手をのばして
古いものの匂いが好きで、私はいつも祖父の店で遊んでいた。
祖父の店は、京都・三条の古門前通りという小さな路地にある骨董屋で、私は小学校、中学校の帰り道に、「観花堂」と染め抜かれた海老色の暖簾をくぐるのが日課だった。
入り口の土間に、優しい顔の道祖神。
日本刀の鍔や中国のトンボ玉が並べられたガラスのケース。
伊万里の茶碗が無造作に積み上げてある木の棚。
鈍い飴色に光る薬箪笥。引き出しを開けながら、江戸時代の町医者がひょいひょいと、この中から慣れた手つきで丸薬を取り出している光景を思い浮かべる。
そんな時間が子どもの頃から、たとえようもなく好きだった。
高校へ入ってしばらくすると、祖父は私に1時間か2時間、店番をまかせてくれるようになった。
「たえ、古美術商組合の寄り合いやからな」
その日も祖父は、玄関で麻の帽子をかぶると出て行った。
しばらくすると、軒に雨の当たる音が聞こえた。
「おじいちゃん、傘持ってったかな」
読んでいた文庫本から顔を上げて、誰にともなくつぶやいた。
どうせ、初夏の雨。止むまでの間「昇竜庵」のご主人と将棋の二勝負目を指すのだろう。
雨は近くを流れる白川の水面を打って、石畳の通りを叩いて、木々を揺らして、格子戸を通り抜けて、水の匂いを運んでくる。
アメリカ製のダルマ時計の振り子の音が、かっちかっちとあたりに響く。
ふと空気が動いた。私はぱたんと本を閉じ、誰かが店に入ってきたのかと見回した。
誰もいない。
立ち上がって、店の入り口に出る。誰もいないことを確かめ、奥の帳場に戻る。
象の銅器の置物。木彫りの鬼の立像。李氏朝鮮の白磁の壷。
次々と通り過ぎて、私の目は正面の柱の壁にかかっている一枚の鏡に釘付けになった。
それはうちの店の商品にはめずらしい、昭和初期のアールヌーボー調の壁鏡だった。葡萄のつるに似た凝った銅製のひだ飾りは、歳月のため黒くすすけている。
その鏡にひとりの男の姿が映っていることに気づいて、あわてて口を押さえたものの、洩れた悲鳴が壊れたふいごのような音を立てた。
「ふひゃあっ」
幽霊。幽霊だ。
真正面に立っている私と鏡とのあいだには、空気以外の何物もない。映るはずのない映像だった。
幽霊が出そうな骨董屋。小学校の同級の悪童たちがそう言って私をからかったものだが、まさか自分の目が本物の幽霊を見るはめになるとは。
腰をぬかしかけた私を、男の目はとらえたようだった。
「誰だ。きみは」
うわあ、しゃべった。人間さまに向かって誰だなんて、幽霊のほうから聞かないでよ。
でもその声は、一目散にその場を逃げ出そうとしていた私の足を止めた。
声の中にかすかにかぶる、怯えたような響き。相手も怖がっている。
「あなたは、……あなたこそ、誰なの?」
私が問いかけると、男は目を少し見開いた。答えが返ってくるとは思ってなかったのだろう。向こうも私を幽霊だとおもっていたのだろうか。
鏡の向こうは別の空間と言われる。
彼は向こう側の世界から反対に、鏡の中に映るはずのない私の姿を見ているのだろうか。
私はまだ少し怖かったが、一歩だけ鏡に近づいて男を見た。
私と同じ高校生か大学生くらい。後ろになでつけそこねた黒髪が数房、はらりと額にかかっている。日に焼けていない神経質そうな顔。きれいにアイロンをかけた白いシャツ。楕円形の鏡には上半身しか映っていない。
「僕は校倉栄一という」
「私は、春日野たえ。ここは祖父の骨董屋」
「骨董屋?」
「京都三条の「観花堂」っていうの」
「京都?」
彼は視線を泳がせ、一層、眉間の皺を深くして考え込んでいる様子だった。
「……あなたは?」
「ここは、僕の下宿している部屋だ。この春から同文書院に通うために、近くの中国人夫婦の住む家の2階に間借りしている」
「……場所は?」
「……上海」
「上海?」
「上海がどないしたって?」
いつのまにか店の入り口で、祖父が借りてきたらしい傘を傘立てがわりの萩焼の壷に差しているところだった。
「あ……」
私は祖父に向かって口をぱくぱく開けて、ふたたび鏡を振り返った。
もうそこには、骨董に囲まれてぽかんと立っている私以外、何も映ってはいなかった。
「お、おじいちゃん、この……鏡!」
「ん? その鏡がどないした」
私は勢い込んで、祖父に今見たことをすべて説明しようとしたが、すぐに考えを変えた。
もしかすると、夢かもしれない。私は単調な夕立の音に眠気がさして、まどろんでいただけなのかも。
確かめる方法がひとつあった。
「おじいちゃん、上海に同文書院っていう学校があるかどうか知ってる?」
「あるで。東亜同文書院大学」
私は身を固くした。もしそんな学校が実在するのなら、今のは夢なんかじゃないことになる。
しかし、祖父の次のことばが、さらに私を凍りつかせた。
「でも、それは日本が中国を侵略していた頃の話。戦前のことやで」
次の日、高校の帰りに観花堂に行くと、祖父は待ちかねていたように帳場を立った。
「この荷物を急ぎで届けてこなならんのや。ちょっと本局まで行ってくるから、店番頼む」
「うん」
祖父が出て行ったあと、私はしばらく逡巡した挙句、あの鏡の前に立った。
あの男性は現われるだろうか。それとも、あれは古い鏡が見せた一回限りの幻?
思いあぐねる間もなく、鏡面がかすかに揺らいだかと思うと、カメラがゆっくりと焦点を合わせるように、万華鏡のようなもやの中から、また彼の姿が映し出された。
「また会えた……」
彼は信じられないと言った面持ちで、私をまっすぐに見つめた。
「あれから毎日、きみにまた会えるかと思ってここをのぞいていた。もうほとんど諦めかけていたのに」
「毎日? きのう会ったばかりなのに?」
「なに言ってる。あれはもう一ヶ月も前だ」
私は否定の意味で首を振りかけて、ふと祖父のことばを思い出した。
「あの、そっちは今、いつ? 戦前なの?」
「戦前?」
「あの、つまり、今はいったい何年なの?」
「昭和18年に決まってるじゃないか」
言いかけて、彼は喉の奥がつまったような音を立てた。
「そっちはそうじゃないのか?」
「今は平成15年」
「平成?」
「昭和のあとが平成なの」
「未来……なのか?」
ふたりはしばらく黙りこんだ。
「にわかには、信じがたい」
抗うように、彼は力なく答えた。眼の前の鏡が映すはずのない映像を映している、その現実の前でなお、否定する気持ちが勝っているのだ。
「じゃあ、証拠を見せる」
私は、帳場に飛んで行って、祖父が読んでいた新聞を鏡の前にかざした。
「一番上の日付を見て」
2003年(平成15年)5月14日。
「21世紀……」
彼はあらためて私をまじまじと、こちらが恥じ入るくらいに見つめた。
「きみのいる場所は今と、何も変わっていないように見える」
「それは、ここが骨董屋だから。私の制服も古くさいセーラー服やし」
私はそう言いながら、新聞を鏡に近づけた。
「あ、ここのテレビ欄を見て。テレビは昔にはなかったでしょ」
「テレビ……」
彼はよく見ようと、目を細めて鏡に顔を近づけた。
「あ……」
「ああっ」
そのとき、信じられないことが起きた。湖面に石を投げ入れたかのように鏡がゆらめくと、新聞がすっと中に吸い込まれていってしまったのだ。
次の瞬間、彼の手の中に未来の新聞が握られていた。
「こんな……」
「ものの行き来ができるんだ……」
我に帰ると、彼は恐ろしい魔術の書物でも扱う手つきで、おそるおそる紙面を繰った。
「イラク……戦争。有事関連法案……。大東亜戦争の戦況のことはどこにも書いてないようだが」
「あたりまえだよ。戦争は昭和20年に終わったの」
「終わった? 昭和20年、そんなに早く?」
「日本は負けたの」
「負けた……」
「しばらくはアメリカに占領されたりしたけど、そのあとは戦争をしない平和な国になった。今の日本はとても平和だよ」
「そうか……」
彼はほとんど表情を変えずにそうつぶやくと、固く口を結んだ。
「ごめん、その新聞返してくれない? おじいちゃんにどこにやったって聞かれると困るから」
「あ。すまない」
ふたたび彼の手から鏡面を通って、新聞は現代に戻ってきた。60年の歳月を経て帰ってきた新聞。黄ばんでかさかさになっているかと思わず表面を撫でたが、元のままだった。
「もっと見たかった?」
「いや」
私の手に移った新聞からまだ目を離さぬまま、けれどもそこには安堵に似た光が宿っていた。
「これから何が起こるかを見るのは、怖い。未来の出来事を知るべきではないと思う」
「そうかもしれないね」
「あの。……たえさん?」
「あ、はい」
「僕たちは、なぜこんなふうに時を越えて話ができるんだろう」
「わからない。この鏡の力じゃないの?」
「これはこの部屋にずっと前からあったものだ。家主の中国人にも聞いてみたが、不思議なものを映し出したことはかつて一回もなかったそうだ」
「私も。この鏡は1年くらい前からこの店にあるけれど、こんなことはこれが初めて」
「きみさえ、もしよかったらだが」
彼は、はにかみながら言った。「これからもこうして鏡をのぞいて、僕と会ってはくれないか」
「え?」
「これは人知を超えたことであるという気がする。僕ときみがこうして時を越えて話ができるのは、天が与えた何かの意味があるのではないか。もしきみが承諾してくれたら、できる限り僕はこの鏡の前に立って、きみを待とうと思う」
「……」
「いやだろうか?」
彼の瞳の真摯なさまに打たれて、
「は、は、はい」
私はすっかりあわてふためいて、そう返事をしてしまった。
その日から私は、何のかのと理由をつけて祖父を店から追い出した。
「いったい、どないしたんや」
「ひとりでしんみりとしっとりと、本を読みたいだけや」
祖父はいぶかしげに聞いてきたが、私は本当の理由を言わない。
この奇妙なデートをふたりだけの秘密にしておきたかったのだ。もし真相を知られれば、祖父は鏡の構造や由来を調べようとするだろう。そうすれば鏡は過去を映す力を永久に失ってしまうかもしれない。
確かに栄一さんは、私がひとりで鏡の前に立つときを選んでしか現われなかった。
私にとってはそれは毎日のことだったのだけれど、彼にとってはそうではなかったようだ。
私が彼の下宿の部屋の鏡に映し出されるのは、短くて一週間、長ければ一月も二月も間隔を置いてから、であるらしい。
そのたびに彼の服装や部屋の様子は変わっていて、季節のうつりかわりを感じさせた。
彼の実家は裕福な貿易商だった。上海の大学を選んだのも、将来彼に会社を継がせたいと願う父親の意向だという。
東亜同文書院大学は、当時上海にあった日本の名門大学で、全国の都道府県から選ばれた公費留学生と私費生が日中両語で政治や経済を学んでいた。
栄一さんは私費留学生だった。いつも仕立てのよい服を着て、部屋の調度もゆきとどいて、とても戦時中とは思えなかった。
読書家らしく、部屋の隅の二つの石炭箱にいっぱいに、哲学や文学の書物がぎっしり詰まっているのも見えた。
映画を観るのも好きで、よく私の知らないヨーロッパ映画の話をした。マレーネ・ディートリッヒというドイツのきれいな女優さんの白黒のブロマイドを写真立に飾っていて、恥ずかしそうに鏡の前で見せてくれた。
彼は、誠実な人柄だった。現代ではもうどこでも聞けないような、折り目正しいことばづかい。
神経質そうに眉をひそめる癖も、私と気持ちが通じ合うにつれて消えて行った。
軍国主義の教育を受けた人はもっとコチコチに洗脳された石頭かと思っていたが、彼はそうではなかった。平気で時の政府の批判もした。
あとで考えると、それは外国にいるからできることだったのかもしれないが。
日本が戦争に負けるという未来を、彼は冷静に受け止めていた。
「しかたがないと思う。外地に来て初めて、日本の小ささと世界の大きさがわかった。日本はバカだ。身の丈に合わない無謀な戦争を始めてしまったんだ」
口から出ることばとは裏腹に、さびしそうな目をしてつぶやいた。
私はだから、広島や長崎に落とされたあのむごい原爆のことを彼に話すことができなかった。これから自分の国に訪れる避けられない運命を知ってしまったら、人はどんな思いで生きるのだろう。私は彼を悲しませたくなかった。
「京都はそんなに空襲に会わなかったの。アメリカは、京都や奈良の文化遺産は破壊しなかったみたい」
本当は京都は原爆投下の候補地にさえなっていたらしいのだが、私はそのことも黙っていた。
「そうか。それは良かった。たえさんの家も家族も無事だったんだね」
睫毛の長いきれいな目を細めて、心からうれしそうに笑う。
私はその笑顔が見たくて、彼との時間を何よりも大切なものとして心待ちにするようになった。
栄一さんは21世紀の機械や電気製品にとても興味を持ったので、私はCDプレーヤーや携帯電話を見せてあげた。
針を落とすこともなく音楽を奏でる未来の蓄音機。ダイヤルもなく、コードもつながっておらず、オルゴールのような音楽が呼び出し音の個人専用電話。目を丸くして驚く彼を見て、私は子どもをからかう大人の気分になっていた。
驚いたことにコンピューターということばすら理解できない。当時の日本には、そんなものはまだなかったのだ。
「インターネットが普及してから、世界中のいろんな情報を知ることができるようになった。家にいながらものを買うことができるし、銀行振り込みもできるんだよ」
と説明すると、
「なぜそんなことができるんだ。電波はどうやったらそんなに早く世界中に届くんだ。銀行間の手形決済はどうやって行うんだ?」
という具合に質問攻めにされた。でも、彼が満足できるほど、私は今の世界をきちんと系統だってわかっていなかった。
政治も経済も、恥ずかしいほど私は何も知らないし、知ろうとしたこともなかった。
戦争の時代の中、彼は生きることや死ぬことの意味をずっと考えてきたという。
彼が熱っぽく私に語ってくれる哲学や文学の話は、まるで私には新しい地平線の向こうの未知の世界の話のように新鮮に聞こえた。
私たちは祖父が戻ってくるか、お客さんが店を訪れて邪魔が入るまでのあいだ、時を忘れて語り合った。
だが、ときおり燃え上がる心にすっとすきま風が吹くときがあった。
彼とのあいだに横たわる60年の年月を、考えないようにしても否応なしに気づかされてしまう。
たとえば、私たちには共通することばが欠けていた。同じ日本語のはずなのに少しずつ意味がずれて、わかり合えない。ふたりのあいだに時代の思想という厳然たる隔たりを感じて、気まずく押し黙ることもあった。
彼に魅かれれば魅かれるほど、これは恋ではありえないと引き戻す心が働くようになった。彼は過去の人なのだ。眼の前にいて息遣いまで聞こえるのに、この世の誰より遠い人。
私は次第に不安な気持ちに襲われ始めた。彼も同じだったと思う。
普通の恋人同士なら触れ合って確かめられることが、私たちには確かめられない。
「いっしょに映画を見よう」
「ごはん食べに行こう」
そんなあたりまえのことが私たちにはできない。共有する夢も将来への希望も、私たちにはない。
想い合う気持ちを意識したとき、ふたりのあいだに沈黙の帳が下りることが多くなった。
そんなとき、ただ見つめ合う互いの目が言う。
『触れたい。一度でいい、あなたに触れたい』
私は自分の衝動を抑えられず、ある日とうとう言ってしまった。
「少しだけそっちへ行ってみたい。新聞だってほかのものだって通り抜けられた。これだけ大きな鏡なら、人のからだも楽々通れるよ」
彼は驚いて顔をしかめ、首を振った。
「命のあるものを実験したことはない。どんな副作用があるかわからない。だめだ」
「だいじょうぶ。長いあいだではないから」
私は彼が止めるのもきかず、鏡に向かって腕をぐっと突き出した。
眩暈。からだがふわりと浮く。
ぐるぐると回り出す視界。吐き気。ちりりと痺れるような感覚。
気が遠くなりかけた。
「たえさん!」
栄一さんの声に、私は我に返った。気がつくと観花堂の店の床にへたり込んでいた。
「だいじょうぶか、たえさん」
「うん……だいじょうぶ」
「きみの腕が鏡からぬっと現われた。でもいつまでたってもそのままだから、あわてて押し戻したんだ」
「一瞬気を失ってたみたい。もう一回やってみる」
「無理だ」
彼はことばを吐き出した。
「きみは僕の世界には存在するはずのない人だ。きみがこちらに来れば、その場所を占めていた空気が行き場をなくす。連鎖反応で世界の均衡が崩れてしまうかもしれない」
「そんな……」
「もう、やめたほうがいい。僕たちは……」
彼の声はうつろに響いた。「決して結ばれることはできないんだ」
栄一さんは鏡の面に右手の指を押し当てた。彼の指先がほんの少し時の扉を越えて、私のところに届く。私もおずおずと左手を伸ばし、そっとその指先に触れた。男の人の指の少し硬い感触。わずかなぬくもり。
60年の時を越える罰として与えられる、痺れに似た激しい痛みを覚えながら、狂おしく指をからます。
私たちの頬はいつのまにか、涙で濡れていた。
私たちが鏡を通して会うようになってから、一ヶ月が経とうとしていた。
最初は私と同い年くらいだったのに、時間の経過のギャップは彼をすっかり大人の男性にしていた。背は数センチ伸び、頬が少し痩けて、精悍な顔つきへと変わった。
私は17歳のままなのに、彼の世界ではいつのまにか2年の歳月が経っていたのだ。
戦局はますます悪化の一途をたどっているようで、生活に必要な物資も滞り始めたようだった。
私には何も言わないが、栄一さんの瞳がふと翳りを帯びることが多くなった。まるで人知れず自分の罪に苦しんでいる罪人のように。
ある日、私は彼の姿を一目見て絶句した。
着ているものはひどく泥にまみれている。汗と埃で黒ずんだ顔の中で、瞳が荒々しい獣のような異様な光を放っていた。
「たえ……さん」
「どうしたの?」
「今日、僕の働いている海軍基地が、P-51の爆撃を受けた」
興奮で声がかすれていた。
「同文書院の学生たちは勤労奉仕で駆りだされて、工廠で艦載砲の組み立てをしていたんだ。いつものように空襲警報が鳴り響いて、みんな防空壕に避難してしまった。僕たちの班5人はどうせまた誤報だろうと、誰もいなくなったのを幸い、工廠の床で車座になってマルクスの経済論やカントの哲学について議論を戦わせていたんだ。 そのうち、地響きがして、あちこちで爆発音が鳴り響いた。あわてて工廠を飛び出した。外に出た僕たちの目に飛び込んできたのは……」
栄一さんは抑揚のない調子で続けた。
「夕焼けのように真っ赤に燃える空だった。爆撃を受けて燃え盛る砲艦だった。機銃掃射を避けようと、僕たちはすぐそばの便所に飛び込もうとした。だが一瞬早く、便所は爆弾の直撃を受けた。がれきの中に、血まみれのイタリア人技師のからだが埋もれていた。僕たちももう一歩早く中に入っていたら、同じ運命をたどるところだった」
「……」
「あとで知ったけど、僕たちが入る予定だった防空壕も爆撃を受けて、何人も同級生が死んだ……。こうして生きているのが不思議なくらいだ」
「よかった……、栄一さんが無事でよかった」
「何がいいものか!」
彼は腹のそこから搾り出すような大声で叫んだ。
「僕たちがここで学んできたことは何の役にも立ちはしない! 哲学も経済学も歴史学も! この戦争という現実の前にはすべての理想が吹き飛ばされてしまう」
「栄一さん……」
「何が大東亜共栄圏だ、何が日中の架け橋だ! 僕たちが教えられてきたことはすべて、机上の空論なんだ!」
彼は頭を抱えてすすり泣いた。「僕は、何もできない。……学問は、無力だ」
次の日が別れの日になった。
ひとめ見たとき、私はすぐに悟った。
彼は今までの栄一さんではなかった。きれいな黒髪を刈り落として坊主頭にし、軍服を着ていた。
「今日は会えるような気がしていた」
彼は穏やかな表情で言った。
「最後にお別れを言いたかった。明日、僕は入隊することになったんだ」
「召集令状が来たの……?」
「そうだ。日本のために戦ってくる。たぶんもう生きてここへは戻ってこないだろう」
そのひとことが私の理性を奪い去った。
「そんな……! 日本はいずれ戦争に負けてしまうんだよ」
「わかっている」
「それなのに、軍隊に入るの? あなただってこの戦争は馬鹿げているって言ってたでしょう。日本人は中国でひどいことをしてきたのよ」
彼は何も答えなかった。
「大勢の人を殺して、自分たちも死んでしまう。何にもならないのに。何も産みださないのに!」
「後世の者に、指図されたくはない」
静かな、しかし強い怒りをこめたひとこと。
「僕たちの生き方は間違っている。……そうかもしれない。それは歴史の決めることだ。でも僕は、自分の正しいと決めた道を選ぶ。きみたち日本の未来を背負う人たちのことを、僕たちが何も考えなかったと思うのか!」
「栄一さん……」
「さようなら、たえさん」
彼は険しいまなざしをふっと緩めて、優しく笑った。
「最後に握手してほしい。もう二度と会えないと思うから」
鏡面が水の波紋のごとくにゆらゆらと揺れ、混乱のため何もわからなくなったまま差し出した私の手を、痛みを気づかって彼は軽く握っただけだった。
「たえさん、きみと会えてよかった」
「栄一さん!」
私は絶叫して、彼の手を力の限りに自分のほうに引っぱった。
「こっちへ来て! 逃げてきて、ここで私といっしょに暮らそう! 世界のバランスが崩れたっていい。死ぬなんて……あなたが死ぬなんて、いや!」
しかし、彼は私の手をふりほどいた。
もう一度微笑もうとしたけれど、彼の顔は悲しみにひきつって、目にいっぱいの涙がたまっていた。
「ありがとう。でも、僕の生きる時代はここだ。逃げることはできない」
「栄……いち……さ」
「僕は、きみのことを忘れない。……忘れない、たえさん」
「栄一さん! 栄一さん! 栄一さん!」
私は鏡にとりすがって、鏡面を叩いて、大声で叫んだ。
鏡は暗く、硬く、元通りに観花堂の店内を映すばかりだった。
過去への扉が閉ざされてしまったことを知り、崩れ落ちて、床を叩きながら激しく泣いた。
もう永久に会えないのだ。
わずか一ヶ月の、毎日数時間だけの逢瀬。触れ合ったのは手だけだった。
「すみません」
店の扉を開ける音がして、若い男の声がした。
泣きはらしてぼんやりした視界をそちらに向けて、私は驚愕した。
「栄一さん……!」
「は?」
そこに立っていたのは、まぎれもなく彼と同じ顔をした男性だった。
でも、すぐにわかった。彼ではない。
茶色に染め、ムースをつけた流行の髪型。Tシャツとジーンズ。
「俺は、校倉遥。校倉栄一は俺の祖父だ」
うざったげに髪の毛を掻きあげると、彼は私をじろりと見た。「あんたが、『たえ』って人か?」
「は、はい」
「祖父から手紙を預かってきた。祖父は……一ヶ月前に死んだ」
思考が停止した頭を抱えながら、私は彼の差し出した手紙を受け取った。
「たえさんへ」
流れるような達筆で、手紙はしたためられていた。
「たえさん
きみがこれを受け取る頃、僕はもうこの世にいない。
きみにひとことお礼が言いたかった。
幸い、昨春から僕の孫のひとり、遥が京都大学に進学した。僕が死んだら、彼にこの手紙をきみに届けるように言い置いていく。
きみは会ったら驚くかもしれない。遥は僕の若い頃にそっくりだからね。
あれから、僕の身に何が起きたかを記しておきたい。
きみに最後に会った翌日、僕は蘇州の陸軍部隊に召集された。三ヶ月の初年兵訓練を受けたあと、揚子江の下流まで徒歩で進軍し、戦場に赴いた。
だが戦場とは言え、戦闘はほとんどなかった。それほど戦局はもう如何ともしがたいところまで来ていたのだ。結局、一度も銃を取ることさえなく敗戦の日を迎えた。
復員船に乗って故郷の静岡に戻ったが、しばらくは失意の中で無為に時を過ごした。人生の目標を見つけられず、いったい何をしてよいのかわからなかった。
僕にふたたび力を与えてくれたのは、きみとの思い出だ。
きみが見せてくれた豊かで平和な日本を、僕たちの手で作りたい。
きみやきみのまわりにいる人々の笑顔が二度とふたたび曇らないように、何かを遺したい。
その願いだけで、僕は戦後の混乱期をがむしゃらに生きた。
愛することのできる女性に出会い、結婚してふたりの子どもと5人の孫に恵まれた。そのうちのひとりが遥だ。
昨年、50年連れ添った妻を亡くし、いま僕は生命の最後のときにある。
京都に「観花堂」という古美術商があることはずっと以前に調べていた。数年前にこっそり訪ねて行ったこともある。
きみはまだ元気な小学生だったね。僕は君の姿を物陰からそっとのぞき見て、自分の考えが間違っていなかったことを知った。
実は復員船に乗るとき、家主からきみとの思い出の鏡を譲り受け、何があっても離さずに日本に持ち帰ったのだ。そして、時が来れば「観花堂」の主人、きみのおじいさんに託すことに決めていたのだ。
いつだったか、きみの時代の新聞を見せてもらったね。その日付を今でもよく覚えている。あれは平成15年5月14日だった。
きっと僕ときみはその頃出会う。僕には確信がある。
たえさん、きみに会えてよかった。きみの手のぬくもりを忘れたことはない。
きみと会ったから、僕は僕の人生をせいいっぱい生きることができた。
ありがとう。 校倉栄一」
「校倉さん、あなたのおじいさまは……」
思わず、たずねていた。「いつ亡くなられたの?」
「5月13日未明だ」
彼は押し殺した声で答える。「膵臓ガンだった。祖父は自分の死ぬ日をなぜか正確に知っていた」
私はとめどなく流れる涙を抑えることもなく、手紙を胸に抱いた。
栄一さんが亡くなったその同じ日、彼があらかじめ送ってきた鏡の中で、私ははじめて過去の彼と出会えた。
そして、鏡の中の彼と永遠のさよならを告げたその日に、彼の孫がこの手紙を携えて来てくれた。
そんなふうにして、せいいっぱいの思いをこめて、彼は私との出会いと別れを準備してくれたのだ。
「栄一さん……」
私こそ、あなたに出会えてよかった。
私にとってはほんのわずかな間だったけど、60年という時を乗り越えられないままだったけど、それでも、私たちはすべてを賭けて愛し合ったよね。
「あの、たえさん」
黙って私の様子を見て立っていた遥が、たまりかねて口を開いた。
「俺、わからないことがいっぱいあるんだけど。説明してくれるかな」
顔を上げると、彼は不機嫌そうに眉根にしわを寄せて、私をにらんでいた。
「なぜうちの祖父があんたのことを知っているんだ? なぜ祖父は、家の書斎にあったこの鏡を見るたびに、あんなに幸せそうに笑っていたんだ? なぜあんたは、祖父の手紙を読んでそんなに泣くんだ? あんたは誰なんだ?
俺は祖父のことが小さいときから大好きだった。祖父とあんたのあいだにいったい何があったのか知りたいんだ」
「うん」
私は涙を手の甲でぐいと拭くと、立ち上がった。
説明しなければならないだろう、私たちのことを。
わかってもらえるかどうかわからない。あまりに奇妙であまりに不思議な話。頭がおかしいと思われるかもしれない。
だけど、知って欲しいと思った。おじいさんを大好きだったというこの人には。
「こみいった話になるけど、いいかな」
「かまわない」
「そこの椅子に座って」
遥は警戒しながらも、言うとおりにした。
「私は、春日野たえ。高校2年生。私があなたのおじいさんと最初に会ったのは一ヶ月前、この鏡の中だったの……」
私はむかしむかしの物語を話し始めた。
(終)