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蝙蝠も鳥のうち

作者: 武田花梨

 黄昏時、からんころんと赤い鼻緒の下駄を鳴らす。町屋は店じまいを始め、一日最後の活気で溢れていた。

 昼間はあたたかいけれど、この時間になると冷え込んでくる。江戸が花で彩られるのはもう少し先の事だろう。()()は肩をすぼめながら、手にしていた書物を発熱している生き物のように抱えたかった。しかし表紙に描かれた画に触れてはならぬ、と殿に献上するかのように両手で大切に持っていた。

伊藤屋(いとうや)さんのお忘れ物だ。届けて差し上げなさい」

 朗らかに言う旦那の顔が浮かぶ。人がよく、妻や子、そして野枝のような下働きの人間にも過剰に優しい。そんな時は、親の顔を思い浮かべる。優しさで忘れないように。

 赤い着物の裾を跳ねあげながら、暗くなる前に帰ろうと空をちらりと眺める。伊藤屋はすぐ近くだから、問題ないだろう。

 緑の芽吹く寸前の命の匂いで溢れる。それがあまり得意ではなかった。

 ぼんやりと見上げた春霞の橙の空の端に、黒い何かが降ってきた。蝙蝠が飛んできたのかとそちらに目をやろうとした寸での所、野枝の視界は真っ暗になった。一足早く、野枝にだけ夜が訪れたのかと思ったと同時に、刺激が鼻を刺す。

 蝙蝠(こうもり)に襲われたのだと恐怖を感じたが、それもすぐ意識の向こうへと霧散した。


「お目覚めかいお嬢さん」

 まるで古井戸の中のように、狭く暗い場所に座っていた。どうやら、野枝はお嬢さんと声をかけてきた男にもたれて眠っていたらしい。左側の体が温かかった。

 働かない頭を動かし、瞬きをして状況を把握する。手は前で縛られていた。足元で行灯の炎がゆらめいていた。それに照らされた男の顔は、野枝と同じ年頃に見える。まだ十代半ばの若い男で、髪の毛は後頭部で無造作に結ばれていた。

 ぼんやりと頭を巡らせる。今の自分はどういう立場なのだろう。頭が働かない。

「大丈夫か」

 男に覗き込まれ、野枝はさすがに顔を赤らめた。男にもたれかかって眠り、今もなお密着して至近距離で会話するだなんて。

「あの、少し離れてもらっていいですか」

 恥らう野枝の姿を、男は目を丸くして見ていた。そして勢いよく顔をそらす。

「そんな顔されると、おれも照れてしまうよ」

 お互いに顔をそらし、しばし沈黙が流れる。そんな顔、って、どんな顔をしていたのだろうと少し不安になる。同じ年頃の異性と話すことはあれど、すべて仕事の話だ。見知った大店の下働きばかり。

 男は黒い着物、そして赤い足袋に白い下駄という派手な格好だった。こんな薄明かりでもわかる。ちらちらと服装を観察していると、男が再び口を開いた。

「照れている場合じゃない。用があって君をとっつかまえたわけだ」

 人を攫うという大胆な行動に出たにも関わらず、男はどうにも豪胆さが足りない気がした。気が弱そうというか、決意が足りないというか。照れてしまったけれど、この人は自分に何かしようとしないだろう、と思えた。

 野枝の冷静な視線を感じたのか、男は決まりが悪そうに下唇を噛んだ。

「そんな顔するな。おれだって初めてだから、勝手がわからないんだよ」

「そう申されましても、困ります」

 ぴしゃりと言い返され、男は少し背筋を丸めた。先ほどまではぴんと綺麗な姿勢だったのだと、今更ながら気がつく。下品な格好をしているけれど、育ちが良いのだろうか。

 手にしていた書物がない事にようやく気がついた。手を縛られているのだから当然だ。ようやく、頭が事の重大さに追いつく。落ち着け、とひとつ呼吸をする。

「あの書物を狙っていたのですか?」

 伊藤屋の物だから中を見ていないが、表紙はとても華やか。流行の浮世絵師に描いてもらった、と自慢げに旦那が見せていた。版画にはなっていないと言っていたから()草子屋(ぞうしや)では買えない一点ものだ。あの絵師の熱狂的支持者だとか?

「いや、あれ自体に興味はない。あれを持っているお嬢さんに用がある」

 ようやく話が戻った、と男はにんまり笑顔を浮かべる。しかし、それはどこかぎこちなかった。不審に思い、野枝はじっと男の顔を見る。若さを隠そうと、髭を伸ばしてはいるが薄い。うろつく瞳が炎で浮かぶ。

「怖がっているのですか。人前で堂々と攫っておいて」

「おれは身が軽いからな。誰も気がついてなかったさ。もっとも、気が付いてもらっても構わないが」

 少しほぐれた笑顔を向ける。そうすると幼く見えた。怖がっているか、という問いには答えない。

「どうやら穏やかな話じゃなさそうですね。私でよければ協力します。だからお話してくださいませんか」

 内心では胸のざわつきが収まっていない。野枝はそれを表情に出したくないと思い、あえてそっけない口ぶりで答えた。そうすることで、心も落ち着く。

「それなら話は早い。今晩じっくり付き合ってもらうから、その覚悟でな」

 今晩、という言葉に、恐怖以上の何かを感じた。心臓が吊り出される、というような感覚だ。夜を知らない男と共にするだなんて初めての事。

男は自分でその言葉に居心地が悪くなったのか、指で頬をかく。話題を変えるように口調を変えた。

「おれの名は(しん)っていうんだ。お嬢さんの名は? そこまで調べていなくてね」

「野枝と申します。それ位調べないで……」

 非難の声をさえぎるように、真は手を顔の前で振った。まったく落ち着きの無い、と野枝は眉をひそめる。

「お野枝さんよ、それで今回の目的ってのは、大店の旦那の事だ。奴はおれの仇なんだよ。ただ殺すだけじゃ納得出来ない。両親の苦しみを少しでも味あわせる為に、お前さんを攫ってきたというわけだ。一晩中攫われた心配をし、最後には「娘を返して欲しければ、自分で命を絶て」と言ってやるのさ」

 仇、と聞いて、野枝はすぐに返事ができなかった。

「恨み、ですか」

「ぴんとこねぇだろうけど、恨みなんてそんなもんだ。されたほうは殺したいほど憎んでいるが、したほうはまったく覚えが無い」

 吐き捨てた言葉を、野枝は静かに見つめた。

 その温度差はいつの時代も埋まらない。どちらの言い分が正しいわけでもない。人の感情は正義だけで語れるものではない。

「その気持ちは、わかります」

 言葉を拾うように呟く野枝に対し、真はいささか逆上したようだった。それを一度飲み込み、抑えるような口ぶりで野枝に向う。

「わかる? 何がだ」

 それ以上続けようとして、真は黙った。言ってもわからないと思ったのだろう。

心に寄り添うことで自分の身を守ることが出来るのではないか。野枝は自らの生い立ちを話し、この場を乗り切ろうとした。真にはまだ冷静な部分もあるけれど、人攫いまでしたのだから何をしでかすかわからない。

 わざわざ言葉にするのも辛いけれど、背に腹は変えられない。野枝は縛られ冷えた指先に息をかけ、もぞもぞと摩擦して温めた。それから、言葉を紡ぐ。

「わかります。私の父も殺されました」

「……本当か?」

 顔が自然と強張る。驚く真の様子をちらりと見て、野枝は感情を込めて語る。本当の悲しみや恨みは、もっと心の深い所にある。今は生き延びる為に利用しているようなものだ。父に申し訳ないと思いつつ、野枝は上辺だけ本当の事を話した。

「私が幼い頃に。事件は、ちょうどこの季節。春のことでした。母は私が生まれてすぐに亡くなり、父と二人で――」

「待ってくれ」

 真は手で顔を覆った。心を入れ替えてくれたらそれでいい。お尻も冷えてきたし解放してくれないかなぁと期待していると、真は野枝以上に泣きそうな顔をしていた。感受性が豊かなのかな、と目を丸くして見返すと、真は勢いよく野枝の肩を掴んだ。また、心臓が吊り出されそうになる。距離の近い人だ。吐息が顔にかかる。

「お野枝さんは伊藤屋の娘じゃないのか?」

「は? 私は駒井屋(こまいや)の下働きですが」

 まさか、と野枝が思うより早く、真は両手で頭を抱えた。

「間違えた」

 縛られた手で頭を殴りそうになった。間違えて人攫いとは、どれだけ間抜けなのだ。

「そんな馬鹿な話がありますか」

 野枝の非難する口調に、真は八の字眉が情けない顔で答えた。

「伊藤屋御自慢の浮世絵の描いてある本を持っていたし、年恰好も下調べの通りだ。身なりもいいし間違えるだなんて」

「私、女将さんからいい着物を仕立てていただいているので」

 この赤い着物も、反物から採寸して作ってもらったものだ。普通の下働きの人間より待遇はいい。駒井屋に感謝の気持ちを持つ時は、必ず父の顔を思い浮かべる。

 己の失態に対し、あぁぁ、とうめき声を漏らす真に野枝は言ってやった。

「あなたは敵を討つ資格もないです」

 伊藤屋に恨みがあったとして、こんな事で解決しようなんて。伊藤屋のお嬢さんにはよくしてもらっていた。お下がりのかんざしや美味しい食べ物をくれる、気さくで優しい人。そんな人の親を傷つけるだなんて許せるはずも無い。脂ぎっていても、咳を人の顔にかけても謝らずニヤニヤしていても、大きな声で人の悪口を言いふらしていても、伊藤屋の旦那だって人の親だ。好きではないけれど。

 第一、敵を討つだなんて壮大な思いがありながら、人違いをするなんて話にならない。

「返す言葉は何もないよ」

 うなだれながら、野枝の手に結ばれていた紐をほどく。自由になって血が巡ってきた手を揉み解しながら、すっかり小さくなった真の体を見つめる。

「好きにしろ。奉行所にでも突き出してくれ」

 それはそれで面倒な事だ。捨て置いて帰ってしまおうかとも思えた。この人には大それたことは出来ないだろう。

 でも、この人は自分と一緒の境遇なのだ。

 小さくなった真の肩に触れようとして、野枝は手をおさめた。何にも触れなかった手のひらをぐっと握り締める。

「どうにかして真さんの心を少しでも軽くしましょう。だけど物騒でない方法で」

 真は、いきなり提案された事に口をあけて何度も瞳を瞬かせた。

なんとも放っておけない人。自分は出来なかった敵討ち。

「そんな事言われても」

 真は躊躇っていた。自信をなくしてしまったのだろう。大丈夫、と野枝は根拠のない笑顔を浮かべ、真の顔をのぞきこんだ。

「乗りかかった船は降りません。私、元々は廻船(かいせん)問屋(どんや)の娘だったのですから」

 その力強い言葉に、真はわずかに顔をほころばせた。

「自分が乗るわけでもないだろう」

「細かいことを気にしない。さて、夜も更けてきましたし体も冷えましたね。お腹もすきましたし」

 仕事に忙しく、朝簡単にすませただけで何も食べていない事に気がついた。

「真さんにあてはあるのですか?」

「あて?」

「まさかここで一晩過ごすつもりだったのですか? こんなに狭くて寒いのに」

 図星だったようで、真は黙ってうつむいた。なんてずさんな、と呆れてしまいそう。

「じゃあ、私の家に行きましょう」

「家って、君は駒井屋の下働きなのだろう」

「生家はまだ残っているのです。駒井屋の旦那様が、私が大きくなったらまた切り盛りしなさい、と残しておいてくださったのです」

 感謝しかない、駒井屋の旦那。厳しくも、いつか一人で生きていけるようにと指導してくれる女将。安くはない金額であろうに。野枝はゆっくり立ち上がった。大丈夫、父の事は忘れていない。

「お野枝さんは変わっているな」

「その書物は、私がきちんとお預かりします。返しに行ったはずが紛失したとなれば、私の評判に関わります」

 手を差し出すと、浮世絵の描かれた書物が野枝の手の中に帰ってきた。

「はいはい」

 呆れた顔のまま、真も立ち上がる。どちらの方が変わり者かなんて、この状況ではもうわからない。


 野枝の生家である福島屋(ふくしまや)。のれんも何もなく、ただの空き家になっている。週に一度掃除に来ているだけだが、特に荒らされる事無く姿を保っていた。両隣の店に声をかけてあるから、玄関前もついでに掃除してくれているようだ。親切な町の人にも感謝の気持ちでいっぱいだ。

「食べる物はありませんが、お茶くらいなら」

 戸棚には、掃除に来た時にくつろぐ為に使用する急須や湯のみ、茶葉などがしまってある。真には井戸から水を汲んで来てもらい、囲炉裏で湯を沸かした。

 赤い炎を眺めていると、心が落ち着いてくる。自分の家の畳の上というのもいい。

「こんな立派な大店で、どうしたって……」

 言いにくそうに、火に手をかざしながら真が尋ねてきた。

「誰かが教えてくれましたが、私はそれを心に留めないようにしたのです」

 言っている意味を咀嚼できないようで、真は首を捻った。野枝は続ける。

「真実を聞いて、誰かを恨んで。そうすることはとても大変だと、幼心に思ったのです。大人の商売の世界でのいざこざ。そんな敵に立ち向かう力はまだ、ありません」

 湧いた湯を急須に注ぐ。白い湯気を見ているだけで、固くなった心がほぐされていくような気がした。

野枝は感情を固くして誰にも触れさせない、自分でも触れないように守った。深呼吸をして空を見て、父の顔を思い出せば、気持ちを整える事ができるようになった。父が亡くなって丁度一年たった春霞の季節。今から十年前。野枝が六歳の事だ。

 湯のみにお茶を注ぐ。明かりは囲炉裏の炎だけ。手元が狂わないように気をつけた。少しだけ、手が震えていたから。

 真は渡された湯のみを静かに手にした。ひとつしかない湯のみに戸惑ったようだが、野枝が先にどうぞ、と言うと一口、ゆっくりと口に含んだ。客人用のものなんてない。

「そんな話を聞かされたら、おれのやろうとしていることはなんと愚かなことか」

 ひそめるような声は、心の底から絞り出したようだった。

「伊藤屋の旦那が、直接手を下したわけじゃない。こっちも商売のいざこざで、町屋を追い出されたんだ。別の場所で一からやりなおそうと引越しの道中、事故でね」

 それって、ただの逆恨みじゃ、と言おうとしてやめた。それを生きる糧にしていたのだ。野枝とは違う方法で心を守っていただけ。

 真が湯のみを渡してくれた。口をつけていない部分だろう、という所からゆっくりと口に含む。暗い中だったせいで茶葉を入れすぎたのか、渋くて舌が痺れそう。けれど、温かい飲み物で冷えた体がほぐされた。

それ以上に恥ずかしい気持ちで、顔が熱くなる。こんなことをしていいのだろうか、嫁入り前なのに。余計な事を思いながらもう一口、渋いお茶を飲んで顔をしかめた。これを、文句も言わずに飲んでくれたのだと思うと嬉しい。

 不条理なことを受け入れて、諦める事がいいとは限らない。真は諦めずに、正面から取り組んでいるのだ。誠実ともいえるほどに。

「すっかり落ち着いて、なんだか敵討ちなんてやる気なくなっちまったよ。ここはなんだか安らげる」

 あーあ、と真はごろりと横になった。だらしのない人、と思って、女房を気取る自分に赤面する。

「真さんは、とことん場当たりな性格なのですね。簡単に投げ出すのに私を人攫いして。そういえば攫う時、何か薬を使いましたよね」

 気持ちを振り切るように強い口調で言った。あの時は目が覚めても、しばらく頭が働かなかった。すると真は慌てたように起き上がる。

「申し訳ない。あれは後には残らない眠り薬だそうだ。安心してくれ」

 そう言われても。野枝はふくれた。暗くて見えないだろうけれど。

「やる気がなくなったとしても、もう後には戻れないのではないですか。人攫いも充分悪い事です。復讐は遂行しましょう。ただし、もう少し穏便な方法で。何もしないと、私も攫われ損ですから」

 立て板に水の勢いで話す野枝を、呆気に取られたように見つめていた。

 あの脂ぎった伊藤屋の旦那の困った顔なら、真だけでなく野枝も見てみたい。

「命を奪うだけが復讐じゃありません。お金をせしめて、それで美味しいものを食べて、ご両親に花をたむける。それでいいじゃありませんか」

 しかし、真はまるで納得がいっていない。腕を組んで、うーんと首を傾げた。

「言いたい事はわかる。だがそれだけというのも」

「ですが、伊藤屋の息子さん、十五歳ながらとても背格好が大きく、剣の腕も達者です。あまり恨みを買わない方がいいかもしれませんね。怯えて過ごしたくはないでしょうし」

「嫌な情報入れてくるな」

 苦笑いをしながら、真は頭をかいた。乱暴に結ばれた髪は、また緩んでいる。

 じゃあどうするか、と二人で考え込む。

「伊藤屋の旦那に、弱点はないのか?」

「やはり、娘さんではないでしょうか。私とは親しくして頂いていますから、事情を話せば何かしら協力してくれるかと思います。当初の計画である「娘を返して欲しければ自害しろ」というのは大変残酷で理に適っていますね。自分の手を汚さない」

 皮肉に対し、真は軽く笑い声をあげただけだった。

「協力か、迷惑をかける人が増えるなぁ」

 野枝は思わず、笑い声を漏らした。その態度に、真は暗闇でも顔を赤くしたとわかるほど狼狽した。

「なんだよ」

「あなた様は優しすぎます」

 真は、ふぅ、と一呼吸をつく。囲炉裏の明かりが頼りなく、だけど力強い。

「わかっているさ。弱虫だから、こんな卑怯な手で復讐しようとしていた。でも向いていないな。かといって何もしないわけにはいかない。おれだって、人なんだ。こんな生き方だけどな。その尊厳は守りたい」

「些細な復讐でよいのなら、こんな方法はどうでしょう」

 提案した野枝の言葉に、真は耳を傾ける。敵討ちとしては弱いけれど、真が人でいるには充分だろうと思えた。

 二人は福島屋を後にする。小さな小さな復讐をする為、伊藤屋へと向った。


 野枝が伊藤屋の娘と仲良くしているおかげで、貴重品が納められた蔵へ、鍵がなくとも入れる方法を知っていた。はめ殺しのはずの窓がいとも簡単に取れてしまうのだ。近々修理を頼むと言っていたけれど、間に合ったようだ。

 簡単に侵入して、金目のものと、大切にしていた浮世絵をいくつか。『浮世絵の地位をあげたい』とまで入れ込んで蒐集してきたのだから、なくなれば少しは傷つくだろう。浮世絵は一度見たら包み紙にされ、捨てられる程度のものなのに。変わった趣味だ。

 手探りで見つけた戦利品。暗中、これ以上探すのも大変だ、と早々に切り上げた。目立ってしまうから、提灯を使う事が出来ないというのが厳しい。

 こんな事、復讐とも言えない小さな事だが、人のいい真には丁度いいのかもしれない。

 蔵の窓から先に真が出る。野枝も腕に力をこめ体を押し上げる。人ひとり分の隙間から体を出そうとして、窓に帯がひっかかった。後ろにひっぱられる感覚と、手が空を切る頼りなさに思わず目を閉じる。しかしすぐに温かいものに包まれた。目を開けば、真の顔がすぐそこに。窓からずり落ちた野枝を受け止めてくれたのだ、と思ったと同時に大きな声が出た。

「申し訳ありません! 大丈夫ですか?」

 真は慌てて、手で野枝の口を覆った。土埃の匂いがする。静かに、と怒った目で言われ、野枝は小刻みに何度も頷いた。体中の血が引く感覚、それが逆流して熱いものに変わる。体すべてで鼓動を打っているかのようだ。

 男の人の腕の中って、こんなにも力強いものなんだ。固くて、でもあったかい。顔に触れた骨ばった手。離れる事がとてももったいないものに思えた。冷たい風が唇を撫でる。

 体が離れる事がこんなにも寂しいだなんて。

「まったく危なっかしいな」

「すみません……お怪我は」

「ないない。おれは身が軽いんだって」

 鈍臭い上に、こんなにも密着して恥ずかしい。急いで離れて、はめ殺しの窓を元通りにする。足早に二人は伊藤屋を後にした。

 酒場で騒ぐ声が聞こえてきた。もう少しだけ、夜は閉じないでいてくれる。やっと、緊張の糸が解けた。

「悪かったな、お野枝さん。こんな時間までほっつき歩いていたら、旦那にしかられてしまうだろう」

 申し訳なさそうな声色に、また笑ってしまいそうになる。

「大丈夫です。本を返す前に家の様子を見てきて、そのまま眠ってしまったと言っておきます」

 日頃、お使いを後回しにするなどしないから信じてもらえるかわからないけれど、言ったもの勝ちだ。表紙に浮世絵の描かれた書物は、また後日返しに行こう。

「それじゃあ、ええと」

 真の言葉に、別れの色を感じ取った。野枝も、思わず背筋を伸ばす。

「お野枝さんの言うとおり、この金でうまいもの食べて、花をたむけて、それで終わりにする。そうしたら、新しい人生だ」

 月明かりの中、すがすがしい表情を見せる真。それに対し、野枝の胸は痛んだ。

「どうした?」

 何も言わない野枝の顔を覗き込んでくる。暗くて見えないからか、顔を近づけて、また吐息が顔に絡む。自然と体を離すと、いささか真は口を尖らせた。

「取って喰おうなんて思っちゃいないよ。おれはこう見えて身持ちが固いんだ」

「まるで、女性のような言い回しですね」

 思わず笑顔がこぼれる。その言葉が真実かどうかはわからないけれど、どこか離れがたそうにしている雰囲気は感じ取れた。

「あの、さ。もう少し、その」

 頭をかきながら、真はうつむいて言った。派手な足元だったが、薄明かりの中では蝙蝠のように真っ黒に見える。

 まだ一緒にいたい。そう思ってくれて嬉しい。反面、それを受け入れることは出来なかった。

「真さんは、私とは違う生き方が出来る方です」

 自身の着る赤い着物も、この闇では黒く見えるだろう。蝙蝠だって、空を飛べるのだから鳥だと言い張ってしまえる。人間だって、どんなに愚かでも人であることに違いない。

 でも、どうしても相容れない生き方はある。

「そんなことはないだろう。おれと同じ、親を失って、それを乗り越えてやってきたんじゃないか。同じ生き方だろう」

「私も、昔は真さんのように生きようと思いました。でも、許してはいけないのです」

「だが、今は駒井屋に良くしてもらっている。自分の大店を再興させようと手伝ってくれているのだろう?」

 会話の芯が見えないのは、暗いから。そう言いたいように、真は顔を手でこすり空を見上げた。

 体が冷えた。野枝は手で二の腕をさする。さっきまで、あんなに温かかったのに。

「私の父を殺したのは駒井屋の旦那です。関係がこじれて殴ったら転び、打ち所悪く死んでしまったと。結果は事故かもしれませんが、一瞬たりとも殺意がなかったわけではないでしょう」

 思いもよらぬ告白に、真は何も言わず、呆然と闇夜に佇んでいた。

「駒井屋は罪滅ぼしの為にここまでしています。でもそんな事で、罪なんて消えない」

 誰かに話したのは初めてだった。誰も。駒井屋の旦那ですら、野枝は何も知らないと思っているのだから。

 真の顔が見られず、野枝はうつむいた。

「いつかは、駒井屋の旦那に復讐をしようとしているのか?」

 かすれた声が届く。野枝は小さくうなずいた。

「もし誰かに言ったら、伊藤屋の蔵に侵入したことを公にしますから」

 釘をさしておいたけれど、そんな事を言わなくても真は誰にも言わないだろうと確信していた。いつの間に、彼にそこまでの信頼を寄せているようになったとは。

「駄目なのか。その罪滅ぼしを受け入れて、忘れるっていうのは」

 許せない、とすぐに返事が出来なかった。滑稽だ。誰かに言われて変える程度の決意ではなかったはずなのに。

「驚いたんです。真さんは私の提案を飲んだ。前向きに生きようとした。私がやろうとして出来なかった事です。だからって、私まですぐに変わるわけには」

「人の心は、人との出会いによって一瞬で変えられるものだ」

 野枝の言葉をさえぎるように、真は力強い言葉を放った。思わず、野枝は目を見開いて真を見あげる。恐ろしさに体が震えた。まさに今、自分の心の中は一瞬で変わってしまいそうになっているのだから。

「おれにはやらせたくせに、自分は出来ないって? だったら、お野枝さんが出来るように今度はおれが支える。復讐しようなんて人間、放っておけるか? お野枝さんは放っておけないから、おれの世話をしたんだろうに。やっぱり同じじゃないか、おれ達は」

 同じ。二人は同じなのだ。

「父は許してくれるでしょうか」

 幼い頃の思い出の中の父は、どんどん記憶から薄れていく。必死で繋ぎとめようとしても、時が奪っていく。敵討ちでしか、父子をつなぐものがなくなってしまう気がした。母がおらず、二人で懸命に、楽しく生きてきた。大好きな父。それなのに、時と共に春霞の中に消えていく事が怖かった。

「いいんだよ」

 野枝の腕を取り、力強く抱きしめた。また温かくなった。力強くて優しい腕の中。真の言っている事に甘えていいのかと、野枝は自問した。

「父の恨みを勝手に許すなんて」

「お野枝さんの御父上が許さなくても、おれが許す。力不足かもしれないが、それでは駄目か?」

 地面が、野枝の手にしていた書物を受っていた。返さないといけない、大切なものなのに。だが、拾う気持ちにはなれない。

 真はその落下音を聞き、体を離した。

「そんなもの返さなくていい。駒井屋にも帰るな。また別の所で、新しくやり直そう。おれと一緒に」

 顔を覗きこまれる。今度は、体が反らなかった。

 羽を閉じた蝙蝠は、月夜の中再び飛び立っていった。



  了

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。読ませていただきました! しっとりとした語り口が、すごく心地よかったです。江戸の空気感、雰囲気を、文章でつくりあげられておられるので、すっとお話のなかに入っていけました。  野枝…
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