1 手名椎ゆゆは不慣れな町と出会いに怯える
遅くなりました…
思えばいつだってそうだった、と手名椎ゆゆは振り返った。
初めて会った人とはうまくしゃべれず、ゆゆの母の後ろにひっついていた。彼女がいなかったら、全然ダメだ。どのように話しかけられたとしても、返事すらできず……相手の子はしだいに気が立っていって、罵られて、結局ゆゆは泣き出すことになる。
保育園でもスクールでもイジめられていた。髪を引っ張られたり、仲間外れにされたり、悪口を言われたりなど、他愛もないことだったが。しかしそうやって笑いながらイジめてくる男の子たちは、ゆゆの目には悪鬼のように怖く見え、何も言えずに泣いているだけだった。おそらく、それが助長する一因になったのだろう。そんなだったため、お母さんに勧められてもシティのクラブには入らなかった。
だが、能力者の人たちが一番怖い。「能力者はどこか狂ってる」「変だ」とゆゆはよく聞くが、やはり小さいころの記憶はトラウマに近くなっている。実力主義の彼らは、警備の任を務めてはいたはずだが、あまり民衆を積極的に守ろうという様子ではなかった。町で出会っても――ゆゆの被害妄想が多数含まれているだろうが――睨みつけてくる人ばかりだ。能力を使って戦っている場面に出くわしでもしたら、ゆゆは体が震えて動けなくなってしまう。涙だけがぽろぽろこぼれてくるのだ。
小さいころからゆゆは臆病だった。できるのは泣くことばかり。17歳になった今だってそうだ。
しかし、昔よりはマシになっただろう。
今だって、銀髪の見知らぬ男に詰め寄られながらも、泣き出さずなんとか応対しているのだから。
「あの……えっと、だから……っ。わ、わたし、知りませんっ」
「ああ?知らねえはずないだろ」
「ひっ――ほ、ほんとうに知りませんっ」
アパートの部屋の前で突っ立っていたこの男。遠目からそれを確認したときから、嫌な予感はしていた。だが、引っ越し初日からそんな変なことも起こらないだろうと、そう過信していたのが間違いだったのだ。だが、誰が想像できるだろうか?見知らぬ男が部屋の前で待っていて、自分のことを知っているなどと言い出すとは。「俺のこと覚えているか?」その質問に、ゆゆは頭が真っ白になったのだ。
「だってお前――手名椎ゆゆだろ?」
男はアパートの部屋の前についている表札をながめながら繰り返した。今朝荷物を業者に運び入れてもらって、これから初めて部屋に入るところだった新居だ。表札は後から自分でつければよかった、とゆゆはいま半ば後悔している。しかしたとえそうしていたとしても、いずれこの男はゆゆの部屋を訪ねてきただろう。
「はい、確かに私はゆゆです…」
「……クッ、名前呼びとか卑怯だろ…」
「へ?」
「いや、何でもない。お前がゆゆなら知っているはずだ。俺は、きゅ――いや、雨森九馬だ。ちゃんと記憶を確認してみろよ。知ってるだろ?」
アメノモリキュウマ。本当に記憶にない。もしかしたら、新手の恐喝だろうか?ゆゆはそこまで想像し、体を震わせた。たとえそうだとしても、誰がゆゆを助けてくれるだろう?能力者のチームに入っていて、いま現在も紛争に関わっています、といっても否定できない、
「ほ、ほんとうに、わたし知らなくてっ。あの、す、すみませ……」
「チッ」
舌打ちされた。どうしよう。目の前の男の額には、綺麗に深い皺が刻まれている。それさえなければ、ゆゆと同い年と言われてもおかしくはない――綺麗な顔立ちをしているのに、その皺のせいで、二十代後半と言われても頷ける、年齢不詳となっている。頭には黒いニット帽。趣味なのか、そのほかの服もほぼ黒だ。紛争中の町では珍しくもないが。
怖い。ゆゆの頭をその感情が支配しようとしていた。よくよく考えれば、この男がゆゆを害する気はあまりないとわかっただろう。これだけ問答を繰り返しておきながら、いまだその気配はなかったのだから。しかし、見知らぬ男に話しかけられたゆゆは、見慣れぬ町で緊張していたこともあったのだろう、ただそれだけの事実で恐慌に陥っていた。
とにかく怖い。銀髪も。黒づくめの服装も。他人がゆゆのことを知っていることも。眉間の皺も。現れる気配もない通行人も。微妙にいい天気の青空も。
「あああの、用がないならわたし、え、えっとこれで失礼しましゅっ」
噛んだ。思わず涙がこぼれそうになる。
「おいちょっと待てよ」
もう逃げよう。さいわい、部屋は目の前にあるんだから。
ゆゆは男に背を向けて、部屋の鍵を開けようと鞄をあさった。
――だが鍵が出てこない。
横のポケットに入れたはずなのに。後ろには男がいるのだから、早く開けなければならない。そうでなければ――すぐ逃げなければどうなってしまうのだろう?振り返ればとんでもないことが起こりそうで――男がナイフを振りかざして襲ってくるだとか――ゆゆはどうしようもできなかった。
だが冷静さを失った頭では、鍵を見つけ出すことなどできない。パニックに陥ったゆゆの手から鞄がすべりおちた。
「あっ」
紺色のかわいらしいスクールバッグを受け止めたのは、銀髪の男だった。
「鍵がないのか?落ち着いて探せば見つかるだろ――ほら、あった」
鍵は簡単に見つかった。最初にないと思った、内ポケットの中にちゃんと存在していたのだ。ゆゆが気が付かなかっただけで。
ゆゆは男の手の中にある鍵を見つめた。
彼が鍵を持っている――わたしの鞄も――これでは、わたしは家の中に入ることができない。
不慣れな町に緊張している中で、突然の遭遇、さらに自分の物を相手が所有しているという状況に、ゆゆの頭は完全に暴走を始めた。
「ゆゆ、落ち着いて聞いてほしいんだが……」
彼はわたしをこの場にとどめおこうとしているんだ。
だから鍵と鞄を奪った。
……奪った?
うそ、こわい!
わたし、やだ、嘘でしょ、だって鍵がないと逃げられない――
「……えして……さい」
「は?」
「返してくださいっ。返して!」
ゆゆは呆けたようにこちらを見やる男の手から鍵と鞄を奪い取ると、さきほどまでが嘘のように、パッと鍵をあけると部屋の中に入り、即座にふたたび鍵をしめた。そして大きなため息をつき、ずるずると扉にもたれかかる。
インターホンは鳴らなかった。諦めて帰ったらしい。
「はあ……なんなんだったんだろう」
そもそも、ゆゆは今日やっとこの町に来たのである。
進学テストに5回連続で落ちたためだった。さすがの夜々――母もキレた。というか、むしろゆゆの将来を心配して怒鳴り散らしたようだった。確かに、第3レベルのテストに落ちる者はめずらしくもないが、これが5回も続くとかなりヤバイ、とゆゆも自覚している。
元々金によってゆゆを甘やかしていた夜々は(金を与えていればいいと思っているふしがある)スクールに彼女を放り込むことを決めた。そうして選び出されたのがエリュオン・スクールを中心としたエリュオン・シティである。その特質から住人には若者が多いようだが、それはゆゆにはあまり関係がない。
本当は、無理に人間関係を強要する学校にはあまり行きたくがなかった。しかしこう突きつけられてはしかたがない。
明日から学校に行かなければならないのだから、もうちょっとゆっくり支度をしたかったのだが、変に子離れのすんでいない母(自分の都合のいいときだけ、ゆゆを可愛がるのだ。ペットに近いとゆゆは思っている)に引き留められ、ギリギリの日程となったのだった。
だから、この町に知り合いがいるはずがない。
プルルルル、プルルルル
「きゃっ!?」
ゆゆは飛び上がった。先ほどの邂逅からいまだに震える体を無理に押しとどめて、そろそろと部屋の中に入り受話器をとる。友達も少ないためインカムを買って使ったこともなく、ゆゆにとって電話とは固定電話だった。かつ、あまり慣れていないものでもある。
電話の相手は予想通りだった。
「はい……手名椎ですけど」
「あら、ゆゆちゃん。私よ、私。うふふ、私以外にゆゆちゃんに電話をかける人なんていないでしょ?」
「お母さん、うん、そうなんだけど……あんまり言ってほしくないっていうか」
ゆゆに友達が少ない――言ってしまえばいないのは事実だ。しかしあまりそうはっきりと言ってもらいたくはない。
「あのね、言い忘れてたんだけど、あなたがそっちで大変だろうと思って、助けてあげってお願いしたから」
「え、誰に?そんな知らない人にお願いされても困る!逆に迷惑だから!」
ゆゆがそう叫ぶと、夜々――ゆゆの母はけらけら笑った。
「大丈夫よ、ほら、よく遊んでもらったじゃない」
「え?」
「ほら、昔そっちに住んでいたころに――もしかして、そのことまで忘れてたの?」
うん、とはさすがに言えず、ゆゆは黙った。その沈黙のせいで伝わってしまったようだが。
「何のためにエリュオン・シティを選んだと思ってるのよ。あなたが、そうねえ、八歳くらいまでそっちに住んでたのよ。そのころ面倒みてもらってた、近所のお兄ちゃん――ほら、覚えてない?あなた、めずらしく、きゅーちゃんきゅーちゃんって呼んでなついてたじゃない」
「きゅーちゃん……」
海馬のどこかから、記憶が掘り返されようとしていた。
「確か――銀髪だったかしら。今は一人暮らししているらしいから、なんだったら泊まりに行って捕まえちゃいなさいよ」
銀髪。
頭の中で、銀髪の少年が不器用に微笑んだ。
どうしよう。すごく、ものすごく覚えがある。さっきは全然知らないとか言っちゃったけど。
「お母さん……その、きゅ、きゅーちゃんって、名前何て言ったっけ」
「あら、思い出した?雨森九馬よ」
「うわああああん!あの人だあああああああ!!」
「ちょっと、ゆゆ!?」
思えばいつもそうだった、とゆゆは振り返る。
泣いたときはぎゅっとしてくれた。
初対面の人との間を取り持ってくれたのは、銀髪の少年だった。
イジめられたとき、代わりに怒って大人気なく仕返しをしたのも銀髪の少年だった。
能力者同士の戦いに出くわしたとき、抱きかかえて助けだしてくれたのだって銀髪の少年だった。
「きゅーちゃん」だった。
手名椎ゆゆ(てなづち ゆゆ)
気弱な少女。エリュオン・シティに引っ越してくる。
明日から学園に通う予定。
いつかれもんが挿絵を描いてくれると思うよ!(期待笑)