目覚め
人里離れた森の奥。
そこに二つの人影があった。
周りは木々に囲まれている中、二人が立つ場所は少しだけ開けた空間となっており、延々緑々と生い茂る木々の間に存在している。
「負けても文句は言いっこなしだからな」
「そっちこそ負けて泣きべそ掻くなよ人間」
二人の男は着ていたシャツを脱ぎ捨て上半身裸になり、お互い自前の拳以外に武器を持っていない事を確認し合う。そして確認が済んだ所で二人はほぼ同時に動き出し、互いに相手の顔目掛け右ストレートを繰り出す。
同時に顔面に拳を受けた二人だが、先程人間と呼ばれた方の男は無様にも後方に吹き飛ばされてしまう。それもそのはず、片方は純然たる人間だがもう一方は怪力を持つ鬼である。真っ向から力比べをすれば人間が負けてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「くっそ何で勝てないんだよ」
「無茶言うなよ鬼だぞ俺は、人間のお前が勝てるわけないだろ」
「くそ、くそ、くそ、せめて傷の一つでも付けられないのか俺は」
心の底から本気で悔しがるその様は、傍から見ればこれからこの鬼に殺される無力な人間の図に見える。だからこそ人目が全くないこの場所を選んだのだが、何故この二人が争っているのかその理由は実に単純明快。
人間の男が鬼の妹に惚れ、嫁にくれと懇願された際殴り合いに勝てば夫として認めてやると言う、売り言葉に買い言葉で始まった喧嘩である。それはかれこれ十数年前の事、それから名をタツミと呼ぶ人間の男は鍛錬を積み村一番実力を付けたが所詮は人間、鬼との力の差など縮まる筈などあり得るはずなく逆に開いていく一方である。
「そんなに落ち込むなよタツミ」
「うるさい、お前に勝てなきゃ俺の今までの努力なんかなんの意味も無い」
「まったく、お前がそんな事で誰が紅葉を守ってくれんだよ。俺の弟だろもっとビシッとしろ」
この言葉にタツミは意を付かれた表情を見せ、何を言われたのか訳が分からないと言わんばかりに、だらしのない顔を向ける。
「え、俺が弟? 何を言って」
「だから認めてやるって言ってるんだよ、鬼を相手に勝つなんて人間のお前が出来る訳ないだろ。今までのタツミの頑張りを見てお前なら紅葉を任せられると思ったんだよ」
「それってつまり俺に紅葉をくれるってことか」
「そう言ってるだろ。まったく手の焼ける弟が出来たもんだ」
地面に倒れているタツミに手を差し出し、それに心底嬉しそうに満面の笑みで握り返してくるのを微笑ましく見つめる。確かにタツミは非力な人間ではあるが、これまで他の女に見移りせず紅葉だけを想い、決して生易しくはない鍛錬を一日も欠かすことなく続けてきた男だ。妹を任せるにはこれ以上の人間は居ないだろう。
何より妹である紅葉が何時までも子供みたいな駄々をこねず、いい加減タツミを認めてやれと叱られたばかりである。妹本人がタツミを認めている以上このまま自分のわがままを言う続けるのは、兄である以前に男として情けなく思い今回を最後にしようと決意した。
「さあ帰るぞ紅葉がお前の帰りを待ってるからな」
「そうだな急いで帰ろう。青葉兄貴」
青葉の名を持つ鬼は、今まで良き友人で会ったタツミに兄と呼ばれる事のムズ痒さを覚えながらも、これからの新しき生活に想いを馳せていた。
しかしそんな希望は森の奥深く、木々の陰から二人を除く者によって儚くも微塵に打ち砕かれる。他愛無い軽口を話しながら歩む二人の背後に忍び寄る人影は、懐から丸い手鏡を取り出すと何か小言で呟き二人に向かって走り出す。
木陰から飛び出して来た人物に気づいた青葉は、すぐ後ろにまで近づかれながらも気づけずにいるタツミを突き飛ばし、正面から迎え撃とうと構えるが鏡から発せられる光に照らされた青葉は体を動かせないことに驚く。
声すらも出せずただただ迫ってくる人物を眺めるしか出来ずにいる。唯一動けるタツミは咄嗟に突き飛ばした為に、未だ体制を立て直せず此方に駆けつける暇などない。
青葉を照らす光は徐々に強さを増し、遂に目の前までたどり着かれた瞬間その輝きは際限なく増していき、青葉の視界を白く塗りつぶし体を包み込む。
「青葉―――――――!!」
タツミの叫びを耳に残し遠のいていく意識に抗おうとするが、抵抗虚しく意識は闇に呑まれる。
※
耳に賑わう街中の喧騒が飛び込んで来る。
徐々に鮮明になっていく意識に青葉が目を開くとそこは、どこかの街中の路地裏であり視線の先には道を行き交う様々な人々が、この街の豊かさを表していた。路地の出口まで歩き外の様子を伺うと、表道を埋め尽くす様に並ぶ数々の店頭には、肉や魚や野菜が並びそのどれもが新鮮であることが見て取れた。
そんな中を行き交う人々の服装は華美ではないが、質素ながらもしっかりした生地を使っているのが分かる。さらに店頭に並ぶ商品を苦も無く購入している様から、ここに住む人間は少なくとも今日の飯に困ることは無い程に裕福なのだろう。
自分が倒れていた路地裏に目を向けると、表から離れた建物の間には碌に日は差さないが、暗くジメジメしているのではなく綺麗ではないが不潔と言う程ではない。
今現在自分の置かれた現状を確認した青葉は、持ち前の鬼としての身体能力を駆使し人並み外れた跳躍で、隣の建物の屋根まで飛び上がる。周囲を見渡しさらに高い鋭角に伸びる協会の屋根まで上る。
そこから見渡す先に見える光景は、城壁に囲まれその中心で山を切り開いた頂上に築かれた城とそれを囲む城下街。青葉が立つ決して低くはない境界の屋根よりも遥かに高く空に突き刺さる様にそびえ立つ城を見て、これ程までの大国を噂にも聞いたことがない事から此処は少なくとも自分の知っている地ではないと確信する。
「さてこれからどうするかね困った困った」