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花の名前

「呼んできましょうか?」

 あまりにもあっさりとラザネルがそう答えるので、リョウは思わず拍子抜けしてしまった。

 そんなリョウにラザネルは一瞬考えるような間をおいて。

「ああ、しかし……」

 と、何かを言いかける。

「何?」

 眉間にシワを寄せるリョウにラザネルは再び思い直したかのように、椅子から立ち上がり。

「いえ。彼女から直接聞いた方がいいかもしれません」

 意味ありげな台詞と意味ありげな微笑みを残して、くるりと背を向け行ってしまった。



「なんだったんだろう……」

 リョウはテーブルで頬杖をつきながらついそんな独り言をこぼした。


 そして、水の竜にスオウがつけた名前は何だったのだろう、なんて想像してみる。

 壁の外からかけられたスオウの声はもうほとんど覚えていなかった。そんな出来事の記憶がおぼろげにあるだけだ。

 水の竜に見せてもらった彼女はとても優しそうで、朗らかで、柔らかい雰囲気の人だった。

 でもきっと、優しい人。明るくて、朗らかで、場の雰囲気を和めるような、そんな人。

 そんな彼女は、生活を楽しむことを大事にして、子育てを大事にして、充実した生活を重んじていたのだろう。

 そういう人が娘に名前をつけるとしたら……きっと、素敵な名前を選んだはず。忘れ去られるなんてもったいないくらいの、宝物のような名前だったのではないか、と思う。

 

「……火の竜」

 声がしてリョウが反射的に顔をあげた。

 あれこれと想像を巡らしていたせいでかなりぼんやりしていたリョウは、声をかけられるまで近づいてくる人の気配に気づかなかったようで。

 我に返って慌てて声の方に視線を向けると。


「……?」

 知らない、女の子だ。

 腰まで伸ばしたプラチナブロンドに青い瞳の。

 すらっとした体型の、人間なら10代半ばくらいだろうか。

「私だ。水の竜だ」

 はにかむような笑顔でそんな言葉が彼女の口からこぼれた。

「……は?」

「成長、してしまった」

 そんなことを言いながら彼女は可愛らしく肩をすくめて見せ、リョウの前の席に座る。

「えええええええ!」

 何? どういうこと?

 リョウは見事に混乱に陥る。

「私は今まで体の成長を止めていたようなのだ。……多分、母さまとの時間にこだわりすぎていた心のせいだろうとラザネルは言っていた。火の竜を助けたいと強く願う思いが……母さまとの約束から私を引き離そうとする火の竜なのに、その火の竜を助けたいと願う思いが私の心を成長させて、体の成長を促したのだろうと言われた」

「そんなことって……」

 リョウは目の前の水の竜をまじまじと見つめる。

 よく見ればその表情にリョウが知っている幼い水の竜の面影がある。そして。


「……あなた、お母様によく似てきたわね」

 思わずリョウの口許になんともいえない笑みが浮かんだ。


 石の記憶で見たスオウ。

 水の竜の表情の中に彼女を見つけたような気がしたので。


「ふふ」

 リョウの言葉に水の竜が微笑む。

 それから、少し表情を引き締めて。

「……火の竜。本当に、すまなかった。私は……あの剣が持つ力の恐ろしさをきちんと理解していなかったのだ。ただ水の竜の名を受け継いだ者としてそれを身に付けて守っていくという決まり事としてしか認識していなかった。……そもそも謝って許されるようなことではないとは思うが……」

 一旦引き締められた表情は言葉が続くにつれさらに硬くなり、顔色が沈んで、あっという間にその色はなくなり、声はかき消えそうに細くなりながらも絞り出すようなものになっていく。

 あっという間に潤んでいく瞳に、リョウは息を飲み、悲痛な声をどうにか留めたいと反射的に思いながらも口を挟むタイミングがつかめずに聞き入ってしまった。


 これは、彼女の謝罪なのだ。

 自分がしたことに対する、今、出来る限りの、謝罪。

 きっと遮ってはいけないこと。

 

 たとえ、聞いているこちらの胸が締め付けられるとしても。


「……だけど……ごめんなさい……」

 水の竜の言葉は、小さく震えてはいても、しっかりとその口から絞り出された。

 それは「水の竜」という立場の者が簡単に口から出していい言葉ではないのではないかとさえ思えるような、謝罪の言葉。


「だっ……大丈夫! だってほら、あなたが傷の浄化をしてくれたお陰で私、生き長らえたのよ!」

 水の竜の言葉をリョウはついに遮った。

 段々涙声になっていく彼女の言葉はもう聞くに耐えない。


 だってあの、スオウの娘なのだ。

 きっと、スオウがこういうこともきちんと教えたのだろうとさえ思えてしまう。

 これは水の竜という権威者としての言動ではなく、相手を大事にするという、人として、心ある者としての基本的な態度。

 そうやって、教えられたことを思い出しながら、気まずさを感じながらもそれを本気で実践しているのであろう水の竜を見ていたら……そして、それを単に誰かに言われたからという理由ではなく、自分がしたことの重大さを理解した上で、謝罪しているということを想像すると、リョウの方も声が詰まってしまうくらいだ。


「ねぇ、私、スオウを知っていたのよ」

 もうこの際、話題を変えてしまおう。

 そう思ってリョウは明るい声を出した。

 同時に水の竜が顔をあげた。

 涙がこぼれる直前まで溜まった瞳は笑顔を作るために細められ、そのせいで溜まった涙が溢れた。

「うん。知ってる。ラザネルから聞いた!」

 溢れた涙を乱暴に手の甲で拭いながら水の竜が答える。

 その顔は、リョウが知っていた幼い水の竜の笑顔と同じだった。


「ねえ、水の竜。スイレン、というのはどうかしら?」

 水の竜を優しく見つめながらリョウがそんな言葉をかける。

「え?」

 きょとん、とする水の竜に。

「昔の名前は忘れるのがしきたりでも、新しい呼び名をつけちゃいけないという決まりはないでしょ? ……いけないんだったら、まぁ、仕方ないから……私たちの間だけでの呼び名ってことで。……駄目?」


 スイレンという花が東にあった。

 水に浮かぶ白い可憐な花だ。

 輝くような純白の、一点の汚れもない、凛とした花だ。

 それはなんとなく水の竜のイメージに合うような気がした。


 水の竜が一瞬間をおいてから、ぱっと顔を輝かせた。

「いいのっ? 私に名前をくれるのっ?」

 その反応にリョウは内心ほっとした。名前に関するしきたりと、その文化にはそこで生きる者の思いが息づいていたりする。

 だから安易なことはできないと思ったのだが。

 どうしても、彼女にはスオウが、母親が、したような方法で愛情を注いであげたかったのだ。

「気に入ってもらえるなら」

 微笑みながらリョウが答える。

「じゃあ……じゃあ、私も火の竜のこと、リョウって呼んでいいっ?」

 頬を赤く染めながら自分を見つめてくる水の竜に、リョウは満面の笑みで頷いて見せる。

 そして。


 次の瞬間、水の竜の瞳は一気に涙を溢れさせた。

「……リョウが死んでしまわなくてよかった……!」

「わぁ!」

 泣かなくてもいいのに!

 そんな言葉を飲み込んでリョウが腕を伸ばしてテーブルの上の彼女の両手を握りしめる。

「大丈夫よ。私は死んだりしないから!」

 そう語りかけるリョウに水の竜はうん、うん、と頷く。

「だからね。ちゃんと生きて帰ってくるね。そしたらまた会おうね」


 この時点で。

 リョウはなんとなく心に決めていたのだ。

 この子を連れていってはいけない。と。

 どうにか自分の力で目的を遂げてやる。グウィンの風の力と、自分の火の力、それに運良く土の力があればどうにかならないだろうか、と。


 そんな思いを込めて言った言葉に。

「え! それは違うぞ!」

 思わぬ声が上がった。

 涙で頬を濡らした水の竜が不意に顔をあげたのだ。その目は力を込めるようにリョウをまっすぐに見据えている。

「違うぞ! 私も行くんだから! リョウと一緒に戦う! この力が役に立つなら、リョウが危ない目に遭わなくていいように役に立つなら、私が一緒に行って守ってやるから!」

「え……」

 リョウは次の言葉を失った。

 そして、慌てて言葉を繋ぐ。

「だ、駄目よ! 水の竜……あなた、ここにいて水の部族を守らなきゃ……」

「ス、イ、レ、ン、だ!」

 リョウは、にやり、と笑みを作ったスイレンに睨み付けられ、今度こそ絶句する。

「水の部族の武力を甘く見るなよ? 私なんかいなくったって万が一の時には彼らがちゃんとここは守ってくれる。それに……今まで私が子供だったせいでここでの仕事は全部ラザネルがやっているし。だからリョウが必要としてくれるなら私はどこでもついていける!」

 そう言うとスイレンは勝ち誇ったような笑顔を作った。



 部屋に戻るとまず、成長したスイレンを見たグウィンが目を丸くして、そこから説明が始まり、さらに彼女の同行に関する同意が得られたこともリョウが説明する。


「そういうわけだ」

 得意気に胸を張るスイレンと、そんな彼女をつい笑顔で見守ってしまうリョウを前にグウィンが軽く吹き出す。

「なんだ……! リョウ、お前、ほんとにやるときゃやるな……! いや、さすがだ……!」

「……なによ、その反応……」

 ちょっと腑に落ちない、という気がしてリョウは不満の声をあげるが、まぁ、ここに来た本来の目的は遂げられたのだ。

 スイレンと目を合わせると、二人同時ににやり、と笑いを浮かべてしまう。

 スイレンもなんだか状況を楽しんでいるようだ。

「あ! でも!」

 スイレンがグウィンを見つめて声をあげる。リョウの腕に自分の腕を絡めながら。

「私はその髭もじゃがリョウとくっつくのは認めないから! リョウは私のだし、私が守るからな!」

 その言葉にリョウとグウィンが一瞬言葉を失い。

 次の瞬間グウィンは本格的に笑い出す。そして、笑いながらスイレンに答える。

「ああ、お嬢様にはかなわん! 好きにしろ」

 リョウはなんだか照れ臭くて、思わずにやけてしまう。「私が守る」なんて誰かから言われるとは思わなかった。


 本気でこの子に守ってもらおうなんて思わないけど。

 むしろ守ってあげなきゃいけないと思うのだけど。

 そう思える人が増えていくこの感覚がたまらなく、いとおしい、と思う。

 大切な、スイレン。ラザネルやスオウやオーガ。グウィンもそうだし、都市に置いてきた人たちも。……皆を守りたい。

 守るべき人が増えるというのは、戦士としては不利な枷になりそうなものだけど、やっぱり、私にはそうは思えない。

 こんな人たちがいるからこそ、負けられないし、やりとげる前に死ぬわけにもいかない。

 戦いにいくというのに、なぜか刹那的な気分にはならない。体の底の方から沸々と闘志がわいてくるような気さえする。


 絶対に、成功させてみせる……!

 リョウは静かに胸の内でそう誓った。




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