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旅路(背を押すもの)

 窓の外が明るくなりかけた頃、ルースは仕事の区切りをつけてハンナと一緒に朝食をとるのが習慣らしい。

 店が開けば客の相手があるので朝食どころではない。

 ああ、それで夕食の時間も早かったのか、とリョウは納得した。


 ルースが自分達の朝食用に取り分けた焼き立ての売り物のパンと、ハンナが作るスープがあって、それに簡単なオムレツをつけようと言われてリョウがそれを作り、二階では全く物音がしないので三人で朝食を始めてしまうことにした。

 静かに朝食をとる二人の様子がリョウには心地よく、店が開く前のほんの一時なのだろうが、ゆったりと時間が流れるようで贅沢にも感じられた。

「あのね、ここだけの話。グウィンって私の初恋の人なのよ」

 ルースが小声でそんなことを言い出す。

「え?」

 リョウが目を丸くする。

「ほんとにこの子、グウィンが大好きだったからね」

 ハンナもくすくす笑い出す。

「あの頃私、まだ八つくらいだったわよね、母さん」

 ルースの笑顔はハンナとそっくりだ。

「わぁ……八才! 可愛い!」

 リョウも思わず笑顔になる。

「あの頃は私が夫を亡くしてここの仕事を一人でやっていたんだけど、まだ勝手が分からなくて失敗ばかりしていてね。グウィンは夫がいた頃にもうちに来てくれたことがあったんだけど、たまたまその頃にもこの町に来ていてうちで色々手伝ってくれたんだよ。この子の遊び相手もしてくれたしね」

「そうなんですか」

 グウィンの過去。

 そういえばそういうの、聞いたことなかったな。なんて思いながら。

 そもそも、リョウにしてもちょっと聞きにくいことでもあったのだ。繋がりを持ってしまった人との別れがその話のどこに潜んでいるか分からない。

 そういう流れになったときに、どんな顔をしたら良いか分からないし、何て言って良いかも分からない。

 それでも、ハンナが言っていた言葉を少し思い出してみたりする。

 失うものを恐れて得られるはずのものまで諦めてしまうのは愚かなこと。

 そういうこと、なんだろうか。だからグウィンも人との関わりを持ち続けていられるのだろうか。

 そうなのだとしたら。

 いつかゆっくり聴いてみたいな、なんて思ったりもする。

 そんなことを思いながら二人のやり取りを眺めているうちに、開店時間になったようでルースが動き出す。

 開店と同時に外のお客さんとの賑やかなやり取りが始まり、ハンナは台所の片隅でとっていた朝食の後片付けを始める。

 なので、リョウもそれを手伝うべく立ち上がったのだが。


 どたどたどた!


 唐突に階段を転げ落ちるかのような勢いで物凄い足音がしてハンナとリョウが顔を見合わせる。

 足音の大きさからしてスイレンと思われたので、リョウが階段の下に駆けつけると。

「リョウっ!……たっ、たっ……大変だ! あ、あ、あれっ!」

 鬼気迫る顔でリョウの胸に勢い余って飛び込んだスイレンがその勢いのままリョウの背後に回り込み、肩の横辺りから顔だけ出して階段の上を指差す。

「何事なの……」

 その指差す方向に顔を向けたリョウはその瞬間、表情を固まらせた。


「……そこまでの反応は……さすがに予想してなかったんだが……」

 階段からゆっくり降りてきたのは大柄な男。

「……グウィン……?」

 夕べの大笑いの的だったグウィンが、髭をすっきり剃り落とした顔で降りてきたのだ。

「おや! すっかり男前になったねぇ! その方が若く見えるよ!」

 台所の入り口から顔を出したハンナがすかさず声をあげる。

 ハンナの言う通り髭を剃ったグウィンはだいぶ若く見えた。それに「キレイ」な顔立ちをしている。

 それはどうにも今までの彼のイメージではなく。


 切れ長の目は、鋭くて怖いという印象よりも涼やかで知的な印象を与えている。

 薄い唇はこちらの反応のせいかなにか言いたげに少々開きぎみで、それがどことなく色っぽかったりして。頬の辺りをわずかにひきつらせているのすら、なんだかさまになっている。

 そもそも大柄な体つきもバランスがとれていて存在感があったところに、今まで髭の方にいっていた視線が完全にその顔立ちや表情に行くので……間違いなく「キレイな人」という第一印象を与えるような容貌だ。


「……ぷっ」

 思わずリョウが吹き出した。

 なるほど、これは八つの少女のハートを鷲掴みにするかもしれない。なんて思いながら。

 そそくさと食べ物を求めてハンナのいる台所へ入ろうとするグウィンがリョウの前を通りすぎながら、心外そうにリョウの反応を睨み付けるが、リョウとしては一度吹き出してしまったら笑いが止まらなくなってしまった。

 笑いながらスイレンの方に目をやると、スイレンも笑いを噛み殺しているような、一触即発の表情だ。

「……勝手にしろ」

 ふてくされたようにそう言い残して台所へ入っていったグウィンの背中を見送ってからスイレンが改めて笑いだし、二人の笑い声に店の奥から顔を出したルースが声をあげたのはその直後。



「もう少しゆっくりしていってくれたらよかったのに」

 昔を思い出すようにグウィンを見つめるルースの目は、それでも恋する乙女というよりは昔を懐かしむ旧友のような目で、別れを惜しむ。

「ああ、そうしたいのは山々だが……ゆっくりしていられない事情もあるんでな」

 グウィンはそう言うとルースが用意してくれた食料が入った包みを受けとる。

「あの、色々、教えていただいてありがとうございました」

 リョウがハンナに頭を下げる。

「いえいえ、年寄りの戯言だと思ってくれていいんだよ。あなたにはあなたの生きる道があるだろうしね。……でも」

 そう言うとハンナはそっと腕を伸ばしてリョウを抱き締めた。そして耳元で囁く。

「精一杯のことをやれば後悔はしないからね」

 そんなハンナの背中に腕を回してリョウは頷いた。


 経験者の言葉は重い。

 そんな気がして。


「あなたもまた良かったら来てね」

 ハンナはリョウから身を離すとスイレンも抱き締める。

 スイレンはとても嬉しそうな顔で頷き、宿泊と食事のお礼を口にした。

 そしてふと、リョウはルースと目が合う。

 ルースは一瞬戸惑うような表情を浮かべてからリョウを抱き締めて。

「こんなこと、リョウに言って責任を負わせる気はないんだけど……旦那と父の敵をとってもらえるなら……ってどうしても思っちゃうのよ。こんな思いをする女が少ない世の中になったら、ってずっと思ってた。……でも……やっぱりあなた達が無事でいてくれるのが一番なんだけど……ごめんなさい……やっぱり言うんじゃなかったわ……」

 身を離したルースの瞳はわずかに涙を溜めていて、リョウはつられそうになりながらごまかすように笑顔を作る。

「大丈夫! 私、強いから!」

「わ、た、し、た、ち、だ!」

 すかさずスイレンが隣でにやっと笑う。

 スイレンにもルースの気持ちが伝わったようで青い瞳はわずかに潤んでいる。

「さ、行くぞ」

 グウィンが声をかけ、この度は素直にスイレンがニゲルの方に歩み寄る。

 なので。

 改めてリョウも二人の母娘(おやこ)に軽く頭を下げてハナに乗る。


 守りたい人がまた増えた。


 これはリョウにとって、戦うための大切な原動力なようだ。

 そう思う度に前を見据える目が揺るぎないものになっていく。



 そんなリョウの様子を横目で見ながらグウィンが何かを悩むような顔をしている。

 本気にならざるを得ない状況で、本気を出す。それは大切なことで当然のことではあるのだが。

 本気になるあまり我を失うことがあるのはリョウにとってプラスになるとは限らないのではないか。

 そんな不安が胸をよぎる。


 さっき、うっかりルースに「ゆっくりしていられない事情」なんて口を滑らせてしまったが、リョウが突っ込んでこなくてよかった……。

 まぁ、急ぐ旅であることは事実だからごまかしようはあるが。

 先ほど、次の町を目指すという情報を託したレジーナが遠くを飛ぶのを目で追いながらグウィンはわずかにため息をつく。


 ……グリフィスの奴、無茶をしやがる。

 土の竜のところにあの若造を差し向けるなんて。

 しかも、あいつ、リョウが寝言で呼んでいた奴なんだよな……。

 人間が東の高山まで行くのと俺たちが行くのとではペースが全く違うから、急げばギリギリ間に合うとは思うが。

 問題は、この事をいつリョウに話すかだよな……。いっそ知らなかったことにしてしまおうか……。


 端正な顔立ちのグウィンが、切れ長の黒い目の、その眉間に深いしわを寄せながらそんなことを考え込んでいると、スイレンが見上げるように振り向く。

「おい、グウィン。髭を剃って男前になったからといっていい気になるなよ? リョウは私のだからな」

「はいはい」

 スイレンの言葉にグウィンの眉間のしわが消えた。

 取り敢えず今すべき事に集中するか。

「あんまり無駄口きいてると舌噛むぞ」

 そう言うとグウィンはニゲルを走らせる。

 ハナはそれを瞬時に察知して遅れることなくついてくる。

「次の町、遠いの?」

 なんてリョウが訊ねてくるのでグウィンは肯定の返事を返し。


 次の町。

 そこにいるはずの友を思い描く。

 あれから何年経ったんだろうか。

 人間にとってその年月は何を意味するのだろうか。

 ほんの少しの期待と、それを上回ってしまう憂鬱。


 まだ日は高く、これから一日走る距離は人間だったらあり得ない距離だ。

 東に近づくにつれて幾つか頭を悩ます問題もあることを思いながら、グウィンはなるべくそれを悟られないように気持ちを切り替えるよう努めていた。

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