3.運の実在と立石望の異能
立石望は、“運”が存在するかどうかという点について考えていた。やる気なく授業を受けている最中に、いつだったか数学の授業で習った“背理法”がそれを考えるのに使えるのではないかとふと思い当たったからだった(授業は、国語の授業だったが)。
背理法というのは、数学的証明手段の一つで、何かを正しいという仮定で論を展開していき、矛盾点を発見する事により、その正しいとした仮定が間違っている事を証明するというものだ。0を分母にできないとか、√2は無理数だとかを証明する手段として使われている例をよく見かける。
つまり、運が存在する仮定で論を進め、それで何かおかしな点が発見できれば、“運が存在しない”を示せるという事だ。
立石望はこんな事を考えた。
仮に“運”が存在していたとしたら、その運が良い原因は何だろう? 幸運グッズの類を持っていたから? たまたま生まれが良かったから? いやもし本当にそれらが原因だとしたって、それらは根本的な原因にはなり得ない。何故なら、幸運グッズを持っていた原因、生まれが良かった原因は“運が良かった”から、という理屈が成り立つからだ。
運が良かったのは、その運より“高次の運”が良かったから。突き詰めれば、そう説明できてしまえる。つまり、運自体に対する運。メタ運だ。
では、その“高次の運”が良かった原因は、なんだろう? それよりも更に“高次の運”が良かったからではないだろうか? もちろんそれを想定しても、それよりも更に上の“高次の運”を想定する必要が出てくる。
早い話が、“運”の存在を仮定すると、無限に“高次の運”が存在し続けなければいけなくなるのだ。そんな事があり得るとはとても思えない。これは明らかな矛盾点だ。これにて、証明完了。運は存在しない。QED。恐らく、運は確率の見せる幻なのだろう。
だが、本当にそうだろうか?
そこまでを考えて、立石望はそう思う。この論法に何か穴はないだろうか?
――演繹的思考。
立石望はその名を知らなかったが、実は彼女が使っていた思考手段は、そう呼ばれるものだった。演繹的思考とは、ある条件(公理)から別の条件(定理)を導くもので、実は数学的結論においてはこの演繹的思考しか認められてはいない(数学的帰納法は、“帰納法”という名は付いているが、実は演繹的思考を行っている)。因みに、だから実は数学は自然科学ではない。むしろ哲学に属する。もちろん自然科学に用いられてはいるが、自然科学ではないのである。
ユークリッド幾何において、真っ直ぐな平面と線の定義を展開していけば、“三角形の内角の和は180度”という結論(定理)が得られる。更に、その結論から別の結論が導けもする。四角形は三角形を二つ合わせたものだから、四角形の内角の和は三角形の二倍。つまり、360度だと分かる。これが演繹的思考だ。そして、この演繹的思考で得られる結論は、厳密かつ厳格に正しい。ただし、それには制限がある。
演繹的思考で得られた結論は、前提とする条件が正しくなければ成り立たないのだ。例えば、地球は球体(非ユークリッド幾何)だから、平面を前提とした“三角形の内角の和は180度”という結論は実は正しくない(一応、付け加えておくと、地球の質量によって、地球の空間が歪んでいる事がアインシュタインの一般相対性理論によって示されているので、これを考慮に入れると、球体を前提とした幾何ですら成り立たなくなる)。もちろん、四角形の内角の和が360度という結論も成り立たない。
という事は、先に立石望が下した“運は存在しない”という結論も、間違っている可能性があるという事だ。彼女はこの世界の前提条件を知らないのだから。
立石望は思っていた。
……運は存在しない。
“でも、じゃ、一体、私が見続けているものは何なのか?って事になるのよね”
立石望はまた少し考えてみる。先に自分は“無限に高次の運”を想定しなくてはいけないから“運は存在しない”とした。“無限に続く何か”なんてものが、実在するようには思えないから。しかし、本当にそうなのかどうかは分からない。実際、この世の中には無限に続くと想定されているモノもある。例えば、“時間の流れ”は無限に続くとされているし、空間だって無限に続く可能性が議論されている。ならば、“無限に続く高次の運”だって存在するかもしれないではないか。
そこまでを考えて、彼女には急にその思考が馬鹿馬鹿しくなった。
“そんなこと、分かるはずがないじゃない。この世界の仕組みとかさ。なら、考えるだけ無駄って事よね”
――世界の本当の仕組みは誰も知らない。だから、演繹的思考のみでは、それが実世界において本当に正しいのかどうかは分からない(そして、三体問題など、演繹的思考自体にも限界がある)。
だからこそ、帰納的思考によって、つまり実験や調査によってそれを確かめてみなければいけない。
その発想こそが、実は自然科学とそれまでの哲学とを分けるものなのかもしれない。
しかし、この“運”に関しては、その手段はないと考えた方が良さそうだった。何をどうすれば、運の存在を実験によって確かめられるのだろう? 客観性のある結論を得られる手段があるとは思えない。
だから、立石望が無駄だと思ったのも無理はない。しかし、それでも取り敢えずの結論を出さなくてはいけない事情を、立石望は抱えてもいたのだった。
“私が見ているこれは、運だって事にしてみるわ。仕方ないから。
……もしかしたら私達が、存在しないはずの運を、存在させてしまっているのかもしれないけれど”
そう。
彼女には“運”ではないかと思える何かが見えていたのだ。初めはそれが何であるのかまったく分からなかった。それは白と黒とで二種類あり、まるで微弱に発光している火の玉のように思えなくもなかった。奇妙に思えるかもしれないが、黒い方はまるで黒く“発光”しているように見えていたのだ。
まず彼女は幻覚を疑い、眼科と内科にそれぞれ行って検査をしたのだが、何処にも異常はないと言われ、結局は原因が分からず、疲れているだけだからそのうち消えるだろうと言われて終わりだった。しかしそれからもその光を、彼女は見続けてしまったのだった。消えてくれない。
初めてその光が“運”ではないかと立石が疑ったのは、白石琴美という女生徒と知り合いになった事が切っ掛けだった。
その女生徒とは中学生の三年の頃に初めて会ったのだが、彼女には何故か黒い光が集まる傾向にあったのだ。しかも、周囲の黒い光がある一定量に達すると、その黒い光を吸収してしまうのである。注目すべきなのは、その後、彼女に起こる事だった。
ドブに嵌ったり、転んだり、テストで酷い点数を取ったり。何故か、その黒い光が集まった後、その白石琴美の身にはいつも決まって不幸が起こるのだった。そしてその代わりに、黒い光がなくなった人間達は悪い事を回避していたりする。
“これって、もしかして、悪運が白石さんに吸収されたって事じゃないの?”
立石望はそう考えた。白い光は幸運そのもの、またはそのパラメータで、黒い光は悪運そのもの、またはそのパラメータ。
そう思って注意深く観察してみると、確かに白い光がある人間は運に恵まれ、逆に黒い光がある人間には不幸が起こっているように立石には思えた。更に、行動によってもその光は変化をし、良い事が起こる決断をすると白い光が強くなり、逆に悪い事が起こる決断をすると黒い光が強くなった。
それで立石はその光の変化を、行動の決断に利用してみた。すると、見事に良い結果に至る事が多くなったのだ。少なくとも、その光は行動の方針を決める際には、役に立ちそうだとそれで立石望は結論付けた。
ただし、そこで彼女には、もう一つの疑問が生まれた。
黒い光…… つまり、悪運を吸収しているように思える白石琴美は一体、何者なのか?
もちろん、結論など出なかったが、彼女を利用できそうだと立石は考えた。彼女の傍にいれば、悪運を彼女が引き受けてくれる。だから友達になっておくべきだと考えた。白石は性格の良い子で、立石が「友達になりましょう」と言うと、何も疑わずにそれを受け入れてくれた。
白石琴美が悪運を吸収してしまうのだとすれば、一つ疑問があった。彼女には致命的と言えるほどの不幸は起こらなかったのだ。どちらかといえば、起こる不幸はささやかもの。どうしてなのだろうか? だが、しばらく一緒にいて、立石はその原因が分かった気がした。
白石琴美は、前述したが性格が良い。加えて背が低く容姿も可愛い。愛玩動物のような印象を受ける。それで、周囲の人間達から愛されているのである。恐らく、それら愛される要素は彼女が悪運吸収の体質を身に付ける前に獲得したのだろう。彼女の致命的な不幸… 例えば死んだり怪我したりとかいった不幸は、だから周囲の人間にとっても不幸になってしまう。そして、彼女が吸収しているのは、飽くまで周囲の人間達の悪運なのだ。集団を一つの単位とするのなら、プラスマイナスゼロ。総量は変わらない。だから、周囲の人間達にとっての不幸、全員分の悪運の作用を超える不幸は、彼女の身には起こらない事になり、結果として致命的な不幸も起こらない。
その仮説が正しいかどうかは分からないが、取り敢えず、立石望はそれを正しいとしてみた。そしてだから、白石に自分と同じ高校を受けてみないかと彼女は誘ったのだ。先の考えの応用方法を思い付いたからだった。
立石望は白石の同じ高校への合格を望んでいる。もちろん、悪運吸収の役割として、彼女に一緒にいて欲しかったからだ。そして、それは白石にとっては不幸な事でもあった。立石望の悪運を彼女が引き受けなくてはならない。
この条件なら、白石が悪運を吸収してしまっても、彼女は高校に合格できるのではないかと立石は考えたのだ。そして、その予想通りに、白石琴美は立石と同じ高校に合格をした。因みに、彼女の成績は良いにも拘らず、他の高校は全て落ちていた上に高校で立石と白石は同じクラスになったから、その推測は正しいだろうと思えた。
一応断っておくが、立石は白石琴美が嫌いな訳ではない。利用してはいたが、性格の良さは認めていたし、だから彼女が困っていたら助けたりもした。彼女が不幸な目に遭うのは、立石にとっても嫌ではあったのだ。
そしてだから、白石が厄除け用のサイコロを五個ほど持ち歩くようになった時、そのサイコロの効果を疑問視していた彼女を説得しもしたのだった。
――もう少し詳しく述べるべきかもしれない。
白石琴美はそのサイコロを、村上アキという名の男生徒からプレゼントされたらしかった。しかもその男生徒は何故か、「君の運の悪さをどうにかしたかったら、定期的にそのサイコロを転がすように。特にテストなんかのイベントの前には」、と彼女にそう忠告したらしいのだ。それはおまじないのようなもので、目の数が多ければ多いほど良いとも説明を加えて。
「で、一応、その通りにしてみたのだけど、村上君が言うのとは、違う結果になるのよね。サイコロの目の数が凄く少ないのに、あんまり悪い事が起こらないのよ」
白石はそう言いながら、そこでサイコロを振ってみせた。すると、一の目が3個で、二の目が2個。確かに少ない。しかし、その時に立石は見たのだ。その目が出ると同時に、白石に溜まっていた悪運が消滅したのを。
それを見て立石はハッとなった。もしかしたら、サイコロに少ない目が出た事で、白石が吸収し蓄積した悪運は消費されてしまったのではないか? そんな風に考えたのである。
だから、その時にこう言ったのだ。
「いや、違うわね。そのサイコロは、少ない目の方が悪いのよ。でも、そうやって悪い事が起こっているお蔭で悪運が祓われて、琴美にはそれから悪い事が起こらなくなるの。だから、これからも少ない目が悪いと信じて、サイコロを振り続けなさい」
白石琴美は素直な性格だったから、少し不思議そうな顔をしてはいたが、その立石の言葉に「分かった」と納得をしていた。白石が“少ない目は悪い”と信じなければ、このサイコロには意味がないのである。
断っておくが、別に白石は頭が悪い訳ではない。本人にも自分の運が悪いという自覚があったから、それを解決できるかもしれないのなら、例え気休めに過ぎないと分かっていても、やってみるべきだと思ったのだろう。それに、実際に不運な事が起こる回数はそのサイコロを振り始めてから、少なくなっていたのである。
とにかく、これで白石に悪運が溜まった時、それが分かる立石がサイコロを振れと言ってやれば、それで白石が不幸に遭う機会は随分と少なくなるはずだった。
白石が納得をしたのを確認すると、立石はそれからこう彼女に質問をした。
「で、その村上君って何者なの? あなたを好きとかそういうの?」
もちろん、本気でそんな事を気にしていた訳ではない。彼女にはそのサイコロのおまじないが、白石琴美の性質を見抜いた上での効果的なアドバイスにしか思えなかったのだ。それで彼女は、もしかしたら、その村上アキにも“運”が見えるのではないかとそう考えたのだった。もしも、白石と親しい間柄でないにも拘らず、彼女の特性を見抜いていたとするのなら、その可能性が高い。
「さぁ? 1年3組の男の子って事くらいしか知らないわ。サイコロをくれるまでは、話したこともなかったし、それからは一度も話しかけられた事がないから、きっと好きとかいうのじゃないと思うわよ」
それを聞いて立石はこう思ったのだった。
“へぇ。それは、ちょっと調べてみる必要があるかもね”