旅路(励ましと酒の勢いと)
宿屋は中年の夫婦が経営していた。
前に訪れた町のルースと同年代くらいだろうか。
そこから察するのは、グウィンの友人は恐らくその親で、老齢ゆえかもしくはハンナの夫やルースの夫のような死を迎えたのだろう、ということ。
グウィンは宿屋の主人には自分達が竜族であることは伏せていた。
この夫婦とはほとんど面識がないのだろう。
両親に昔、自分の親が世話になったことがあった、という事にして挨拶をしていたらしいのでリョウとスイレンもそれにあわせて「人間」として振る舞うことにした。
「部屋がすでに一杯で、申し訳ないです……せっかく父と母に縁のある方に来ていただいたのに」
申し訳なさそうに頭を下げる主人と、その後ろでやはり申し訳なさそうにこちらを見ていたその妻にグウィンは少し視線を落としたまま。
「ああ、いえ。いきなり押し掛けてきたこちらが悪いんです。旅の途中で両親からよく聞いていたこの町が懐かしくなってつい寄ってしまいました。……泊めて頂けるだけありがたい」
こんな風に丁寧に話すグウィンを初めて見た、と、リョウは思った。
亡くなった友人と、その息子への敬意の表れなのだろうか。
「人の良さそうなご夫婦ね」
部屋に落ち着いてからそれとなくリョウがグウィンに声をかける。
「ああ。俺が知っているのはあの親がちょうどあれくらいの年の頃だった……」
そう言うとグウィンはベッドの端に腰を下ろす。リョウはその向かいにある窓から外を眺める。
大きく造られた窓の外には手すりつきの張り出したスペースが設けられており外に出られるようになっている。
空には夕暮れの痕跡はほとんどなくなっており、早速星が輝き出していて月明かりも夜の光源として光を増している。
ベッドの端に腰を下ろしたグウィンは膝の上に両肘を置き、その先で手を組んだ状態で屈み込んだような体勢。
疲れているようにも、落ち込んでいるようにも見える。
「二人とも腹は減らないのか?」
唐突にあっけらかんとした声がかけられる。
リョウとグウィンが振り返ると、腰かけたグウィンの後ろにもうひとつあるベッドの上で胡座をかいたスイレンが二人の方には目もくれずグウィンの荷物を勝手に手繰り寄せて中身を物色している。
「うわ、おい! 勝手に開けるな! だいたいお前、腹なんか減らないだろ?」
慌ててグウィンが立ち上がり、座っているベッドを回ってスイレンの方へ歩み寄ると彼女の手から荷物を引ったくる。
「……ふん。見られて困るようなものでも入れているのか?」
悪戯っぽい微笑みを浮かべてスイレンがグウィンの手元を眺める。そして付け加えるように。
「……私は腹など減らんが二人は違うだろう? だいたい、腹が減った状態の人間というものは情緒不安定になるらしいからな。ルースのパンでも食べたら少しは落ち着くだろう?」
ああ、そうか。
くすっ、と。
リョウの口から笑いがこぼれる。
どこで知った情報なのか、スイレンは自分には当てはまらない人間の性質というものを考えて彼女なりに気遣っているんだ。
お腹が空いていたら、気持ちが落ち込むのに歯止めがきかなくなる。
混血とはいえ、置かれている状況はかなり過酷なものだ。肉体的な疲労と精神的な疲労。
直接の友人としての身分を明かせば涙のひとつも流せるだろうが厳密には親しくもないあの夫婦に竜族であることを明かせば旅の事や両親との関わりに関して良くて気を遣わせるし、悪くすれば町が大騒ぎになるか下手したら東に着く前に情報が流れてヴァニタスの邪魔が入りかねない。
さらには、リョウやスイレンの前でも平静を装おうとするグウィン。
「さ、パンを出せ。私はあれが食べたいのだ」
飽くまで、グウィンのためというより自分が食べたいのだという姿勢を崩さないスイレンは……もしかしたら本当にそうなのかもしれないのだが……身を乗り出してグウィンの方ににじり寄る。
「分かった、分かった! ほら」
そう言うとグウィンは先程までの深刻な顔はどこへやら、の呆れたような顔になって荷物の中から大きな包みを取り出す。
今朝、出発の時にルースから渡されていたものだ。
「あ! 私も食べる! あそこのパン美味しかったものね!」
リョウもスイレンの座っているベッドに回って端に腰を下ろす。つられてグウィンも二人に向かい合うように座り直し。
「二人とも! 全種類制覇するのは私だからな! 遠慮して食えよ」
などと完全に本気の目付きで包みの中から出てきた沢山のパンをしっかり目で追うスイレンにグウィンとリョウは思わず吹き出す。
「スイレン、眠ったのか?」
リョウが窓の外にいるグウィンの様子が気になって外に出ると、ちょうど手すりに寄りかかってこちらを向いている彼と目があって声をかけられる。
「純血なのにあんなにちゃんと寝るのね……ちょっと驚いたわ」
声が部屋の中に聞こえると起こしてしまう、と思って後ろ手に静かに窓を閉めながらリョウが答える。
「まぁ、まだ子供だしな。成人した竜族よりは多少弱いんだろ。母親ともそういう生活をしていたようだし……それに」
グウィンの目は優しく細められ口元にはうっすら笑いが浮かんでいる。
ほほえましいものを見た、という表情だ。
「あれで気を遣ってるつもりなんだろうな」
なんて付け加える辺り、グウィンにもスイレンの気持ちが伝わっているようだ。
「飲むか?」
とん、と、手すりの上に杯が二つ並べられる。
見るとグウィンの手には先ほど宿の主人が「せっかく来ていただいて何も出来ないのは申し訳ないから」と差し入れしてくれた果実酒の瓶があった。
パンを食べていたところだったのでグウィンは感謝して受け取ったがリョウとスイレンは遠慮して代わりにミルクをいただいた。
「飲めない訳じゃないんだろ?」
そう言うとグウィンは勢いよく杯に酒を注ぐ。
リョウが出てくるのを待っていたかのように用意されていた杯。
「わ……そんなには!」
リョウが慌てて杯に手をかざし、ストップをかけると、おや、とグウィンが目をあげる。
「あ、いや……あの。騎士の生活のせいでもうずっと飲んでなくて……」
えへへ、と笑いながらリョウが付け足す。
騎士は勤務期間中、素面でいなければならないので飲酒はしない。しかもリョウは西の都市では城壁に住んでいてその理由を知った時から勤務期間ではなくても一切酒を飲んでいなかった。
竜族の体質上、泥酔するとか二日酔いになるとかいったこととは縁がなかったので東の都市にいた頃は勤務期間外ではやけ酒、みたいなことをするときもあったのだが。
「あ、なるほど。お子様に合わせてるんだと思ったんだが……」
にやりと笑うグウィンを目にするにあたり、リョウはふと彼の手にある大きめの瓶がほぼ空に近いことに気付く。
……これは。
そろそろ止めた方がいいんじゃないかしら。
「酔っ払えるほどか弱くないから安心しろ」
なみなみと注いだ杯を持ち上げながらグウィンが呟く。
「まぁ……そりゃそうだけど。……じゃあ、いただきます」
リョウは見透かされたのがばれて少し頬が赤くなるのを感じながら、照れ隠しに半分ほど注がれた杯を手に取る。
グウィンの心境を考えたらここは付き合うべきだろう。
濃い赤紫色の酒は口元に持っていくとふわりと甘い香りがする。
久しぶりに嗅ぐ香りを一度大きく吸い込んでみる。口に含むと甘さと渋味が程よいバランスで喉に落ちたあとにも香りの余韻が残る。
……これ、結構いいお酒なんじゃないかしら。
なんて思いながら手にした杯をしげしげと見つめていると。
「あいつとはよくこうやって飲んだんだ……」
と、グウィンがぽつりと呟く。
リョウがゆっくり顔をあげて隣で手すりに寄りかかりながらのけぞるように空を見上げているグウィンの方に視線を向ける。
「……ああ、あいつってのは、ここの主人の父親な。初めて会ったとき、あいつ、まだ独り身でな。幼馴染みにどう告白したもんかと悩んでて……その相談に乗らされたんだ。この宿屋を継ぐことも悩んでたし……なんだかめんどくさい奴だと思ったんだが……どうにも放っておけなくてな」
「ふうん……」
「無事に二人が結婚したときは胸を撫で下ろしたもんだった。……しっかりした嫁さんをもらってあいつも幸せだったんじゃないかな」
リョウの簡単な相槌に安心したようにグウィンがゆっくり静かに話し出す。
「でも……やっぱり、人の一生なんてあっという間なんだな……もう二度と会えなくなると分かっていたら……もっと色々話しておけばよかったのに、なんて思っちまう。……分かっていたら……いや、分かっていたようなもんだったのにな……」
そう言うと杯の中身をぐい、とあおる。
「……失うものがあるからといって、得られるはずのものまで諦めるのは愚かなこと」
リョウが呟いた。
「え?」
「あ、ハンナがね、そう言ってたんどけど。……私自身まだそんな考え方を貫くようなことは何もできてないし……ただ、それって重い言葉だなって思って」
グウィンがリョウの方に真顔で顔を向けてきたので、自分の言葉ではないと訂正するためにリョウが言葉を重ねる。
「私たちにとっての人との関わりって、そういうことなのかなって、思ったのよね。……出逢ってしまえば得られるものはたくさんあって、いつか死に別れると分かっていてもそれがあるから出逢いを拒否できない。……グウィン、あなたがそうやって人と関わり続けてきたのって、そういう意味でもあなたを大きく強くしてきたんでしょうね」
つい自分と比較してしまうのでリョウは顔を上げることが出来なくて、手元の杯の中で揺れる赤紫色の液体に目を落としたままそんな言葉を紡ぐ。
私はそれをやってこなかった。
傷つくことを恐れて、もう二度と人と深く関わらないようにしようと心のどこかで思いながら過ごしてきた。
だから。
「こういうときに何て言ってあげていいのか……よくわからないんだけど」
そう言うとリョウは口をつぐんでしまう。
ハンナだったらこんなときにグウィンに何て言ってあげるのだろう。
くすり。
隣で柔らかく微かな笑みがこぼれる気配がした。
リョウが顔をあげるとグウィンがこちらをじっと見ている。
その目はびっくりするくらい優しくてリョウの視線が釘付けになる。
髭をなくしたその顔のせいか、それともほんのりとお互いに酒が回っているせいなのか、初めて会った人と話しているかのような妙な錯覚に陥りながらも、沈黙が嫌ではない。
「……いや、それで十分だ」
しばらく間をおいてからグウィンの口からそんな言葉がこぼれる。
そして。
「なぁ、リョウ。……俺と共に生きてみないか?」
視線は相変わらずリョウの方を、というよりリョウの目を見据えたままだ。
「……え?」
グウィンの言葉の意味が掴めず、リョウは聞き返してみるが、彼に説明を加える気がなさそうなことを見てとって改めて今のが告白だったと気付く。
「……え、やだ。何言ってんの……今そんな話してないじゃない……だいたい、今そんな時じゃないし……それに私……」
耳まで赤くなりながらリョウが慌て始める。
……それに私。
何を言うつもりなんだろう私。
好きな人がいる。とか?
添い遂げることができないからって逃げてきちゃったのに。失うものを恐れて、手を伸ばすことさえ諦めてきちゃったのに。
「ま、そうだよな。……悪かった。忘れてくれ」
そんな言葉と共にリョウはグウィンの視線から解放される。
「あ……う……」
どう言葉を繋いでいいか分からずリョウが口をパクパクさせているとグウィンがくすくす笑い出す。
「ああ、ホントに気にするな。酒の勢いってやつだ。久しぶりにうまい酒を飲んだらお前がやけに女らしく見えただけだ。俺の好みはいい身体した美人だしな」
そう言うといつもの調子でにやりと笑う。
「なっ……! なんですってぇ!」
グウィンの冗談めかした言葉にリョウは一瞬本気で慌てふためいたことが恥ずかしくなりさらに真っ赤になる。
グウィンはそんなリョウを見てさらにくすくすと笑いが止まらない様子で。
「酒ってのは凄いな! お前さんがそこそこの美人に見えるぞ! ほらもう部屋に入って寝ろ。酒の勢いで襲われるかもしれん」
夜であることと部屋の中でスイレンが休んでいることを気遣ってか声のトーンこそ落としているが、もう、腹を抱えて笑っている、くらいの勢いだ。
「い、言われなくてもそうさせていただきます!」
リョウはそう言い残すとグウィンにくるりと背を向けて部屋に入って行く。
……もう!
ホントにどこまで本気でどこから冗談なんだか分からない人なんだから!
リョウはスイレンが眠るベッドに腰かけてから手に持った杯にまだ中身があることに気付き一気に飲み干す。
サイドテーブルに空の杯を置いてからスイレンを起こさないように隣に潜り込むと、気を付けたつもりだったがスイレンがもぞもぞと寝返りをうってこちらを向いた。
「うーん……なんだリョウ……酒臭いぞ……グウィンとキスでもしたのか?」
「……っ!」
な、な、なにを言い出した!
と絶叫しかけて、スイレンが起きているわけではないことに気付きリョウは自分の口を押さえる。
もう!
揃いも揃って!
スイレンに背を向けるようにして毛布にくるまり、深呼吸する。
リョウが眠りに着くまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
そして。
リョウが部屋に入ったあとのグウィン。
……迂闊だった。
本当に酒の勢いだったとはいえ……とんでもないことを口走っちまった。
と、後悔の念にかられており。
リョウのやつ……「それに私……」って……。
あのあと、あの若造のことを言うつもりだったか。
それを言われたら俺は完全に立つ瀬がない。
そこまで考えてグウィンは深いため息を漏らす。
それから。
「まぁ、待つけどな……。人間の一生なんてあっという間だ。またいつか、ゆっくり口説いてやるさ……」
誰にも聞こえないような、優しい響きと切なそうな響きを含んだ低い声でそんな呟きが漏れた。




