プロローグ
とある普通科高校の一室。
入り口に『1年3組』と書かれたプレートを掲げたその教室の前に教員が集まり、何やら騒ぎ立てている。
「あぁあぁぁ、うるっさい!黙ってろ全員殺すぞ!」
普段大きな声を出す事も無いからだろう、ヒステリックに裏返った声だったが、教員たちもそれ以上喚き立てる事はできなくなった。
遂に誰も口を開かなくなった教室を支配しているのは一人の少年。
その男子生徒の雰囲気は普段とはまるで違う。
知り合いが見れば一目で異常を察するであろうほどに、狂気をまとっていた。
白くて細い不健康そうな腕の中には一人の女生徒が抱かれている。
男子生徒とはまた種類の異なる、透き通るような白さの彼女の首にはサバイバルナイフが添えられていた。
「まぁ、どの道皆んな死ぬんだけどね。」
少年は先ほどとは一変して愉悦の笑みを浮かべる。
正気では無い。
彼を見上げる生徒たちは皆がそう思っているだろう。
だがそれはある意味で二重の意味で的を射ていた。
この少年は一度、嫉妬に狂って精神を病み、そして薬物に手を出して遂に本当に正気を失ったのだ。
ホームルームの準備のために着席していた、ほぼすべての生徒が自分の椅子から動き出せず、どこか感情が破綻したような笑みを浮かべている男子生徒をただ見上げることしかできない。
友人がナイフを突きつけられている現実に怯え、涙を流し、震えているものもいた。
彼らが感じているのはどのような感情だろうか。
おそらくは女生徒の身を案じたり、知り合いの凶行に理解が追いつかなかったり、あるいは次に刃を向けられるのは自分かも知れぬと慄いているだろう。
そんな中、幾人かは彼の凶行に憤りを見せたりする者もいる。
だがそれらの生徒とは明らかに様子が違う生徒が一人いた。
この教室で唯一犯人と女生徒以外で一番後ろの席で立ち上がっている少年。
「おい、ラリってんじゃねぇぞ。桜を離せ。」
彼から放たれた言葉は短い。
教壇に立つ生徒の異常を一目で見抜ける程度には、様々な人間を見て経験をしてきたその少年。
黒髪の奥から教壇に立つ男子生徒を睨みつける黒い瞳。
その視線の矢面に立たされた彼は、人質をとっている圧倒的有利な立場にいるにも関わらず純粋な恐怖を覚えてしまうほどだった。
「な、なんだよぉ!その目はッ!」
クラスメイトからは長門と呼ばれるその生徒に声を張り上げるのも、その一挙一動に怯え小刻みに震え出す体を押さえつけるための虚勢にすぎないのだろう。
ナイフの生徒と長戸という生徒のことを知るクラスメイトは、客観的には優勢であるはずのナイフの生徒に同情を禁じ得ない。
ナイフの生徒は普段から大人しく、毎日まじめに学校に来て、静かに授業を受け、学校が終われば寄り道もせずかえる。
ファッションにも特に興味はなく髪型も制服も学校の規則にのっとっている。
これで部活も完璧にこなしていれば、まさに学生の鑑といった生活態度の生徒である。
それに対し長門という生徒は中学校はまともにいかず、高校も彼女ができるまでは中学と同じようにまじめに登校はしてこなかった生徒だ。
学校指定のブレザーのボタンは全て開き、ネクタイはだらしなく緩み、白いカッターシャツの下には柄物のTシャツが透けている。
おまけに髪の毛は若者らしく小奇麗にセットされており、チェックのスラックスも流行の革ベルトでゆるく腰に引っ掛けているという風貌。
ナイフの生徒との共通点は部活動には参加していないというくらいだ。
これで髪の毛が染め上げられていれば、まさに不良少年の鑑といった生活態度の生徒である。
以上の点に踏まえた上に、中学時代の長門という生徒の噂を聞いたことのあるクラスメイトたちは、この状況に恐怖を抱きながらもやはり長戸という生徒をここまで怒らせたナイフの生徒に同情を禁じえなかったというわけだ。
彼らの事を知るクラスメイトの誰もが感じたその同情。
それは、まさかあのナイフの生徒が捕えられた彼女を本当に切りつけたりはしないだろう、例え切りつけたとしても本当に殺してしまったりはしないだろう願いにも近い推測があってこその感情だ。
怒りに震え、返答することもなく、教卓へと歩き出す彼も同じような推測をしていたのだろうか。
もしくはそんな推測はおろか、自分の行動がどのような結果を招くかすら考えられないほどの怒りに支配されていたのかもしれない。
「いいのかい?君が近づいたせいで桜ちゃんが死んじゃうよ?」
彼の行動の結果を示唆するように、ナイフの生徒は女生徒の首筋にその刃を添える。
冬の教室の冷え切った空気にさらされ、氷のように冷たく感じる鋼鉄の刃が首に当てられるのを感じ、女生徒は小さく悲鳴を上げた。
ナイフに熱を取られて、凍えているかのようにその体はふるえていた。
一瞬教室は凍ったように静止する。
歩を進めていた長戸という生徒ですら、歩みを止めた。
女生徒の悲鳴だけが反響する。
しかしそれは一瞬。
女生徒の悲鳴を引き金に、長門という生徒は弾かれた様に駆け出した。
教室の後方にいた彼がナイフの少年に到達するのに約3秒ほど。
「くそぉ!」
驚いたナイフの生徒はとっさにナイフを投げた。
彼は例えナイフを持っていたとしても自分なんかが勝てるとは到底思っていなかった。
ならば、ナイフを持っていても勝てないなら、素手になってどうするつもりか、と。
結論としては、彼の武器はナイフではなかったということだ。
彼の中で女生徒の死は確定していた。
長門と呼ばれる男子生徒の死も当然確定していた。
それはナイフを持とうがもたまいが関係なかった。
自分の見ている前で、散々毎日毎日体を寄せ合い、頬を染めたり笑顔を見せたり。
この半年間どれほど苦痛だったか。
嫉妬どころでは済まない、もはや憎しみと言える感情が毎日毎日彼を苛み続けていた。
だからこの二人を確実に殺して、自分も死ぬ。
この地獄から解放されるための準備を、着々と進めてきたのだ。
他のクラスメイトに特に恨みは無い。
だがどうせ自分は死ぬのだ。
誰が巻き添えになろうが知った事では無い。
そこまで思える程に彼は狂っていた。
だからこそ、十分に計画を立てて事に及んだ彼にとってナイフなど、文字通りただの捨て駒でしか無い。
彼の奥の手は別にある。
しかし、文字通り長門という生徒に向けて投げ捨てられたナイフは偶然か必然か、幸いなのか災いなのか、迫り来る男子生徒の右目に突き立った。
再度教室を覆う静寂。
「うがあああああああああああぁぁぁぁあ!」
予想外の出来事をようやく理解し、痛覚を認識した長門という生徒の悲鳴が静寂を破る。
クラスメイトたちも一拍遅れ、彼の悲鳴につられるように叫び声をあげる。
このとき、ようやく犯人のナイフという枷から開放された生徒たちが動き始めた。
右目を抑えて床にうずくまる男子生徒にむかって、女生徒を人質にとっていた男子生徒にむかって走り出す。
しかし大半は未だ動けずにいるか、逃げ道となる教室のドアに向かって走り出した。
ナイフの生徒は嗤っていた。
教室から逃げようとして、教室のドアがしまっていることに焦っている生徒を見て。
右目にナイフが刺さるというグロテスクな映像に耐え切れず逃げることも忘れ、床にへたり込む生徒を見て。
女生徒を救出しようと自らにつかみかかってくる他の男子生徒をみて。
そして、自らを狂気に至らしめた長門という男子生徒が、血にまみれ、絶叫しながらも、右目から抜いたナイフを右手に襲い掛かってくるのをみて。
ははははは、と。
彼が笑っているのは、長門という生徒の持つナイフが実は刃のないサバイバルナイフだからというわけではない。
「地獄に落ちろ。」
狂乱の教室が再三、一瞬だけ無音になったかのように。
彼の声だけがが響いた気がした。
その後に続いた爆音の意味を理解できた生徒はどれだけいただろうか。
基本的に1人称、たまーに3人称でいこうと思っております。
燃料ください。