6.アンダーグラウンドと戸森守
――科学が純粋に理論とその手法だけで成り立っていると考えている人は多いかもしれない。しかし、事はそう単純ではない。科学が成立するのには、その背景となる社会体制が必要なのだ。
何故なら、科学とは社会現象でもあるからだ。
仮に同じ理論に辿り着いていたとしても、例えばそれが隠されていたり、正しく認識されなければ、それは科学にはなり得ない。その為には、まず第一に、その理論が公にされなければいけないし、当然、発表の為の場だって必要になる。そして、その理論が正しいかどうか厳しく査定する必要もある。
更に言うのなら、研究する為の場だって必要なはずだ。それはつまりは、研究の為の費用を何処かが出さなければいけない、という事でもある。
もちろん、現代ではその費用を出すのは、国や企業だ。どうして費用を出すのかといえば、科学研究が何かしら役に立つと想定されているからである。取り分け、国が出資する場合には、社会全体の利益になる事が求められる。
この体制を根付かせるのに大きな貢献をしたのは、帰納主義者のフランシス・ベーコンだったと言われている。彼は科学研究が社会の役に立つと主張し、その啓蒙活動が、ニュートンやボイルなどが所属していたイギリスの科学協会、“王立協会”の礎になった。
では、その前の時代までの、学問の研究がどうだったかと言うと、医療技術や天文学などの例外を除けば、富裕層の好事家達の趣味として行われていた場合がとても多かった。つまり研究者本人が自ら豊富に資金を持っていたり、金持ちに雇われたりしていたのだ。学問を金に換えるのは、非常に難しかった訳だ。緩和されているとはいえ、この問題点は現代でも同じだ。だからこそ、科学を維持する為には国の支援が必要なのだが。
しかし、ここ最近になって、科学登場以前のこの“好事家達の趣味”としての学問が、復活し始めている。その原因としては、一つにはパソコンなどの技術発達によって研究費用が安くなり、個人でも手が出せるようになった事がある。もう一つは、これがより重要なのだが、インターネットの普及である。
インターネットの普及により、個人の情報交換が活発化した結果、好事家達が趣味の研究を手軽に発表できるようになり、更に査定の機能すらをも数多のネットユーザ達が果たすようになってきている。
この顕著な例としてあるのが、医療における『湿潤療法の普及』かもしれない。個人の医師が、学会の反発を受けながらも、ネットでの活動などによって、その治療法の確立と普及に成功をしたのだ。
もちろん、デメリットもあるだろうが、この流れには注視すべきである。ひょっとしたら、何かもっと著しい成果を、この自然発生的に生み出された学問研究ネットワークが残す事になるかもしれない。
――そして、
『異能力者なり切り掲示板』
ネット上の某匿名掲示板の一つに立ち上がったその場にも、そんな好事家の研究者達がいた。彼らは“研究者”とそのままのネーミングで呼ばれ、主に異能力者と異能をその研究対象にしている。社会科学的な観点から研究している者もいれば、実際にその能力が存在していると捉え、自然科学的にその研究を行っている者もいる。
もちろん、後者の自然科学的にその研究を行っている者達は、異能力の実在を想定しているため、馬鹿にされるのが常なのだが。
高校一年生の戸森守は、その“研究者”の一人から、ある日初めてコメントを入れられた。その研究者は主に異能に対する異能… つまり、メタ異能について研究をしているらしく、彼に依れば、戸森守はそのメタ異能者に遭遇した可能性があるのだそうだ。
戸森は『異能力者なり切り掲示板』の常連だった。随分と前から、その存在は知っていたのだが、自分で書き込みをするようになったのは、自らの異能に気付いてからだった。初めは自分の異変に戸惑い、自分と同じ様に異能に覚醒した者がいないかと、その掲示板で探すだけのつもりだったのだが、そこで同じ悩みを抱える“仲間がいる”という安心感を覚えた事が切っ掛けとなって、書き込みをするようになってしまった。
彼の異能は『存在感を消せる』というもの。あまり真っ当な事に活かせる機会はなさそうだった。泥棒などをするなら別だが、彼にはそこまでする気はなかったのだ。だから彼はその異能をあまり喜ばなかった。しかもこの異能は使うと激しい疲労感を覚えるのだ。敢えて使おうとは思わない。しかし、ある日に彼は恋をしてしまう。 相手は長谷川沙世という名の同学年の女生徒だった。一緒にいたいと思うようになってしまった。それで使う機会ができてしまったのだ。
彼自身にも不思議だった。どうして、長谷川沙世に惹かれるのか。しかも彼女は彼に悪口を言ったのだ。何故か、その悪口は形を変えた愛情表現のように、彼には思えてしまっていたのだが。
どうにもならない衝動に支配されて、彼は異能を使って、長谷川沙世を尾行するようになった。長く異能効果を持続させる自信はなかったから、帰りに見送るだけにとどめたのだが、彼女の後姿を傍で見続けるだけで彼は幸せだった。
しかしある日、アクシデントが起きた。何故か長谷川沙世は家には帰らず、まるで散策するように辺りをうろつくのだ。しかも、一人の男子高生が、距離を置いてずっと後から彼女を追っている。その男子高生を不審に感じた彼は、何かあったら彼女を守らなくてはと思い、ずっと尾行をし続けたが、あまりに長く歩き続けるので疲れてしまい、木の影で異能効果を一度切ってしまった。すると、彼女は彼を直ぐに見つけてしまったのだった。
木の影は完全に彼女の死角になっていたはずだった。分かるはずがない。そう、彼は思っていたのだが。
「随分と隠れるのが上手いみたいだけど、これからは誰かの後を尾行するなんて、絶対に止めた方が良いわよ。
あなたは気付いていなかったかもしれなけど、少しコツを掴めば、あなたが何処にいるのかなんて簡単に分かるんだから」
彼女は彼に向けてそう告げた。それから、これからはストーキング行為を止めるようにとも。これ以上やったら、警察に言うと。
戸森はその言葉にショックを受けた。
確かに自分は彼女の後を尾行していた。だが、彼女に危害を加えるつもりは一切なかった。むしろ彼女を守るつもりでいたのだ。それをストーキングと言われるとは少しも思っていなかった。
彼は沙世をつけていた男子高生を見つけて、彼女への誤解を解こうと思ったが、何処かに隠れているのか、見当たらなかった。それで結局は、怒った彼女の瞳に耐え切れず、そのまま逃げ出してしまった。
家に帰った後で、あの後であの男子高生に彼女が襲われる可能性に思い当たったが、当然の報いだとそう考えた(もっとも、次の日の彼女の様子を見る限り、何もなかったようだったが)。
そして彼はそれから、自分の心が理解されなかった苦しみから逃れる為に、『異能力者なり切り掲示板』を頼ってしまったのだ。何が起こったのかを、簡単にだが、掲示板に書いてしまったのである。すると、それを見た一人が、彼にコメントをして来た。
『もしかしたら君は、メタ異能力者に遭ったのかもしれない。その彼女か、或いは他の誰かなのかは分からないが』
先にも述べたが、メタ異能力者とは、胃能に対する異能力者だ。そのコメント主は、どうやら“研究者”の一人らしく、その研究者に依れば、メタ異能力には通常の異能力が効かない可能性があるらしかった。だからこそ彼は発見されたのだと、その研究者はそう考えていたらしい。
その研究者は、戸森にその件に関する情報を更に求めて来た。もっと詳しく知りたいと。その尾行していた女性が具体的に誰なのか。もちろん、ネット上に簡単に個人情報を晒す訳にはいかない。戸森は断ったのだが、それならば、とその研究者は彼をアンダーグラウンドに招待をしたのだった。
そこでなら、秘密の会話ができるとして。
戸森は掲示板に貼られたURLをクリックしてみる。すると、黒い画面で随分と古いテレビゲームのように見える、奇妙なサイトのログイン画面が現れた。それは、SNSの一種のようだった。
「それでも、嫌だよ。前にも言ったけど、僕はただ平穏に暮らしたいだけなんだ。疲れるのも嫌だし、リスクも怖い」
空き教室。放課後に、長谷川沙世と立石望の二人に呼び出された村上アキは、彼女達からの説得に対し、そう応えた。
「だから言ったでしょう? 私の“運が見える能力”を使えば、リスクは随分と低くなるのよ。怖がる必要はないの」
そう言ったのは立石。アキはそれにこう返す。
「だから、それを分かった上で嫌だって僕は言っているんだよ」
「どうして?」
「理由は二つ。一つは君の『運気視覚』の異能が完全じゃないって点。
君は白石さんに悪運が吸収されて、そこで初めて彼女の運が悪くなったと分かった。君の能力が完全だとするなら、その前から白石さんに悪い事が起こると分かっていなくちゃいけないじゃないか。つまり君には、“運に対する運”、高次の運は分からないって事だ。そして、似たようなアクシデントが起こらないとも限らない。突然に、君の運による予測が覆る危険はある。
もう一つは、君が僕らの為に、正直に見たままの運を言うとは限らないって点。早い話が、嘘を言うかもしれないって事だ」
それを聞いて、立石は“ほほー。単なるお人好しの馬鹿って訳でもなさそうね”と、そう思う。
「村上君。それは、少し失礼なのじゃない?」
そう言ったのは、沙世だった。その言葉に、少しだけアキは怯んだような表情を見せる。それを立石は見逃さなかった。
“なるほど。彼の方も、彼女に対し、まんざらでもないのかしらね”
と、それでそう思う。
「いいわよ、沙世。気にしないで。正しい判断だわ。簡単に人を信用し過ぎる人間は、却って信用できない」
実は実際、立石は嘘をついていたのだ。今回の件で、立石の運気は確かに上がった。しかし、アキとそして沙世の二人は幸運が上がったのと同時に、悪運の方も上がっていたのだった。
つまり、この二人にとっては、アキの異能の活用は、幸運に結びつくと同時に、悪運にも結び付くという事。何が起こるのかはまったく分からない。立石はその点を、二人に伝えてはいなかった。
“私は助けられるのだったら、友達を助けるわよ。助けたいとも思っている。でも、自分を危険にしてまで助けはしないし、自分の利益を捨てる気もない……。見抜かれちゃっているみたいね、それを。
でも、村上君。あなたが何を思おうが、運気は私に向いているわ。あなたの異能を、絶対に利用させてもらうからね”
その時、立石はそんな事を思っていた。
そしてそんな立石を見ながら、アキは嫌な予感を覚えたのだ。それで、更に釘を刺すように、こんな事を言う。
「あのね。断っておくけど、異能の存在に気付いているのは僕らだけじゃない。そして、僕の『異能察知』以外にもメタ異能と呼べる異能は存在している。そういう相手に、いいように僕らが利用される可能性だって充分に考えられるんだよ?」
言い終えた後で、アキはこう思う。
“恐らく、立石さんは甘い想定をしている。相手の能力が分かるくらいの優位じゃ、安心なんかできないんだよ”
そして、そうアキが思った後だった。
「ここで何をしているんだぁ?」
と、そう突然声が響いて、空き教室のドアが開いたのだ。そこに現れたのは、松田という名の男の教師だった。
「いえ、ちょっとお喋りしていただけですよぉ?」
と、そう明るく笑って沙世が返す。
「まぁ、それならいいが、こんな所で喋っていると変に疑われるから、普通に自分達の教室でやれ」
松田はそう言うと、少し訝しげな表情を浮かべながらも、そのままあっさりと引き上げていった。その後でアキが口を開く。
「多分、異能力者の僕らが集まっているもんだから、不審に思ったのだろうね、松田先生」
その言葉に立石は驚いた。
「先生も何かの異能を持っているの?」
「持っているよ。しかも、異能の効果を無効化したり、異能を奪って自分につけたり、誰か他の人につけたりできるっていう恐ろしい異能。僕がつけた名前は、『異能操作』。もっとも一時的にしか効果はないけど。ある程度経ったら、奪った異能は元の持ち主に戻っちゃう」
アキがそれを言ったのは、立石に自らの想定の甘さを悟らせる為だった。しかし、彼女はそれを聞いてむしろ喜ぶのだった。
「それは凄いわね!
村上君の異能との相性もピッタシ! 村上君が異能力者を見つけて教え、松田先生がそれを奪って使う! 華麗なコンボよ! なかなか、面白い事ができそうじゃない?
先生には、その人にどんな異能があるかまでは分からないのでしょう?」
それを聞いて、アキは言い難そうにしながらも、こう答える。
「そのはずだけど……。何か異能があるって、ぼんやりとくらしか分からないはずだよ」
「なら、松田先生の方でも、村上君の力が必要って事よね?
オッケェ。利用できる可能性高し!」
その立石のふてぶてしさに、アキは思わず呆れてしまった。そして、
“こりゃ、説得は難しいかなぁ?”
と、そう思うのだった。
「ねぇ、沙世」
帰り道。珍しく長谷川沙世と立石望は一緒に帰っていた。その時初めて立石から“沙世”と呼ばれたものだから、長谷川沙世は多少、戸惑った。
「なによ、馴れ馴れしい」
それでそう応える。
「良いじゃない。お互い協力関係にあるんだから、そろそろ下の名前で呼んだって。
ま、そんな事はどうでも良いのよ。とにかく、あなたは村上君と恋人同士になりなさい」
「突然、あなたは何を言い出すのよ。おかしくなった?」
「いいから、聞きなさい。多分、村上君はあなたに気がある。私の見立てだけどね。だから、それを利用して説得するの」
「わたし、彼に対しては、ここ最近能力を使ってないわよ?」
「なら、異能なしで本当にあなたに惹かれているのじゃない? とにかく、これを利用しない手はないわ」
それを聞くと、沙世はわずかながら頬を赤くした。それから、しばらく悩んでいたようだったが、やがてこう返す。
「止めておく。籠絡するつもりだって思われたら、それで警戒されるでしょう?」
「なるほど。だったら、そうね…… あなたに言い寄って来る男がまだいるから、追っ払う為に恋人の振りをしてってな感じの事を言って彼に甘えなさいな。絶対に喜ぶから。
男なんて単純だから、それで簡単にコロってなるわよ」
その立石の提案を聞くと、軽く息を漏らし、「そう簡単にいくかしら?」と、そう沙世は言った。
――アンダーグラウンド。
一般ユーザとして登録して入ったその場所で、戸森守は“研究者”から、こんな話を聞かされていた。
『君と同じ様な能力を持った男が、泥棒にそれを役立たせているが、今まで見つかった事は一度もない。メタ異能者でなければ、君を見つける事は不可能だと思って良いだろう。私はそのメタ異能者を研究しているから、是非ともその情報が欲しいのだ。
……どうか、その詳しい情報を教えてはくれないかな?』
世間では、相変わらずに起こっている、謎の連続殺傷事件が未だに話題になっていた。A―テクニカルという名のIT企業に所属している社員を中心に、犠牲が増え続けていたのだ。