浮上
レンブラントの意識は何もない空間を漂っていた。
何も無い。
闇もなく光もなく。
ああ、僕はどうしてここにいるんだっけ。
いつからここにこうしているんだっけ。
ぼんやりとそんなことを考える。
確か、どこかを歩いていたような気がする。
暗くて足場の悪いところだった。
どこかを目指していた筈だ。
あれは……東の森、だったか?
だとしたらどこに向かって?
誰か大事な人に会わなければならなかったのではなかっただろうか?
僕にとって大事な人って……誰だっただろうか?
父親のように良くしてくれるグリフィス。確かに彼は大事な存在だ。彼がいたから僕はここまで生きてこられた。そして彼は僕に生きる意味も与えてくれた。
騎士として生きること。
彼の家族として生きること。
認められて生きることの喜びや満足感は彼が与えてくれた財産だ。
……?
僕はこの財産を誰かにも分けてあげたいと思っていたのではなかっただろうか?
誰かが東の森の中で戦っていると、助けを呼んでいると、報告を受けたのだったか?
だから僕は急いで助けにいかなければならなかったのではなかったか?
「その人」に万が一のことが起こらないように、一瞬でも「その人」から目を離してしまったことを後悔して必死で走ったのだったか?
いや、違う。
一瞬手を離してしまったがゆえに死ぬほど後悔したのは別の時だ。
なぜこんなにも考えがまとまらないのだろうか。
考えようとすればするほど思考が形を失っていく。
ぼんやりとする頭に手をやろうとしてふと気付く。
僕の、手はどこだ?
何も無い空間。光もなく、かといって闇でもない。
身を起こそうとしても起き上がったという感覚がない。
そもそも、僕の体はどこにあるんだ?
ここに至ってレンブラントはちょっとした異常事態を自覚する。
これは、まずいかもしれない。
どこかで頭を打って意識がぼんやりしているとか、眠っていて夢を見ているとか、そういうのとは違う感覚。
考えないと。
この何も無い空間で、この思考だけが、自分の存在を証明している。思考力を失ったら自分の存在自体が消滅してしまう。そんな気がする。
そう、僕は誰かに会わなければいけないんだ。
大事なことだった。
だから足場の悪い道もただ前だけを見て進んだ。
グリフィスのため、ではなかった筈だ。
歩いているうちに、何か不安な思いが心の隅に頭をもたげて、その瞬間何かに足をとられた記憶がある。
「もし、会ってもらえなくて『あの人』のやろうとしていることが失敗してしまったら、僕には何もできないまま、役に立つどころか結果的にただ邪魔してしまっただけで終わってしまう、なんてことになったら……」
そんな考えが頭をよぎった気がする。
『あの人』とは誰だっただろうか……?
大事な人だ。
絶対に思い出さなければ。
胸の奥に走る痛み。
痛みと同時に広がる暖かさ。
二度と離さないように抱き締めて、どこにもいかなくていいと言い聞かせて、……愛していると伝えた人。
撫でてやるとしなやかで柔らかい黒い髪は光が当たると赤く見える。濃いブラウンの瞳も不思議な色彩を持ち……本人はそれらを嫌がるが僕は綺麗だと思った。
そう、特に彼女が力を発揮する時の燃える炎をまとったようなあの姿は、赤く変化した髪も瞳も近寄りがたいほどに美しいと思ったのだ。
リョウ……!
叫んでいた。
そうだ! リョウだ!
声にならない、叫び。
体が見当たらないということは声を出す器官がないから声にならないのか、もしくはここに何もなく、つまり音さえも存在しないから叫んでも聞こえないのか、それすら分からないのだが。
同時に意識の中に声が響いた気がする。
「第八部隊隊長レンブラント。あなたには都市の守護者の援護を任せます」
グリフィスの声。
都市の司としての声だ。
そうだ。
こんなところでぼんやりしている場合ではない!
僕にはまだやるべきことがある!
それに。
「ちゃんと彼女に気持ちを打ち明けないと、人間として本当にうだつが上がらないままになっちゃうんだからね?」
そんな言葉までご丁寧に聞こえてくる。
これにはさすがにレンブラントも苦笑してしまう。
でも。
ちゃんと、もう一度伝えなければならない。言わなければならないことがあるのだ。
もう一度、あそこに戻らなければ!
何も無い視界。
そこに、閃光が走る。
存在しない体。
そこに、鋭い痛みが走る。
「レンブラント!」
袈裟懸けに剣を振り下ろした直後、その剣を放り出したリョウが叫んで、その体に駆け寄る。
座り込んでいた体は木が絡み付いていたせいでその姿勢を保っていたが、その支えともなっていた枝や根が取り払われ、遂には剣が振るわれた衝撃によりずるりとくずおれそうになった。
駆け寄ったリョウが、両腕の中にその体を抱き止める。と。
「……う……」
わずかに呻き声が漏れた。
生きている!
リョウの目から再び涙が溢れだす。
剣の使い方が少しでも間違っていたならば、確実に彼の命はなかった。一瞬で即死していたはずだった。
声が漏れるということは、つまり、生きていて……成功したということだ!
「レンブラント! ねえ、レンブラント! 聞こえるっ?」
抱きとめた体を、今度は揺すりながら声をかける。
「あ、ちょっと……! 火の竜!」
慌てたように後ろからビャッコが近付きリョウの腕をつかむ。
「嬉しいのはわかるけど、今起こさない方がいいわよ!」
「……え?」
ふと我に返ったリョウが顔をあげると、今度はグウィンとスザクが近寄ってきて。
「ああ、この状態で意識が回復したら……かなり辛いと思うぞ」
「……むしろ死なせてくれとは……さすがに思わねーか」
なんて言いながら、ボロボロになった鎧を外しにかかる。
その合間にも微かにレンブラントは呻き声を漏らしており、外された鎧の下からは先程まで枝や根が突き刺さっていた場所に大きな傷があってそこから流れる血が地面に広がり始めている。
「……!」
リョウが言葉を失う。
前にもこんなことがあった。
あの傷は、呪いによるふさがらない傷だったが、この度の傷って……。
「大丈夫。痛いという感覚があるってことは生きようとしているってことだろ?」
今までずっと、皆から距離をおいてことの流れを観察していただけのように見えた土の竜がそんな声をかけて真っ直ぐ近付いてくる。
それに合わせてビャッコとスザクが立ち上がって後ろに下がり、グウィンは呆然と事態の進展を見ているスイレンのそばに戻る。
そして。
「どうやら、賭けも僕の負けみたいだしね」
なんて言いながら土の竜がリョウとレンブラントのすぐ脇にしゃがみこむ。
土の竜はそのまま、ためらうことなく右手をレンブラントの肩に置き。
「我が名は土の竜。大地とそこに根ざす命を司る者。いずれまた大地に帰るこの魂に命ずる。……とどまれ!」
その言葉と同時にレンブラントの苦痛の表情は和らぎ、出血がみるみるうちに止まる。
血に染まった服のせいで見えないが、どうやら傷口そのものが癒えたようだ。
「あとは部屋に運んでやれよゲンブ。脆弱な人間なんてどうせすぐには体力は戻らないんだろ?」
「そうですね……」
穏やかなゲンブの声。
リョウは今になってようやくゲンブの存在を思い出した。
これまでほとんど無言で佇んでいたゲンブは土の竜の隣にいたのだが、どうやら土の竜がどんな行動に出るかただひたすら見守っていたようだ。
積極的に自分の感情や意思で動くスザクやビャッコとは違う静かな立ち居振舞いは年の功というものもあるのか落ち着きがあり、信頼される家臣のようなそんな雰囲気も感じられた。
指示を受けたゲンブは「失礼します、火の竜」と短く声をかけてレンブラントの体を軽々と抱き上げた。
大男、というほどではないにしても体格のいいゲンブだが、それでも騎士である筋肉質の男を軽々と持ち上げてふらつきもせず歩く姿はちょっと目を見張るものがある。
「……怪力男か……?」
なんて目をむくスイレンと目を合わせてから人の良さそうな笑みを返す辺りは……ゲンブはきっと物静かであると同時に、人格者なのだろう。




