心の回復
冷めてしまわないうちにラザネルのところに持っていかなければ、と水の竜が駆け出そうとするのをリョウは危ないからとたしなめる。
水の竜がそれに応えるように歩く速度を落とすも、それでも早く行かなければと口を尖らせる。
そんなやり取りをしながら進む廊下の前方から、先程の食事の後片付けをしていると思われる女が数人ワゴンを押しながら近付いてきた。
……ああ、しまった。もう食事は終わってしまったのか。
と、リョウが察すると同時に女たちは廊下の脇により、リョウの前を行く水の竜に深々と頭を下げる。
「おい、お前。ラザネルはどこに行った?」
先頭にいる女に、水の竜が声をかける。
「はい、風の竜様を三階の中庭へお連れになられました」
「そうか」
なんの抑揚もなく帰ってきた返答に水の竜も、なんの感情も込めずに答えそのまま歩き出そうとする。
「あ、あのっ……!」
そのままリョウに軽く会釈をして仕事に戻ろうとしたその女にリョウが思わず声をかける。
「もしかして、私たちの部屋にお茶や食事を運んでくださったのって皆さんですか?」
なんとなくそんな気がした。
こんな宮殿で、そういう接客紛いの仕事を担当する者がそう沢山いるとは思えない。そもそも宮殿の中を歩き回っていてもすれ違う人はそう多くはないのだ。
だとしたら、一度も顔を見せていないのも失礼だからこの際だし挨拶くらいはしなければ、とリョウは思ったのだが。
とたんに、何を勘違いしたのかその女は一気に表情を凍り付かせた。後ろに控えている他の女たちも一気に青ざめてすがるような目を向けてくる。
「は、はい! 左様でございます。何か不手際がございましたでしょうか?何か失礼なことでも……」
「え……? わー! 違う違う!」
リョウが思わず目を丸くして首を横に振る。
「……は?」
腑に落ちない、という顔の女にリョウは微笑みかけてみながら。
「お礼を言いたかったの。なんだか私、すれ違ってしまって折角用意してもらってたり片付けてもらったりしているのにお礼も言えず、失礼しちゃっていたから」
「と、とんでもないことでございます! あなた様は水の竜様の大切なお客様であり、火の部族の頭でもあるお方。私たちにわざわざ注意を向けていただく必要はございません!」
必死で返答する先頭の女の後ろで、他の女たちが安堵の表情を浮かべる。
「いや、そんな。そんな大層な扱いを受けるような者じゃないですよ? それに……してもらった親切に感謝するのは当たり前のことでしょ?」
そう言うとリョウは水の竜の方に目をやる。
水の竜、先程からリョウたちのこのやり取りを興味深そうに眺めており……もしかしたら、今まで宮殿の中で働く人たちを個人的に関心の対象にしてこなかったのではないだろうか。今初めて、意思と感情を持つ個人として認識したかのような顔をしている。
なので。
「ほら、水の竜。あなたも日頃お世話になっているのでしょう?」
リョウはそう言うとパンケーキを持っていない方の手で小さな背中をそっと押す。
「あ、ああ……いつもありがとう」
水の竜はそう言うとぽっと頬を赤らめた。
やだ! この素直さにこの表情! 可愛いったら!
リョウは思わず隣でにやけてしまい、水の竜の方に顔を向けたまま、お礼を言われた女たちの方にこっそり視線だけ上げてみる。
……やっぱり!
声を出せないまま、なんとも言えない表情の女たち。後ろに控えている者たちなど口元を両手で覆って目を輝かせている。明らかに可愛いものを見る目だ。
「ちゃんとお礼を言わなきゃだめよ?」
なんてリョウがたしなめると水の竜は頬を赤らめたまま頷き。
「そう、だったな。悪かった……お前、名前はなんという?」
先頭の女に声をかける。
……名前すら知らなかったのか……!
リョウは軽く唖然としてしまうのだが、女の方は気分を害した様子を見せるどころか嬉々とした表情で。
「ああ! 水の竜様が頭を下げるなんて! ……私は世話役の長に任じられておりますオーガと申します」
なんて頭を下げる。
「そうか、オーガ。私たちはラザネルのところに行ってくる。火の竜がこのパンケーキを焼いてくれたのだ。今度皆の分も作ってやるぞ」
そう言うと、水の竜はほんの少し名残惜しそうに彼女たちから視線を前方に移して歩き出す。
どうやら彼女たちから受けた視線に心地よいものを感じたようだ。
「あ、あの。火の竜様」
リョウがそんな水の竜について歩き出そうとするとおずおずと呼び止める声。リョウが振り向くと。
「先程、食卓の食器は全て下げてしまいました。よろしかったらこちらをお持ちください」
オーガはそう言うとワゴンの上にあった新しいフォークとナイフを二組、こちらもまた新しい布巾に包んで差し出す。
リョウは自分達がパンケーキの乗った皿だけを持って歩いていたことに気づき「ありがとう」と軽く頭を下げる。
今度は先程のような機械的なお辞儀ではなくて深々と心のこもったお辞儀で送り出されながら。
リョウは絡まった糸がほどけていくような感覚を覚えていた。
「火の竜は母さまみたいだな」
水の竜が前を歩きながら振り向きもせずそんな声をあげる。
声の調子はいたって楽しそう。
「そう? 私には母親なんていないからよくわからないけど……きっとあなたのお母様はあなたを大切に思って色々教えてくれたんじゃない?……うわっと! 何っ?」
目の前を歩いていた水の竜が急に立ち止まって振り向いたのでリョウは勢いで手に持っていた皿を放り出しそうになり、辛うじて体勢を持ち直す。
「いなかった……のか?」
「え?……ああ、そうよ。私が生まれてすぐに死んじゃったらしくて私は両親の顔も知らないの」
今となってはどうしようもないこと。それにその事自体になんの感情もわいてこない。なのでリョウはにっこり笑って見せる。
「他に家族はいるのか?」
「んー……いないわ」
「そう……なのか」
水の竜はそう呟くと何かを考えるようにくるりと背を向けて再び歩き出す。今度は少しゆっくりと。
そして。
「母さまが近くにいないだけで怒ったりしている私は……本当はただの我が儘な子供なのだな」
ぽつり、と呟く。
リョウは思わず微笑んでしまい。
「でも素敵なお母様だもの。一緒にいたいと思うのは当然のことだと思うわよ。それに……今、一緒にいなくてもあなたのお母様はあなたの心の中にいろんなものを植え付けてくださったんじゃない?」
「心の中に……?」
いつの間にか水の竜はリョウの前を歩くのではなく隣を歩いており、リョウの言葉を聞き逃すまいと何度も顔を覗き込んでくる。
「そう……たとえば誰かに感謝することの大切さとか、親切にすることの大切さとか。誰かを愛することとか」
その目をまともに見ながらリョウが答える。
「ああ……そうだな……」
水の竜が自分の手元に視線を落としながら小さく呟く。
「愛する人と共に過ごすことの大切さも、愛する人を守るために強くなることも……色々教わった……どうして忘れていたのだろう」
リョウはしばらく無言で歩く水の竜の歩調に合わせているうちに先程聞いた「三階の中庭」というのが、自分が昨日案内された水の竜の「取って置きの場所」であることに気づく。




