命
……ぐあ!
締め上げられた状態で意識を集中させていたリョウの耳に変な音が聞こえた。
声というべきか。
と、同時に体の拘束が解けて落下する。
とっさに、着地のために体勢を整えながら見上げると、リョウを締め上げるように握っていた腕とその胴体に、二本の銀の矢。
「隊長……」
シン……本当に呼んできちゃったんだ……!
そして、来るのが思っていたより早かった……!
せめて先に片付けておこうと思ったのに、と思いながらわずかな隙に矢が飛んできた方へ目をやるとレンブラントがまだかなりの距離をおきながらも新たな矢をつがえているのが分かる。
それを視界の隅に確認して、不意打ちを受けてうずくまる目の前のヴァニタスに向かって地面を蹴り、飛びかかるようにして燃える剣の刃を満身の力を込めて突き立てる。
と同時にその体は小さく内側から爆発を起こして炭の塊のようになる。
その瞬間、背後で、ドサッという音と馬のいななく声がした。
嫌な予感がしてリョウが振り返ると。
「レンブラント……!」
思わず名前で呼んでしまう。
この、ほんのわずかな間に新たな銀の矢を胸に受けた最後の一体は、恐ろしい勢いで馬にまたがって向かってきた騎士に向かって詰め寄り、あろうことかその鉤爪を振るったのだ。
矢を突き立てられて弱っていたことと、レンブラントが馬をうまく操ったことにより、本来ならその振りかざされた鉤爪によって体が真っ二つになってもおかしくないと思われるところを、馬から投げ出されるという程度で済んでいるのが一瞬で見てとれた。
そうはいっても。
あの鉤爪の殺傷力。
今しがた聞いたことと自分の経験を踏まえたリョウは一瞬で頭が真っ白になる。
人間があれをまともくらったらただでは済まない!
レンブラントの元に駆けつけようとしたリョウの前に、胸に銀の矢を突き立てられたままの最後のヴァニタスが立ちふさがる。が、リョウにとってはそれどころではない。
「お前と遊んでいる暇なんかない!」
そう言うが早いか、相手に攻撃の暇など与えずに、走り込む勢いはそのままで握った剣で下腹部辺りを切り裂く。
切り裂かれると同時に最後の一体は燃え上がった。
その勢いのまま、レンブラントのところへと駆け寄り、膝をついてかがみこみ、その容態を確認する。
「レンブラント!」
とにかく呼んでみる。
胸から腹にかけて三本の傷があり、血が噴き出しているのが分かる。
「大変……!どうしよう……」
流れる血を少しでも止めようと両手を傷に当てるがそんなことで止まるはずもない。
その様子にリョウは自分を抑えることが出来なくなっていく。
自分と違って普通の治癒力しかない人間は、こんな勢いで出血したらいけないはず。そのまま死んでしまう!
どうしよう……!
私が手間取ったりしたせいだ!
あいつらに合わせたりなんかせずにさっさと片付けていたら……! 違う! それ以前にシンがいることなんか気にせずにさっさと片付けていたら……この人が傷つくことはなかった……!
「レンブラント……! 目を開けて! ……駄目! 死なないで!」
必死で叫ぶ。
と。
「このくらいで死んだりしませんよ……。心配性ですね……」
弱々しく、ようやく聞き取れる程度の声がその口から漏れる。
でも、目を開ける力は残っていないようで、まぶたは閉ざされたまま。
その様子にリョウの目から大粒の涙がこぼれた。
思い出したくないあの日の光景がまざまざと思い出される。
大好きな人が目の前に横たわり、なす術もなく息絶えるのをただ見守ったあの日の光景。
……私をおいて行かないで!
そんな言葉をぐっと飲み込む。
消え行く命はあまりに儚く、繋ぎ止めるには弱すぎて、すくい上げるには脆すぎて、何も出来なかった。
消え行くその人の命をただ見ていることしかできずに、名前を呼ぶことしかできなかったあの時。
いくら呼んでも目を開けてくれることのないあの人と、力もなくただそこにいることしかできない自分の光景。
込み上げる思いがどんなに熱くても決して届かないやるせなさ。
私を独りにしないで……!
それは声にならない叫び。
自分の無力さを知り、それでもなお生きていかなければならない現実が恐ろしくて全てを投げ出したくなったあの時の絶望感。
何日もただ彼のそばにいて飲まず食わずで、脱け殻のようになってもまだ生きている自分が嫌だった。
人を生かすことが出来ないのに、己の命を断つことも出来ない。そんなこの命に何の価値があるのだろうか、と考え続けた。
だからこの度は。
繰り返したくない。絶対に。
この優しい人を死なせてはいけない。
この人の人生を私なんかの不注意で奪ってはいけないのだ。
……命の火が消えてしまう前に。
リョウの体が、頭で考えているわけでもないのに勝手に動く。
まずは横たわるレンブラントの体に馬乗りになるかのように膝をついてまたがり。でも、一切の負担がかからないように決して彼の体に触れないように。
そして、自分の両手の手のひらを彼の手のひらに重ねる。手は、エネルギーを放出するのに比較的都合がいい場所なのだ。
そして意識を集中する。
自分の中を流れる力の全て、自分を生かす力、自分の治癒のための力、自分が扱える限りの全ての力に意識を集めていく。
それらは本来自分の中で、ちょうど心臓が血液を体中に送り出し役目を終えて再び心臓に戻るという循環を繰り返すように、常に体中を巡っている力だ。
血液の流れを誰も意識しないのと同様、リョウにとってこの力の循環は無意識になされているもの。だから自分の意思でそれをコントロールするのは難しい。
でも今は。
まずそれを意識する。
それを一所に集めていく。
そして自分の中に向かうはずの力を逆流させる。
外へ。
手のひらを通して外へ。
あの時は出来なかったこと。
でも今は、きっと出来る。仮説に過ぎなかった力の使い方だけど、きっと出来る。今出来なければ意味がない。
重ね合わせた手のひらが熱くなるのを感じる。
その熱を、レンブラントが吸収してくれればきっと大丈夫。
そう願ってリョウはレンブラントの顔を覗き込む。
依然、顔色は良くない。
そんなに急激に治癒することがないせいなのか、出血が多すぎるせいなのか、そして受けた傷が特殊なものであるせいでこの力では歯が立たないということなのかはわからないが、目に見えた反応が確認出来ないのでリョウの顔に焦りが見え始める。
「駄目だよ、レンブラント。死んだりしないで……まだ言ってないことが沢山ある。……あなたには伝えていないことが沢山あるの。……まだ何も言ってない。さっきのお礼だってまだ言ってないんだからね。……あんな風に優しくするだけして……これでお別れなんて許さない……! ねぇ、聞いてる? あなたは、もっとちゃんと……沢山生きて、他の人を幸せにするべき人だよ」
思考がだんだんまとまらなくなってくるのを感じながらも、残っている力を最後まで注ぎ出すためには意識を保っている必要がある。そう感じてリョウはささやくように語りかけることを続ける。
気付けばリョウの肩から流れる血は、自身の治癒力を失った体から止まることなく少しずつ流れ続けており、下にいるレンブラントの、既に彼自身の出血で赤く染まっている服の右肩辺りに更に赤いシミを作っている。
でもリョウにとってそんなことはどうでも良かった。
レンブラントの様子に変化がないように見えることから思いが離れない。
もしかしたら。
手のひらから力を受けるということは、普通の人間には難しいのかもしれない。
ふと、そんな考えがよぎる。
「レンブラント。……聞こえているならちゃんと聴いてね。私の力なんかいくらでもあげるから……こんな命、いくらでもあげるから、ちゃんと受け取って。……そうしないとこの力……全部無駄に流れてしまうよ……あなたが生きてくれるなら私は何も惜しくないんだから」
そして。
意識を集中して、手のひらへ送り出していた力を再び集め直す。
レンブラントの手のひらに合わせていた両手を彼の顔の両側に移動させ、重心をその手に移すと、リョウの肩に更なる痛みが走る。それでもお構いなしにそっと血の気のない顔を覗き込む。
それから。
苦しそうに、先程言葉が紡がれて以来、弱い息を消えそうなほど微かに漏らすのみのレンブラントの唇に、リョウは自分の唇をそっと重ねる。
息を吐き出す要領で、力を吐き出す。
この方が手っ取り早い。
そんな気がした。
そんなことが可能だろうか、なんて考えている余裕はない。
自分の体の中心に集めた力をとにかく全て吐き出すつもりで唇を重ね続ける。
頭が朦朧として、視界がぼやけ始めてもやめるわけにはいかない。
これが失敗したらもう後はない。
他に何も考えることができずにただ力を送り込む。
しかも今度は、自分の体がそれに応じて急激に力を失うのをリョウ自身が感じていた。
そして、リョウの、薄く閉じかけた瞳に、レンブラントの胸にある傷がぼんやりと光を放ったのが映った気がした。
ヴァニタスに付けられた、人であるなら治癒することがないと思われる、命を奪うまで嘲笑うように口を開けているはずの傷が、自身の治癒能力にちゃんと応える「普通の」傷になったことをリョウは悟る。それでも、なお力を送り続ける内に出血が止まり、深そうだった傷が心なしか浅くなってくるのではないかとさえ思われた。
「……そこまでにしないと、僕が死ぬほど後悔することになります……」
レンブラントの両手がリョウの顔を優しく包み込み、そっと引き離してからそう告げるのと、リョウが意識を手放すのはほぼ同時だった。