親心
男が一人、部屋で仕事に追われている。
男の名前はグリフィス、という。
年の頃は、初老に差し掛かるかどうか。白髪がかなり目立ってきた髪は、元は真っ黒だったと思われる。
歳のせいか黒い瞳の目尻は少々下がりぎみで、それでも立場上、柔らかい印象ばかりを人に与えないようにとあえて髭を生やしていたりする。
若い頃は騎士隊に所属していて隊長を勤めていた時期やその後、指揮官を勤めた時期もあり、その頃は長くしていた髪もこの仕事に就くようになってからはきっちり短く整えるようになって、もうそれがすっかり板についた。
仕事といっても昔のように体を張るような仕事ではない。事務仕事や会議が主だ。現に今も山程の書類に囲まれてそれらすべてを把握し、必要な調整を加えるものと、認可を下せるものとを区別しながら認証印を押すことに専念している。
ここ最近、会議続きなので仕方がないのだが、あらゆる部署からの書類が元老院の手を経てここ、都市の司である彼のところに集まるので最終判断を下さねばならないのだ。
会議続きというのは、南方のヴァニタスに関する軍事協定のための各地方での会議である。
近隣都市の中で、気付けばここ西の都市は最も軍の組織がしっかりした都市として名が通るようになっていた。
昔、それこそ大昔は、世襲制で王族が都市を支配していたが、そのやり方では都市全体の安全に配慮が行き届かないことが問題視され、まずは王族による支配が廃止された。さらに、彼の代で初めて指揮官などという軍関係者が司になるという新たな試みさえ始まった。
もともと民の安全のために築かれたた都市であることを考えると、そういう立場の者が都市の最高責任者になるというのは理にかなっており、それにしたがって元老院や他の役職の者も再組織され、軍自体は体裁重視ではなく機能重視の実用的な組織になったのだ。
そして、柔軟性が優先されるようになったのは彼の性格の影響もある。もともと人を観察するのが好きだった性格上グリフィスは人の上に立つことが適任だったらしく適材適所をなんのためらいもなく実行できたのだ。彼の提案はほぼ確実に元老院の賛同を得るものとなり、体制そのものが新しくなるのに時間はそう掛からなかった。
さらにはグリフィス自身、骨身を惜しまぬ性格であったこともあり自ら他の者がやりたがらない仕事を引き受けたりもするので彼のやり方に公に異議を唱える者も実質上いなかったのだ。
例えば、時間外の労働。
本来、都市の司ともなれば仕事は他の者に割り振っても良さそうなもの。でも、定時で仕事を終える各部署に代わって「自宅で働いているようなものですから」とかなんとか言いながら時間に関係なく他の者がやるような仕事まで引き受けてしまうのが彼だった。
結果、都市の中のあらゆる活動内容に、取り立てて各部署から報告をあげさせずとも精通しているのが司本人であるという図式が成立してしまっている。
そして、そこまでの仕事をこなしてしまえる人物が実在する以上、誰もそれに文句は言えず……むしろ感謝されてしまう、というあらゆる方面にプラスに働く人物相関図のようなものが出来上がっているのがこの都市の組織なのだ。
そんな背景があるせいで、この度、南方での不穏な動きに対しても早急な判断と行動が求められ、近隣諸都市のリーダー的な存在にならざるを得なくなり……その結果。
「はー……」
今日もまた何度目だろうというため息の原因になる、軽くあしらうことの許されない紙の山が、机の上を占拠しているのだ。
ふとグリフィスが窓の外に目をやる。
ほんの息抜きのつもりだが、よく晴れた日の終わりの夕焼けは絶景だった。
なので、息抜きついでに大きめに作られた窓のそばまで行って、そこから都市を見下ろす。
彼がいる建物は、古代においては王族が住んでいた城。頑丈な造りであるために王政が廃止されてからも中を改装しながら都市の司が住居兼仕事場として使うようになっており、さらに都市の政はすべてこの中で行われている。
司の住居、といってもそのスペースは建物内のごく一角ではある。
この建物は、昼夜を問わずいろんな役職の者が出入りをしており、昔でいうところの近衛兵のような役割をする兵士が一日中交代で仕事についてもいる。独り身の彼には賑やかな住まいだ。
厳密に言えば独り身であるとはいえ。
こんな風に仕事の合間に考え事をするとなると、グリフィスの場合、大抵はたった一人の息子のような存在について考えてしまう。
「レンも、もうそんな年になるのか……」
つい独り言をこぼす。
彼にとっては、息子という認識であるレンブラント。
都市の外で命を救ってやったのは昨日の事のようだ。
その彼は、今では昔の自分と同じ騎士隊の隊長だ。
その生い立ちを考えると、強く生きることができなければと思い「立派な騎士になれ」と励ましたのが功を奏したようで、周りからの冷たい仕打ちにもよく耐え、まっすぐに育った。
隊長なんていう役職についてからは、忙しいせいで以前ほどここには来なくなったが、それでも月に一度くらいは一緒に食事をしよう、とわざわざ会いに来る彼をグリフィスは良くできた息子だと誇らしく思っている。
そのレンブラントのここ最近の話題は、少し前に東の都市から来た二級騎士のことが多かった。
グリフィスも何度か会っていたが、初めて会ったときはあまり友好的とは思えない表情の乏しい女騎士、程度の認識だった。
それが先の戦いでの報告が上がって、彼は驚いた。
彼女は「火の竜」の名を継承する者だという。
竜の種族に再び会うことがあるとは。しかもこの都市にいたとは。
それを知って、親心、というか、一抹の不安もよぎった。
確かに、レンブラントの話を聞く限り、リョウという名のその子は良い子なのだろう。
でも、竜の種族。
人とは異なる、根本的に異なる種族なのだ。
今の時代、竜の種族なんてお伽噺か伝説でしか知る者はなく、実際に見たことがある者などほぼ皆無なわけだから、レンブラントがそれを知るとしたら彼女から直接知らされることによるわけだが……。
さて、どうしたものか。
などと悩んでしまうのは、いわゆる親バカなのだろうな……と、つい苦笑してしまう。
「……レンも、もう大人だ。自分のことは自分で決めるだろう」
それにしても、子供の頃から世話になっている者の身で我が儘を言ってはいけないという気がするのか、個人的な好みなんか殆ど口にせず、よほど聞き出さなければ欲しいものさえはっきり言わなかったあいつが、あんなに嬉しそうに一人の女の子の事を話すなんて。それだけでも目を疑うような光景で、正直もろ手をあげて歓迎なのだが。
いつの間にかグリフィスの苦笑いは、ごく自然な緩い微笑みに変わっている。
と、その時。
「司殿」
ノックの音と共に兵士の声がしてグリフィスは父親の顔から都市の司の顔に戻る。
「……はい。どうぞ」
司の声に、ドアが開き、兵士が入ってくる。
「お忙しいところ申し訳ありません。……実は昼間、都市で騒ぎを起こしたレンジャーを一人捕まえたのですが……」
少々歯切れの悪い兵士の話し方にグリフィスは首をかしげつつ。
「レンジャー、ですか。珍しいですね今どき……」
最近はレンジャーを雇うような者が少なくなったせいで、レンジャー自体がそうはいない。しかもこんな都市の周辺ではそんな危ない人間を雇うよりも兵士や騎士はもとより素性の良い退役軍人だっているわけだからレンジャーがうろつくことなど珍しいのだが。
「ええ、その……、都市の外に放り出そうとしましたら……司殿に会わせろと言い出しまして」
「私に……?」
「ええ……しかも、その……」
兵士の歯切れの悪さの原因は他にもありそうだ。
そう思ったグリフィスは言葉の続きに耳を傾けるべく口をつぐむ。
「司殿がレンジャーなどに知り合いがいるとは思っておりませんが、やつは知り合いだと言い張るのです」
「……知り合い、ですか」
おや、とグリフィスが首をかしげる。
「司殿を、『グリフィス』と呼び捨てにしたあげく『グウィンが来たと伝えろ』と言って都市から出ていこうとしないものでして」
「……あいつ……!」
グリフィスが右手を両目の上に当てる。
「……お知り合いなんですか?」
兵士がすっとんきょうな声をあげる。
「……ええ、知り合いです。……ちなみに彼はレンジャーではありませんよ。本人がレンジャーだと言ったんですか?」
「え……いや、そういうわけでは……しかし身なりからして明らかに……」
戸惑う兵士を見てグリフィスは少し考え込み、笑いが込み上げる。
そうだな。あの頃の彼のままだとしたら、そう思われても仕方がないだろう。
「わかりました。大丈夫ですよ。彼を通してください」
兵士は自分のミスを咎められなかったことを安堵して足早に退室する。
そりゃそうだろう。
都市の司ともあろう人の知人を、本人の前でレンジャー扱いしたわけだから。