回復へ
「もう大丈夫でしょう。傷も癒えていますし、今はただ眠って休んでいるだけです」
土の竜から与えられた部屋でレンブラントの傷を診終えたゲンブが部屋から出てきて真っ先にリョウにそう告げた。
皆が安堵の息をつく。
「様子を見に行かれますか?」
そう尋ねられ、リョウが頷いてみせるとゲンブはドアをそっと開け直してくれる。
滑り込むように部屋に入ったリョウは奥のベッドまで足音を立てないようにそっと近付く。
部屋は落ち着いた暗褐色の板張りでベッドやサイドテーブルも同じ色の木で出来ていた。
古そうなそうした家具も、磨きあげられて高級感がある。
厚手の織物が部屋の中央に敷かれており、その上には低いテーブルとしっかりした生地で出来たクッションが幾つかあった。
東の地ではよくある文化だが、テーブルと椅子ではなく、床に直接座ってくつろぐ形式の部屋らしい。
それでもベッドの脇には椅子がひとつ置いてあり、レンブラントのそばにいたいと言うであろうリョウを気遣っての配慮であることがうかがえた。
質の良い麻と思われる清潔な服に身を包んだレンブラントの胸は規則正しく上下しており、その顔色も悪くない。
人間には少し肌寒いだろうかとリョウは思い、上掛けをそっとかけ直す。
良かった。
生きている。
そう思いながらつい小さく笑ってしまう。
この寝顔を見て、こう思うのは初めてじゃない。
ほんとに、この人は。
ほんとに、この人は、心配ばっかりかけるんだから。……人間のくせに。
人間のくせに、竜族の頭である私が、こんなに心配させられるなんて。きっとここの者たちには理解できないんだろうな。
人間だからこそ、心配なのだ。
弱いくせに、飛び込んでくる。
弱いくせに、後先考えずに命を投げ出そうとする。
クロードも、また。
もしかしたら彼もそうだったのかもしれない。
ふと既視感を覚えて過去の記憶が蘇る。
村人が私の力を恐れて私たちを追い出そうとしていたのは知っていた。
その、総攻撃を最終的に一人で受け止めてくれたのだ。
剣を持たせたら向かうところ敵なしと言ってもいいような人が、ほとんど攻撃には出ずに殺された。
私が巻き込まれないように、襲撃のある時を見定めて私をわざわざ遠ざけた。
あれは、今思えば私が、剣の力を使わないように、との気遣い。
大切な人を守りたいという願いに反応して必要以上の力を出してしまう剣の力によって、私が再び孤立してしまわないようにとの気遣いだったのかもしれない。
あの頃は、行く先々で私が、うっかり力を使ってしまったり姿を変えてしまったりする度に逃げるように旅をしていた。そんなことを繰り返すうちに私の心が荒んでいくのを彼は気遣い、そして私のために共に傷ついてもいてくれたのだ。だから最終的には逃げるのではなく受け止める、という行動に出てくれたのかもしれない。
もしくは。
または、さらには。
あの地からだけは離れたくない理由もあったのかもしれない。
鍛冶屋の女。
あの感じだと二人は思いを寄せあっていた。そしてその思いは通じあっていただろう。
なのに私を守るためになされた決断。
あの二人は私が、どんな立場の者で、将来何を成し遂げるべき存在なのかも予想していたのかも知れなくて、だからこそ剣を作って私に託したとも考えられる。
それは最終的に自分の命を懸けての、行為。
そしてそれは、あの女にとっては、愛する人が自分の命を懸けるのを黙って見ていなければならない、という犠牲を意味する。
それを思うと今更ながら胸が苦しくなる。
以前の私なら、なんで私なんかのためにそこまで! と泣き叫んだだろう。
でもそれでは、そこまでして私に人を愛することを教えようとした彼の心を否定することになってもしまうのだ。
そこまでの人間の愛を受けてきて。
もう、そういう想いを見て見ぬふりなんかできない。
ちゃんと受け止めなくては。
そう思う。
ただ、愛して欲しいと駄々をこねて、拗ねて、かんしゃくを起こして、孤立するだけでは駄目なのだ。
……受けた愛には応えなくては。
そう思うと、目の前で眠る人の静かな寝息さえも愛おしく思える。
そのすべてが、大切なものなのだ。
いつの間にかリョウの目には涙が浮かんでおり、優しく微笑んで細めたその目からすうっと筋をつくって滴が落ちる。
その雫は自分の手の上に落ち、それに気付いたリョウは何を考えるでもなくその手をそっと伸ばす。
伸ばした先にはレンブラントの頬。
少し屈み込んでその顔を覗き込むような姿勢を取ると、何を考えるでもなく唇が頬に近付いた。
そっと口づけて、そのまま唇を額に移す。そこにも優しくキスを落とす。
その拍子に涙がレンブラントの頬に落ち慌ててリョウが、すん、と小さく鼻をすすった。
「……泣いているんですか?」
不意に眠っていると思ったその人が柔らかく囁いて……温かい手がリョウの頬を包んだ。
驚いて目を見開くリョウの至近距離でレンブラントが薄く目を開いている。
「レン……ブラント……?」
名前を呼ぶとレンブラントはリョウの頬に手をかけたまま静かな微笑みを浮かべた。
え、ええええええええ!
リョウの鼓動が跳ね上がった。
いや、だって、まさかこんなにすぐに、目を覚ますとは思いもしなかった。
だってだって、そもそもが!
そんなにすぐ目を覚ますほど人間は強くないはずだし?
そして、さらに!
この至近距離!
い、いいいいい今私何をしましたっけ?
ほとんど無意識にキスをしてしまっていたのは、まだ目を覚ますことなど無いだろうと完全に油断していたからだ。
その至近距離で目が合うなんて予想外!
……しまった……なんて言って話を切り出そう……。
なんの計画性もない行動だっただけに事後処理が不可能……!
と、内心狼狽えきっているリョウに。
「良かった……一番会いたい人に真っ先に会えた……」
と、レンブラントが小さく呟いた。
途端に、リョウが目を丸くする。
もう……!
もう、この人は!
目を開けて一番最初になんて事を言ってくれるんだろう……!
そう思うとリョウの目からさらに涙が溢れた。
もうこれは自分の中のあらゆる思考とは全く無関係に。反射的に。
事後処理とか、取り繕うとかの必要なんかなかった。
ただ、愛おしい。
そんな気持ちが胸に広がり、リョウは一瞬困ったような泣き笑いになり……そのままレンブラントの唇に自分の唇を重ねた。
飽くまでも優しく、そっと、ただ唇を重ねるだけの口づけ。
温かく、柔らかい、その唇を確かめるように。生きている愛する人の命を確認するための口づけ。
そして、そっと唇を離す。
「レンブラント……良かった。……生きていてくれた……」
そっと囁くと。
レンブラントは静かに微笑みを浮かべる。
「レン、でいいですよ。……もう僕はあなたの上司じゃないですからね」
……!
リョウは再び目を丸くした。
そう言いながらもレンブラントの手は力尽きたようにリョウの頬から滑り落ち、薄く開けられた目も今にも閉じそうになっている。
それでリョウもレンブラントの体力が現時点でまだ回復しきっていないことを理解した。
きっと、どうにか意識は浮上したが体力は限界といったところなのだろう。
「分かったわよ、レン。もう大丈夫だからゆっくり休んで」
耳元でそう囁く。
レンブラントはそれでも必死に目を覚まそうとしているようでわずかに眉間にしわが寄る。
「リョウ……あなたには……ちゃんと話さなければいけないことがあるんです……僕の気持ちを……伝えないと……」
意識がもうろうとしているのかレンブラントの言葉は途切れ途切れで、しかも消え入りそうな声だ。
「いいから今は休んで。……大丈夫。ちゃんとそばにいるから。目が覚めたらいくらでも話なんか聞くから。もう離れたりなんかしない。どこにもいかないから」
リョウはそう言ってレンブラントの瞼にキスを落とす。
どうやらもう目を開けていることすら辛かったようで、リョウのキスと同時に眉間に寄せていたしわも消え、再びレンブラントは眠りに落ちた。
今まで感じたことの無いほどの優しい気持ち。
リョウはそんな想いに満たされる。
ゆったりとした安心感。
平安で穏やかで、落ち着いた冷静な気持ち。
レンブラントの頬を優しく撫でてそっと音を立てないように立ち上がる。
次に目を覚ました彼と何を話そうか。彼の口から紡がれる彼の気持ちにゆっくりと耳を傾け、ここまでどうやって旅してきたのかを聞いて……そのあとは私の気持ちがどう変化したのかも聞いてもらいたい。
そんなことを思いながらゆっくりと部屋のドアに向かう。
人間の体力を考えるとおそらく明日一日くらいは眠り続けるのではないだろうか。
その間に今後の計画を立て直そう。グウィンに話してレンブラントも一緒に行けるようにしてもらおう。
そんなことを考えながらドアのノブに手をかけ、開ける。と。
「あ……リョウ……!」
そこにいたのはスイレンだった。
「え? スイレン? 何してるの、こんなところで」
リョウが尋ねるとスイレンは照れたように笑う。
「あ、いや……ちょっと気になって……。レンブラントは大丈夫なのか?」
「え、ええ、大丈夫よ。今ちょっと意識が戻ったけどすぐまた眠ったわ。かなり体力を消耗してるみたいだからしばらくは休ませた方がいいと思うの」
なんとなくリョウは今しがたレンブラントと唇を重ねていたことを思い出してしまいどぎまぎしてしまうがスイレンにはそんなことは分かる筈もなく。
「そうか! なら良かった! 今、皆が集まって今後の事を話そうとしているのだ。リョウも来ないか?」
そう言ってスイレンの表情がぱっと明るくなった。
なので。
「あら、そうなの? じゃあ私も混ぜてもらおうっと!」
なんて応じてしまう。
そして、皆のいる部屋へ向かうスイレンについてリョウも廊下を歩き出す。




