ハヤトの想い
リョウにとってシンとの見張りの時間は結構楽しい。
「俺、本当は医者になりたかったんですよね」
見張りという仕事上、篝火の外の闇に目を凝らすことを怠らないように細心の注意を払いながらシンがそんな話をする。
「医者……? またずいぶんかけ離れた仕事に就いたわね」
唐突に始まったシンの自分史語りに、興味津々なリョウはくすくす笑いながら聞き返す。
「そうなんです。俺、三年前まで東の森の向こうにある小さな村に住んでいて、沢山勉強して医者になって皆の命を救う仕事をしたいって思っていたんですけど、レンブラント隊長に会っちゃったんですよー!」
おや、こんなところに隊長が出てくるのか。
と、リョウは目を丸くする。
「隊長はたぶん、仕事で、森を抜けて東の都市にでも行くところだったんだと思いますけど、ちょうど俺が村はずれにいた時に『敵』に出くわして。……ああ、今でいうリガトルですね。友達何人かでいたんですが、もう駄目だって思ったときにあの銀の矢で助けられました。感動したなぁ……!」
なるほど、なんだかすごく分かりやすい。
「それで騎士になることにしたの?」
「はい!」
ほんとに、分かりやすい。
あまりの微笑ましさに、笑いさえ漏れる。
「騎士だって人の命を救ってるんですよね。しかも今は騎士の力が必要な時代なんです。だから早く騎士の勉強をして一人前になろうと頑張りました!」
「え……あれ? ……三年前までは医学の勉強をしていたのよね?」
偉いなぁ……。と思いながら聞いていたが、ふとなんだか計算が合わないような気がしてリョウが聞き返す。
「そうですよ。だから騎士になろうとした時に医学の本は全部捨てちゃいましたけど。懐かしいなぁ。騎士の勉強を本格的に始めてからもう二年経つんですよね。……本当はすぐに始めたかったんですけど最初は親に止められてすぐにはできなかったんです」
「ええ! 二年?」
「はい!」
ちょっと待って。
この子、なんのためらいもなく、非常ににこやかに、「はい!」って言った?
リョウは軽く頭を抱えた。
三級騎士になるために若者たちが勉学に励むのは大体、十代半ばくらいから。というのが一般的だったはず。で、色々身に付いて三級に合格するのに最低でも五年は掛かる。……はず。
なのにシンはたった二年で二級になっているの? しかもそれ以前は医学を学んでいたわけだから騎士としての下積みがあるわけでもないだろう。そして、単なる二級どころかこの場所での勤務に当たるということはすでに準一級まで上り詰めているということで……。
「ずいぶん、早い、わよね……?」
気のせいではないことを、何となく本人に確認してみる。
「あ、そうですね。よく言われます。……でも医学の勉強ってすごく大変なんですよ! それをやっていたことを考えたら、騎士の勉強は体も動かせるし、体を動かしながらだと人間記憶能力が上がりますからね。結構あっという間に色々覚えられるんですよ」
「うわ……すごい、ね」
全く何の悪意も無い、そこいらじゅうの医学生や、一級目指す騎士たちを敵に回しそうな台詞に、ついにリョウの笑顔が凍りついた。
頭のいい人が本気で騎士を目指すと学習の仕方から違っていたりするのかしら。そしてそのまま成功しちゃうところがすごい。
これは……もしかしたら初日に私に向けられていると思った準一級の騎士たちからの冷ややかな態度って、本当はシンに対する嫉妬、だったんじゃないかしら。
この調子で「ちょっとイメージトレーニングしたら一級の試験パスしちゃいました!」とかいう日も近いんじゃないかというシンを見ながら、リョウは微笑ましくもあり、それでいいのかという思いもあり、複雑だった。
ここ数日でシンとの会話が増え、こんな隊員がいるんだ、などと感心する度に。
リョウはまた、少し温かい気持ちを味わっていた。
やっていることは平和的なことではなく、むしろ危機的な状況の中での大変な仕事。
でも不思議と、そういう仕事に携わる仲間同士の絆は日々強くなっていくものなのかもしれない。
初日に冷ややかな態度を向けてきた隊員たちも最近はそうでもなくなってきている。月の終わりには笑って挨拶するくらいにはなっているかもしれない。なんて思う。
「さて、と。……ハナ、どうしているかな」
リョウがそんなことを呟きながら駐屯所の門をくぐる。
「お疲れ様です」
なんて挨拶すると、門番役の三級騎士も挨拶を返してくれる。
午後の早い時間。
朝帰ってきて昼まで寝て、でもそろそろ動き出そうかな、と思いながらのんびり歩いてきたところ。
リョウの見張りの仕事が始まってから、今のところは何事も起こっていない。先月はリガトルが現れた、と他の駐屯所が受け持つエリアで何度か騒ぎがあったらしいが騎士や兵士に負傷者もなく無事だったらしい。
今日は天気もいいからハナを連れて少し外でゆっくりしてから勤務に入ろうかな、なんて思い付いて早めに厩舎に行くことにしたのだ。
門から入ると、ひらけた中庭があり三方を囲むように建物がある。正面にあるのが隊長や指揮官が事務的な仕事をする部屋や、資料室、会議室、上級騎士が使う部屋等が入っている事務棟。左手には三級騎士が雑務を行うために必要な部屋や訓練生のための必要を賄うための部屋がある下級騎士の棟。右手にあるのが医務室をメインとした医務室の棟。
中庭は広くとってあり、訓練生をはじめここに所属する騎士たちが剣の稽古をしたり教えてもらったりするために、わりと自由に使われている。厩舎があるのは正面の事務棟のさらに裏手だ。
中庭を突っ切って右手にある医務室の棟と正面の事務棟の間を通るのが近道なのでリョウはためらわずに真っ直ぐそちらに向かう。
中庭では剣の稽古が行われており、訓練生や自主的にトレーニングをしている三級騎士が使う、刃の付いていない練習用の剣がぶつかり合う音が賑やかに聞こえている。
中庭にはぐるりと塀が設けられており、騎士たちの剣が間違って建物の方に飛んでいっても安全なようになっている。なので、建物の方に行くには塀についている扉を開ける必要があり。
「……?」
リョウが一瞬固まった。
扉を開けた視線の先に、うずくまるようにして座っている人がいるので。
正確には事務棟の出入り口。
それぞれの棟は長い廊下が真ん中を通っていて廊下の突き当たりが出入り口になっている。その出入り口のところに黒に近い茶色の髪を後ろに束ねた男が一人座り込んでいる。
体はすらりとしているが、戦士らしくしっかり鍛えられた印象の筋肉質な体格だ。
普段から立ち居振舞いがやたらとキレイに見えるのは主に剣術で磨いたらしい重心の取り方が非常に良いせいだろうか、とも思える第七部隊隊長のハヤト。
そして、リョウが固まった理由は。
その彼がなんだかただならぬ雰囲気だったから。
なにかにひどく落ち込んでいるかのように頭を垂れ、がしがしとその頭をかきむしったかと思うとその手で作った握りこぶしを、座り込んだ隣にある柱に乱暴に叩きつけたのだ。
柱は石で出来ている。表面は決して滑らかではない。
……あれ、恐らく傷になってるんじゃないかな。
そう思ってリョウが顔をしかめた瞬間。
「……ちょっと、ハヤト! 何してるの!」
リョウは反射的に駆け出した。
一度叩きつけたこぶしをハヤトは柱から引き離したかと思うと、再び叩きつけようとしたので。
駆け寄ると、止めるのには間に合わなかった彼のこぶしが柱に血のあとをつけている。
「やめなさいってば!」
リョウが無理矢理ハヤトの腕をつかむと、柱に叩きつけられていた彼の手の小指側から手首にかけてが傷だらけになっている。
「え……あ、リョウ?」
虚ろな瞳が向けられてリョウは戸惑う。
何があったんだろう。
というより、この人のこんな顔、初めて見た。
黒い瞳はいつも自信満々で、どちらかというと他の人を上から目線で見ていたりするくらいの皮肉っぽい雰囲気さえあったはず。話し方にもどちらかというと感情がこもらず抑揚の無い、悪く言えばちょっと人をバカにしたようなものである事さえあったので、リョウは最初は彼が苦手だったりもした。
話してみると内面は意外にそう悪い人でもなく、実は人を気遣うのが上手で感情が表れるような話し方をあえてしないようにしているのかな、なんて思えるので最近は会えば普通に冗談を言い合うような仲になっていた。
それでも、気の強さや自信に満ちた瞳の輝きは彼の持ち味で、こんなに虚ろな目をした彼をリョウは知らない。
「そんなことするから血が出てるじゃない!」
とにかく。
この手をどうにかしなくては。
隣の棟の医務室に連れていった方が良いのかとも思ったが、この様子だと彼を立ち上がらせるのも一苦労だろう。
完全に脱力しきったように座り込んでいる彼はそう簡単には動かせそうにない。
とりあえず、彼の前に膝をついてハンカチを取り出して巻き付ける。
物凄い力で叩きつけられていたけど……骨は大丈夫だろうか……。なんて少しばかり心配になりながら。
「何か、あったの?」
ハンカチが解けないようにしっかり結んでから、うつむいたままその手を見ているハヤトの顔を覗き込むと。
「……ああ、リョウか……」
「……はい?」
……なんか、とんでもないことが起こっているかもしれない! この人、今、私を二回確認したよね?
ハヤトの前に膝をついたままリョウが硬直した。
そして、信じられないことに、いつも自信に溢れていたハヤトの目にはうっすら涙がにじんでいるようにも見えるのだ。
ハヤトが深いため息をついた。
奥歯を噛み締めたままなので、ため息、というより深く息を吐いた、という感じではあるが、その音が微かに震えているので泣きそうなのを堪えているようにも感じられる。
リョウはいつまでも硬直しているわけにはいかず、かといってまさかこのまま立ち去るわけにもいかないので、ハヤトの隣、出入り口の階段に腰掛けてみる。
「……今日は、会議だったの……?」
無言でいるのも居心地が悪く、リョウがそっと尋ねる。
ここのところ、指揮官は外での会議のために出掛けたり、帰ってくれば隊長を集めてここで会議をしたりと駐屯所は忙しい様子だった。
「ああ、会議……そうだね」
ぽつりと、まるで今思い出したかのようにハヤトが呟く。
「何かあったの……?」
隊長たちだけで集まる会議でのことなら、一隊員が聞くべきでない内容のこともある。
でも、ハヤトの様子が心配でついとっさにそう聞いてしまった。
「……ああ……」
どことなく心ここに在らずなハヤトの生返事にリョウは眉をしかめた。
こういう彼に免疫がないのと、どこまで話に付き合っていいかの境界線が分からないので非常に居心地が悪いのだ。
「……リョウは……守りたいものがあればいくらでも精進して強くなるんだよね?」
「え……あ、うん。そうね」
リョウがつい反射的に肯定の返事を返す。
そういえばそんなことを言ったことがある。そして、それは決して嘘ではない。
「それってさ……例えば、その守るべき対象が……」
虚ろな目のまま呟くように言葉を紡いだハヤトがそこで言葉を切った。
そして、思い直したように一度大きくため息をついて不意に背筋を伸ばす。
「ああ……いや、リョウは知る必要の無いことだ……」
あ、やっぱり。
リョウはリョウでなんとなくその言葉に納得した。
隊員に聞かせる内容ではない方の会議内容。
それなら詮索してはいけない、とハヤトの顔を覗き込んでいた姿勢をもとに戻してみて。
……それにしても、今の話し方はちょっと気になる……。
「……やっぱり君って、ちゃんとわきまえてるんだね」
リョウが前方に向けた視線をハヤトの方に戻す。
なぜなら、その声の調子がいつものものに戻ったから。
そして、目が合ったハヤトはいつも通りのちょっと上から目線の生意気そうな目つきに戻っていた。なので。
「まぁ、ね。一隊員が隊長様の事情に首を突っ込む訳にはいきませんから」
と、言って立ち上がる。
うん。これなら大丈夫だろう。
「あ、リョウ」
立ち上がったリョウにハヤトが声をかける。なので肩越しにリョウが振り返ると。
「今、暇?」
座り込んだままそう訊ねてくるハヤトに、リョウはちょっと考えてから。
「ええ、まぁ。私の見張り、夜からなんで」
ハナとのお出掛けは明日でも良いかな、なんて思いながら。
と、ハヤトが口元に笑みを作る。
「じゃあ、ちょっと剣の相手をしてくれない?」
「いいけど、ここで?」
塀の中では訓練生や三級騎士が結構場所を使っていたし……隊長である人と二級騎士が剣を交えていたら目立つんじゃないかな……なんて思いながらリョウが確認する。
「ああ、いや」
ハヤトが立ち上がり、歩き出したのでリョウはそのまま塀の所までついていく。
ハヤトは扉を開けるが中に入る様子はなく塀の内側に立て掛けてあった練習用の剣を二本取ると再び扉を閉めてこちらに向き直る。
「塀の中じゃなくてこっちでいいでしょ。リョウの腕なら間違っても建物の窓に剣が飛んでいくなんてこともないだろうし」
そう言うとにやっと笑う。
なるほど。
塀と建物の間は馬を連れて歩いたりもするので決して狭くはない。人もいないし気を付けてやれば危険はないだろう。
頷くリョウに、ハヤトが手にした剣のうちのひとつを放ってよこす。
「じゃ、いくよ」
そんな声と共に、剣を握り直したかどうかのリョウにハヤトが待ったなしでかかってきた。
「え! うわ……ちょっと!」
目の前でなぎ払われる剣をとっさに避けながら、リョウはちょっと慌てるが、そこは一瞬で持ち直し、間合いをとる。
が。
「……!」
間合いをとったつもりがあっという間に詰め寄られて剣と剣がぶつかる。
……この人、ちょっと凄いかも。
息をつく間もなく攻め込んでくる勢いにリョウは少し焦った。
このままいくと後ろの事務棟の壁にぶつかるかもしれない。なので。
ためらいなく真っ直ぐ切り込んでくるハヤトの剣を微妙な力加減で払って力を横に流し、ほんの少しハヤトがバランスを崩した隙に後ろに回り込む。これで立ち位置が逆になった。
「……へえ。やっぱり動きが早いんだね。でもそれ、次は使えないよ」
そう言うとハヤトは剣を構え直す。
「……そうね。力でかなうとも思えないし。……隊長さんを打ち負かす気はないですから」
リョウ、ちょっと口元に不敵な笑みを浮かべてみながらそんな言葉を返す。
さすが隊長、ってだけはある。
次は使えない、っていうのはあながち嘘じゃなさそう。たぶん同じように剣を払っても次はバランスなんか崩してはくれず、後ろに回り込む前にこちらの剣が叩き落とされるだろう。それに腕の力だって鍛え上げている男の人の力には物理的には敵わない。つばぜり合いになったら腕の力だけでなく体重差で押し負けそうだ。
「はは。……ご謙遜を」
そういいながら再び切り込んでくるハヤトをうまくかわしながらリョウが尋ねる。
「なんでいきなり剣の相手を?」
「なんで、って……!」
お互いにのんきに話しながらの手合わせなのだからある意味、のどかな光景だ。
「まあ、気晴らし、かな!」
でも剣と剣がぶつかり合う音はかなり本気度が高い。
「……ふーん。気晴らし、ねぇ……」
リョウは主にハヤトの剣をかわすことに意識を集中する。
ハヤトの剣筋は見ていると結構分かりやすい。
……あれ? ……これってむしろおかしいかもしれない。これだけ腕があるのに剣筋が分かりやすいって……本気じゃないのか、他のことでも考えていて集中していないのか。で、さっきのことを考えると後者が有力。
「リョウは何のために剣を持つの?」
「そうね。……昔は単に生きるためだったけど……今は」
剣がちょうど切り結んだ形になり、ハヤトと目が合う。
「今は、守りたいものがあるから、かな」
ついでに笑顔も作ってみて。で、つばぜり合いになる前にハヤトの剣を払う。
「ふーん……そっか。じゃあ、さ」
性懲りもなく勢いをつけて切り込んで来ながらハヤトは言葉を続ける。
「もし、守りたいものを守りきれなかったら、どうする?」
「へ?」
意外な一言にリョウの動きが一瞬止まった。
で。
その一瞬で。
甲高い音がして、リョウの剣が弾き落とされた。
「……痛っ!」
うっかり我を忘れたせいでリョウの右手に剣を弾かれた衝撃が走った。
さらに。
「……!」
剣を落としたので勝負はついたはずなのに、ハヤトの動きが止まらない。
止まらずにリョウの方に突き進んで来るので、リョウは思わず後ずさり、一瞬、腰にある剣に手が伸びそうになるが、即座に「それは駄目だ」と、思い直してまだ手首に痛みの残る右手を自分の頭をかばうように顔の前にあげた。
「詰めが甘いな」
次の瞬間。
リョウの背中は塀に当たり、かざした右手はハヤトの左手に捕らえられ、刃の付いていない剣がリョウの喉元に当てられていた。
「……だって! 変なこと聞くから!」
リョウが食い下がる。
不覚、だ……!
まさかこうなるまで気づかなかったとは!
よく見たらこの人、結構真剣な目をしている。ちゃんと計算してかかってきていたのかもしれない。集中していないなんて思い過ごしだった……!
悔しさで歯を食いしばるリョウにハヤトは。
「変なことじゃないよ。十分あり得る話だろ? 一人で頑張ったって出来ることには限りがある」
体勢は全く変わらないままである。
……この人は何を言いたいのだろう。
リョウはもはや軽く頭が混乱し始めている。
私が前回、一人で戦おうとしたことを言っている……? でもあれはちゃんと成功したし。……まぁ多少の怪我人は出たとはいえ騎士に死者は出なかったはず。
しかも、こんな体勢で凄まれる意味がわからない。
「……それ、なんの話?」
頭が混乱するので、リョウはそのまま訊いてみる。
ハヤトは真剣な目をしたままだ。
「今後、戦いが激しくなったら独りで戦うのは危険だってことだよ」
「あ、ああ。うん」
隊長として騎士の心配をしてくれてるって事なのかな? 中途半端な返事をしながらリョウはそう思う。
「だからね」
ハヤトの口調がほんの少し変わった。
「俺の女にならない?」
「……は?」
……なに?
……いま、なんて?
何かの聞き間違い、だろうか。
今の、そもそもがこの体勢で聞くべきではない、もっともこの体勢に似つかわしくない台詞ではなかったか?
思わず眉間に深いしわを寄せたリョウが目の前の黒い瞳を睨み付けるように見返すと、彼の瞳は意外に真剣そのものだ。
「俺のそばにいれば、もしもの時はちゃんと守ってあげられるよ。もし君が大切なものをなくしてしまってもちゃんと立ち上がれるように、俺が支えてあげるし守ってあげる」
……一体、なんの話だ? 私が何をなくすって……?
リョウがさらに眉をしかめる。
確かに、今は守りたいものがあって戦っている。それはここで関わるようになった大事な人たち。前回の戦いでは町をひとつ守ったと言っても過言ではないだろう。
他人に関わることから逃げようと思った時期があったことも確かだけど、今は。
大切だと思える人たちがいて、自分にそういう人がいるということは他の人にも同じように繋がっている人がいるということがわかるから。その繋がりを壊すようなことはしたくない。
だから自分にできることを惜しまずに戦おうと思ったのだ。
で、その私が何を無くすって……?
「だって、言っとくけど私、強いわよ?」
「へえ。どの口が言うの? それ」
意味がわからない、という顔のまま言い返すリョウに、ハヤトがその喉元の位置にある剣を、さらにぐいと押し付ける。
ハヤトの口元には笑みが作られており、その目は真っ直ぐにリョウを見据えている。
「……っ! ちょっ……と!」
リョウが苦しげに声をあげた。
刃なんか付いてなくたって金属の板だ。痛いし、苦しいんですけど!
しかも右手首はしっかり捕まれたまま、後ろの塀に押し付けられてびくともしない。左手で剣の柄を押し戻そうとしているのだがこれもまた、びくともしない。
ハヤトの剣を握った右手と、リョウの右手首をつかんだ左手には少しずつ重心がかけられて、同時にリョウの顔に息がかかるくらいの距離にハヤトの顔が近づく。
「自力でどけてみる? ……俺の女になるって言うならどけてあげるけど」
少し潜めた声で、ハヤトが囁いた。
……だからどうしてそうなるんだ……っ!
ここに来て、なんだかちょっと、リョウは腹がたってきた。
……なんなのよ!
なんだか落ち込んでいたみたいだから可哀想にと思って剣の相手をしてあげていたのに、いきなり訳のわからないことを言い出してきて、挙げ句の果てに、この体勢で「俺の女になれ」ですってぇ?
落ち込んでるのかイライラしてるのか知らないけど、言っていいことと悪いことがある……!
「……本気で、どけてもいいの……?」
リョウが視線を一度落としてから再びハヤトと目を合わせる、と。
一瞬、ハヤトの表情に戸惑いの色が浮かんだ。
なぜなら、目をあげたリョウの瞳の奥が、明らかにいつもと違う、炎のような赤色に変わっていたから。
こんな色の瞳を間近で見るのは初めての経験だろう。
……はっきりいってそう気持ちのいい色合いではないことくらいリョウだってよく知っている。下手したら嫌悪や恐怖を植え付けるような色の変化だ。
それでも、今ここで彼を怯ませるにはそれしか思い付かなかった。
……一応、ちょっとは加減するけどね。
うん、この程度ならぎょっとするほど赤くは見えない……筈なんだけど。
そんなことを心の中でこっそり確認しながらも、苛立ち紛れに瞳に力を込めたまま口許を歪めて、ハヤトを睨み付ける。
「……ハヤト。その剣と手を離しなさい」
リョウが目の前の理解不可能な行動を取り続けるハヤトに集中していると、意外な声がかけられた。
「……げ。レン、まだいたの?」
その声を合図にしたようにハヤトがあっさりリョウから離れ……その反動で、リョウは自分の喉元を押さえて咳き込む。
見ればハヤトの左肩には背後から抜き身の剣が乗せられており、その後ろには剣の持ち主であるレンブラントの怒りに満ちた目が光っている。
「いくら相手が二級騎士だからって、力にものを言わせるなんて最低ですよ。恥を知りなさい」
「……そもそもリョウを二級騎士扱いなんて誰もしないだろ」
ハヤトは邪魔をするな、とでも言いたげな目をレンブラントに向けるがレンブラントの無言の圧力に気迫負けしたようで、軽くため息をついた。
「リョウ、俺は本気だからね。考えといて」
そう言ってハヤトはくるりと背を向け、リョウの手から落とした剣を拾いあげると、いつもと変わることのないゆっくりした歩調で立ち去っていく。
それを見送りながらレンブラントはため息と共に剣を鞘に納めた。
で。
立ち去るハヤトを見送ったリョウは。
ずる。
塀に寄りかかったまま、膝の力が抜けた。
「……リョウ!」
とっさにレンブラントが駆け寄りリョウの腕をつかんだのだが、リョウはといえば、いかんせん膝に力が入らないのでそのままバランスが崩れてレンブラントの胸に抱き止められるような体勢となり。
あれ……?
私、動揺していたりする?
この私が……? あのくらいのことで?
そんな考えがリョウの頭をぐるぐる回る。
なにしろ、自分でも驚いたことに体が動かないし、意に反して震えていたりするのだ。
「大丈夫、ですか?」
完全に地面に両膝をついてしまったリョウを、片膝をついた体勢でかろうじて抱き止めたレンブラントは、それ以上リョウがくずおれるのを防ぐために背中に左腕を回してしっかり支えながら、右手をリョウの頬に添えて、上を向かせ顔を覗き込んでくるので。
「あ……はい。大丈夫、です」
リョウはそう言うとうっかり握りしめていたレンブラントの服の胸元を離して立ち上がろうとするが。
「……あれ……?」
うまく立ち上がれずに、かくん、と膝がおれる。
「す、すみません……! 足に力が入らない、みたいで……どうしたんだろ私……疲れてるのかな……?」
必死で弁解しようとするのだが、声には力がこもらず、やっと聞き取れるくらいの声しか出ない。
ふっと、レンブラントが柔らかい笑みをこぼした。
「勤務時間まで少し休むといいですよ。医務室、空いてましたから」
「え? ……あ、いや、そこまでしなくても……! ……っ! え、ちょっと! 隊長っ?」
レンブラントが言うなり有無を言わさずリョウを抱き上げて歩き出したので、リョウの方が慌てて抗議の声を上げてしまった。
とはいえその声はかなり弱々しく、つい一度離したレンブラントの服をまるでしがみつくかのようにもう一度握りしめてしまっているのだが……。