようなんて言ってる奴のところに詰め寄って、『シエロは絶対に悪くない!シエロがあなたに何か危害を及ぼすようなことをしたっていうの!?』ってな具合でみんなを黙らせちまってなあ…」


「…お、俺、そんなこと言ってないと思う…」


「いーや、言ってたね。お前、普段はそんなに喋ろうとしないくせにあの時ばっかりは爆発したみたいに話し出すもんだから驚いたのなんのって……ま、そういうことだからさ、」


戻ってこいよ。


いつもと同じようにファビオは歯を見せて笑う。フィデルはこくこくと何度も首を縦に振る。


正直、まだ町へ行くのは怖い。

双子が人々を説得してくれたとはいえ、おそらく当分の間、シエロは奇異の目にさらされることとなるだろう。

果たしてそれに耐えられるかどうか。

そしてきっと、双子の話を聞いてもなお人魚は排除すべきものだという人はいるだろう。

もしもそんな人を目の前にしたら、シエロはまた逃げ出してしまうかもしれない。


その胸中を察したのか、ファビオがシエロの肩にぐっと腕をまわし、フィデルも傍らにそっと寄り添うように立つ。


「ほんとに駄目だったら逃げてもいい。ゆっくりでいいから、また一からやっていこうぜ」


「…大丈夫。シエロのことは、俺たちが、守る」


「おっ!言うなぁ」


ファビオがフィデルの脇腹をつつくと、やはり気恥ずかしかったのであろう、耳まで赤く染めてしゃがみこんでしまう。

いつもと変わりない友人たちの様子に、思わずシエロの顔にも笑みが浮かぶ。そしてそれはやがて声を上げた笑いとなり、潮風のなかに柔らかく溶けていった───。







久しぶりの桟橋は相変わらずぼろぼろで、一歩踏み出すたびにぎしりと危うい音を立てている。

腐りかけた板を避けて桟橋の先端に腰をおろすと、シエロはいつかのようにばったりと仰向けに寝転び、真珠色の雲が足早に空を駆けていくのを静かに眺めていた。


さやさやと、夕暮れの風がシエロの前髪を優しくすくって吹き抜けていく。


ここで出会った彼女はいま、どこにいるだろう。

もう、故郷に帰ってしまっただろうか。もしもそうでなかったのなら、彼女にはちゃんと自分の口から打ち明けたい。

己の真実を。そして心を。


ほんの少し期待を込めて、シエロは流れる銀髪を目蓋の裏に思い浮かべながら歌った。



いのち溢れる 翡翠の大地

ぼくは歌おう 空まで届くこの声で

海のきみと 陸のぼく

生きるせかいは 違うけれど

陸は変わらず ここにあるから

だから 待っているよ

まだ見ぬ いとしい 美しいひと



いつか会いに行くという人魚の想いを受けて歌う人間の歌。人魚の歌と人間の歌、そのふたつで曲は完成するのだ。

まっすぐに透き通った声は波間を縫って水平線の向こうまで響いていく。

やがて波音に歌声が消えていったころ、シエロの耳が誰かの歌をとらえた。


「いのち煌めく 青玉の海 わたしは歌うわ 鈴のようなこの声で───」


「…っ!?」


桟橋からすぐそばの砂浜に、彼女が立っていた。

時折足が朽ちかけた板を踏み抜くのも気にならず、シエロは一目散に彼女───フェリースのもとへと駆け寄った。


「どうしてっ…」


この歌は、人魚の血をひく者しか知らないと母が言っていた。しかも、とても古い人間と人魚の恋の歌だ。たとえ人魚でも知っている者はいるかどうか。

それを、どうして彼女が歌っているのだろう。

答えは簡単だ。


「人魚なの、私」


かたちの良い唇が弧を描く。


「初めて会った日から、言わなきゃとは思ってたの。だってあなたがあの歌を歌ってた時、とても嬉しかったから。でも…ちょっと不安になっちゃって」


「じゃ、じゃあ、僕のこと、気づいて…?」


「ええ。けれど、本人が言いたくないことを無理に聞き出すよりは、その…側にいることの方が大切だと、思ったから…」


言外に含ませたものがあったのだろう、フェリースの耳元がじんわりと赤くなるのにつられ、シエロまで顔が熱くなってくる。


「僕も…ちゃんと自分の口から言わせてほしい。僕の身体の四分の一には、人魚の血が流れてるんだ」


ようやく言うことができた。

言葉は喉に引っかかることなく滑らかに流れ出て、これまで自分の首を絞めていた存在が嘘のように消えていたことに気づかされた。

もう勘づいていたせいもあるだろうが、フェリースは何も言わず、ただうつくしい色の目を柔らかく細めている。


ずっとひとりで抱え続けてきたこと。

けれど、もう抱え込む必要はなくなったこと。

憑き物が落ちたように話すシエロを、フェリースは唐突に抱きしめた。


「フェリース!?」


「…ありがとう。生きることを諦めないでいてくれて、ありがとう」


シエロの肩口にフェリースは己の額をつけ、今にも消え入りそうな声で囁いた。

当のシエロの手はあまりに突然のことだったものだから置き場を探してゆらゆらと彷徨い、やがてそれはおずおずとフェリースの背中にまわされた。


「…どう、いたしまして」


気の利いた台詞をいくら探してもしびれた頭でまともなものが出るとも思えず、かろうじて口から出たのはそんな言葉だった。

けれどきっと、フェリースにも伝わっているだろう。


広い陸の上でたったひとりの人魚の血を引くシエロという存在を見つけ出してくれたこと。

それが偶然ではなく、運命というものであれば良いと。


見つけてくれて、ありがとう。








「もうすぐ、海へ帰らなければいけないの」


フェリースは膝を抱えたままこちらを見ることなく、静かにそう告げた。


「今だって、お父様に無理やり我が儘を言ってここに来ているようなものだから」


「もし戻ったら、二度とここには来られないのかい?」


「…たぶん。帰ったら私は…お父様の…国王の後を継がなきゃいけない」


「じゃあ君は…王様になるの?」


「ええ」


シエロは出かかった言葉を渾身の力で呑み込んだ。


行かないで。

もう二度と会えないというのなら、ここにいて。

この先も、君と一緒に…


さっきまで暖かかった心が急速に冷えていく。

あと少しで掴めそうだったものが、手のひらからこぼれてしまうような気がする。


そんなシエロの手をフェリースはしっかりと握り、そうして少年を立ち上がらせると、空色の瞳をまっすぐに見据えて言った。


「でもね、ここに戻って来られる方法が、ひとつだけあるの」


「どんな…?」


「お父様の仕事を…妹に継いでもらうこと」


すなわち、自分は王位の継承権を放棄するということ。


「君は、それでいいの?」


柔らかな銀色がふわりと揺れる。


「もちろん。私が王さまになんてなったら、それこそ大変なことになってしまうでしょうから。それよりも、私はあなたの側で、あなたと一緒に生きていきたい。あなたの見てきた景色を、一緒に見てみたい」


「フェリース!」


シエロは震える両腕で今度は自分からフェリースを抱きしめた。

自分よりも華奢な身体を折れないように、けれど精一杯この喜びが伝わるように強く、強く。

薄い黄色に染まった鱗が落ちていく。


「…僕と一緒に、生きてくれる?」


「もちろんよ」


はらはらと泣き続けるシエロの視界で何かが動いた。

砂浜を転がる爪の先ほどの煌めく純白。真珠だった。


「フェリース、君…」


「私の涙は真珠になるの。海へ行けばあなたのように鱗の涙を流す人魚もいるし、もっといろいろな涙を流す人魚がいるわ」


深い海のいろをした彼女の瞳は夜空にも似て、そこから落ちる真白のしずくはそんな夜空を流れる星々のようだった。


「…きれいだ」


お互いの流す涙は風にのって混ざり合い、花びらと朝露のように舞い続ける。


「お父様を説得できるかはわからないけれど…でも、三年だけ、時間を頂戴。きっと戻ってくるから」


「いくらでも待つよ。…帰ってきてくれるって」


「必ず、また会いに行くわ。---だから、待っていて。わたしの、いとしい、素敵なひと」


「待っているよ。僕の、いとしい、美しいひと」


唇と唇がそっと触れ合う。

水面がふたりを祝福するように、いつまでも眩く煌めいていた。








あれから季節が幾度か巡った。

少年は青年になり、もう人魚の末裔であることを隠す必要がなくなった今でもあの海辺の家でひとり変わらぬ日々を過ごしている。

それはかつてのように恐怖に怯えているからではなく、大切なひとの帰りをいち早く迎えられるようにするため。


「もうすぐ、かな」


空になったグラスをコトリとテーブルに置き、青年───シエロは外に目をやり立ち上がる。


彼女と約束した日から、ちょうど三年の月日が経とうとしていた。








なだらかな石の階段を下り、いつもの浜辺へ向かうシエロ。

古びて今にも崩れてしまいそうだったあの桟橋は取り壊す話も出たのだが、それなりに思い入れのあるものであったため壊してほしくない旨を伝えると、町の人々が新しく作り変えてくれた。

この三年間、日々は穏やかに過ぎていった。

そしてただひたすら、この日を待ち続けた。


ふと、風にのって美しい歌声が聞こえてきた。

心臓がどくりと不規則に脈を打ち、一段一段、階段を下りる足取りが少しずつ早くなっていく。


首をめぐらせて必死に彼女の姿を探し求めていると、波打ち際であの歌を歌い上げる彼女がいた。



いのち煌めく 青玉の海

わたしは歌うわ 鈴のようなこの声で

陸のあなたと 海のわたし

生きるせかいは 違うけれど

海はすべてに つながっているの

だから 待っていて

まだ見ぬ いとしい 素敵なひと



ああ、待ち焦がれたあの声が、呼んでいる。

その声に答える方法は、ただひとつ。


シエロは力いっぱい息を吸い込み、心すべて届けとばかりに声を振り絞った。


「いのち溢れる、翡翠の大地───」


流れる銀の髪がふわりと揺らめき、深い海の色をした瞳がシエロの姿をとらえる。

三年前よりももっと美しく、身の内から輝いて見えるフェリース。

大人びたその顔は一瞬にして喜色を露わにし、履いていた靴を脱ぎ捨てて砂浜を駆けてくる。対するシエロもフェリースのもとへ駆け寄り、勢いのままに彼女の身体を抱え上げると真っ白なワンピースが花嫁のドレスのようにふうわりと広がった。

突然抱き上げられたことに驚いたのも束の間、フェリースはシエロの白金色の髪を細い指で梳いて額同士をこつりと合わせた。


「全部、片づけてきたわ」


「お姫様はもう、やめてしまったの?」


「ええ。だって、もう"みんなの"お姫様でいる必要はないでしょう?」


悪戯っぽく微笑むフェリース。

そんな彼女の頬を撫で、シエロはことさら嬉しそうに囁いた。


「おかえり───僕だけの人魚姫」


どこまでも晴れ渡った青空に、一枚の鱗が舞い上がった。








はらり、はらり。

言葉にならないたくさんの感情が、鱗となって舞い落ちていく。

喜びが、悲しみが、その涙を美しい色に染め上げる。


もしもどこかに鮮やかな鱗が落ちているとすれば、それは名もなき人魚が流した涙のひとしずくかもしれない───。

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