第17話、白い影。
街道の南側の森を歩く際に、道しるべとなってくれるこの川を頼りに森の奥へと進む。
大木といって差し支えない広葉樹がまるで都会のビル群のように立ち並び、快晴であるにも関わらず陽光の大半は光合成の材料として吸い取られる。
それでも夜の森を歩くことを考えると、木漏れ日が映し出す森の姿には安心感すら抱ける。
この世界にも太陽があることに感謝しつつ、森の中を危なげなく進んでいく。
今の俺の黒ローブの下にはRPGでいうところの見習い冒険者装備と言わんばかりの初期装備を着込んでいる。
この装備より多少値の張る物を買ったところで実際の性能で言えば僅かな差だろうと思い我慢している。
基本は動きやすさ重視の装備だ。
ただ、背中で揺れている刀だけがミスリルソード並みの安心感を俺に与えてくれている。
ここに来るまでにはぐれのコカトリス一体、ウィンドウルフ三体、ゴブリン五体を倒しすべての魔石と討伐部位を回収している。
依頼としては魔石の回収だが、討伐部位を持って帰れば成功報酬と別に、討伐報酬がもらえるので討伐部位も回収しているわけだ。
肩にかけている麻袋もそろそろ重くなってきており、帰り道での魔物との遭遇を考えるとそろそろ帰路に着こうと思っていたときだった。
「……え?」
少し離れた木々の間から真っ白な毛に覆われ、頭部に二本の長い耳を生やした生き物と目が合った。
そう、ウサギだ。
いや、ウサギのはずだ。
だがそのウサギが顔を覗かせている位置がおかしい。
身長174センチの俺とほぼ平行の位置からそのウサギらしき生物は頭を覗かせていたのだ。
一瞬俺と目が合ったまま膠着していたウサギは次の瞬間にはその場から居なくなっていた。
「隠れ――、っ!?」
木の陰に引っ込んだのかと思ったが、直後に背後から迫りくる威圧感に咄嗟にその場から飛び退く。
背後からは何かが通り過ぎたような風が吹き付ける。
すぐさま刀を抜きながら起き上がると、少し離れたところに先ほどのウサギが”立って”いた。
その風貌はまるでボディビルダーに毛皮つきの全身タイツを着せ、頭部にだけウサギの頭を乗せたようだった。
背中が少し丸まって前かがみだったり両腕は前に構えて少し短かったりと、ところどころウサギらしい特徴を残してはいるものの、そのウサギは間違いなく二本足で立っていた。
「ラビットマンか!」
ギルドに置いてある森の魔獣図鑑に載っていた。
ラビットマン、その特性は図抜けた脚力にあり、主な攻撃方法はその速力を生かしたタックルだ。
一瞬視界から消えたとすら錯覚してしまう程の速度で繰り出されるタックル、まともに食らえば骨の一本ではきかないだろう。
魔獣にも討伐ランクというものがあるのだが、今日ここに来るまでに遭遇した魔獣はすべて単体で銅ランク、このラビットマンは単体で銀ランクに位置する魔獣だ。
しかも討伐ランクが銀ということは銀ランクの冒険者4人以上で編成されたパーティで負傷者を出さずに倒すことができるという目安である。
当然銅ランクの俺が一人で戦えば無傷ではすまないと誰でもわかる。
ラビットマンの脚力を考えると逃げるというのは無駄死に等しい。
今の俺の実力で言えばこいつに勝つことは難しいが……。
「やるしかねぇか!」
俺が声を上げると同時にラビットマンは落ち葉を舞い上がらせてまたしても俺の視界から消え去る。
乱立するこの森ではそのすべてがラビットマンの足場となり、三次元的な攻撃を可能にさせる。
俺は下手に動くことをやめ、その場でラビットマンの痕跡に意識を集中させる。
高速で移動するラビットマンの残像を目で追い、ラビットマンが着地し、跳躍する際に足場を蹴り付ける音を耳で追う。
最初はまるで消えたかのように見えた跳躍だったが、全神経を集中させれば慣れてきたのか、辛うじて目で追うことができるまでにはなってきた。
だが地中以外の全方位から攻撃できる奴の動きに、カウンターを合わせる余裕はなかった。
「ぐあっ!」
右後方からの突進を避けきれずに弾き飛ばされる。
直前で横にとんだおかげで直撃することはなかったが、巻き込まれた両足には痛みが残っている。
このままでは、ダメージが重なっていつかはまともに食らってしまうだろう。
こいつは削られる前に一発勝負するしかねぇな。
ラビットマンも再び木の陰へと飛び去り姿を隠している。
次の一撃になんとしてでもカウンターを当てる。
この世界に来て、おっさんに三尺刀をもらってから毎日欠かすことなくこいつを振ってきた。
手の平に出来たマメも、短い期間で何度も潰れてもはや硬くなってきている。
最近では魔獣を相手にすることも増えてきたが、基本的には一人でさまざまなシチュエーションを想像し、それに対する対抗策を考え何度もその型を練習してきた。
その中から今の状況に最も最適な型を選び出す。
風属性の魔石を持つラビットマンは、ウィンドウルフを凌駕する速力を以って、全方位から巨大猪のように直線的な突進を繰り出してくる。
そしてそれに対する、一撃必殺のカウンター技として最適な型。
右足を大きく引いて腰は低く、上半身から上は左に最大限捻り、三尺刀を持った右手で自らを抱え込み刀の峰は背中に軽く当てる。
残った左手は軽く柄に添えるだけ。
剣術で言う居合いの構えを更に捻ったような構え。
この構えを取った瞬間から俺には一歩も動く事は許されず、後は全神経を尖らせ、ラビットマンの動きを察知し、その瞬間にあわせて刀を振るだけ。
この一撃で仕留めることが出来なければ、間違いなく俺は死ぬ。
この世界で、死というものは俺たちの想像以上に身近なものだ。
こいつにさえ出くわさなければそれ程の危険はなかったはずだが、こいつと出くわしたという、唯それだけのきっかけで俺は今生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている。
わかってはいた筈のことがまだ理解仕切れていなかったのだろうか。
だが例えそうであったとしても、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。
この程度の苦難は乗り越えれなければこの世界では生きていけない。
サクラを守ることも。
サクラの笑顔が、別れ際の一個が頭を過ぎったその瞬間、集中力が跳ね上がった。
聴覚は木の葉の擦れ合う音や、森を抜ける風の音をシャットアウトし、ラビットマンが土や木を蹴る音だけを拾う。
だがそれ以上に視覚が鋭敏になったように感じられる。
先ほどまでならば、ラビットマンの白い影に集中して目線で追いかけていたが、今は逆に何も見ないでいる事で動き回るラビットマンの姿が勝手に視界に写る。
視界の外までは見えないが、今なら前方から突進してこれば確実に一太刀浴びせることは出来る。
視覚以外の感覚は後方に総動員して待ち構える。
前、左、後ろ、右、上、左、前……。
ラビットマンが俺を中心に半球状に飛び回る。
いつでも来やがれ。
視界の範囲の外側へラビット漫画飛び去ったのを確認した直後。
ダンッ、とこれまでより少しだけ大きな、木を蹴る音が鳴り響いた。
「後ろォ――、」
聞き逃して当然といえる些細な音の変化。
聞き間違えかも知れないと疑う間もなく。
「――斜め上ッ!!」
バネを限界まで引き絞った俺の体は一瞬にして解き放たれ、螺旋を描きながら大きくのけぞる。
刀を置いてけぼりに胴体を逸らし、天を仰ぐ俺の顔を見下ろすラビットマンと至近距離で目が合った。
その表情は感情を写しておらず、その無表情さが俺にとっては有難かった。
「死ね。」
生き残るために、俺は一切の躊躇も手加減も無く刀を振り抜いた。
そのまま無防備に倒れこんだ俺に襲い掛かる白い影は無く、鮮血を撒き散らした死体だけがそこにあった。