第02話 ‐楓と周‐
祇弦に助けられ、意識を取り戻したあの日から二ヶ月程の時間が経った。
後から聞いた話なのだが、私は七日ほど眠り続けていたらしい。
傷の具合から、それが長すぎる眠りなのか、短すぎるのかは私には分からなかったが、資源達は後三日待って目覚めなかれば諦めるつもりだったと言っていた。
その話を聞いた時、私は冗談めかして、「いっその事、諦めてくれたら良かったのに」と言ったら、祇弦の妻である『杏』に本気で怒られてしまった。
普通にしていれば、二人は私にとても良くしてくれるのだが、稀にこういった冗談を言うと、物凄い剣幕で杏が怒る。
祇弦の家族と触れ合うようになってからは、死にたいという気持ちは殆ど無くなっていたのだが、時折ふとそういった感情が頭を擡げる事があった。冗談もそういった感情が湧き上がった時に言っていたのだが、まぁ、二人にそれがわかるはずもなく、本気で心配して怒ってくれていたんどあろう。
「月姉ちゃーん!」
庭先でボーッとしゃがみこみ、池の鯉を眺めていると、屋敷の中から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
ここひと月ほど、毎日の様に聞いた声。声の調子からみて、どうやら私の事を探しているようだ。
私はさして広くもない池を、悠然と自由に泳ぎ回る鯉を名残惜しげに見つめながら、声の聞こえる屋敷の方へと向かった。
屋敷と庭を繋ぐ、縁側のように突き出た広い出入り口に差し掛かったところで、声の主が私を見つけ飛びついてきた。飛びつかれた私はというと、丁度屋敷に入ろうと片足を縁側へとかけていた所だったので、思わずバランスを崩してしまった。しかし、抱きとめた者の体重は軽く、なんとか転倒せずに踏み止まる事に成功する。
「なんですか、もう……。いきなり飛びついてきたらダメでしょう?」
「えへへ。ゴメンなさい」
屋敷へ上がろうとしていた足を止め、その場に抱きとめていた、まだ八才になったばかりである祇弦の末の息子の『周』を下ろし、縁側部分に共に腰を下ろした。
「それで、どうしたの?」
隣に腰掛けている周の頭を撫でながら、優しく尋ねる。
「えーっとね。なんだっけ?」
「私を探していたのに、私が周の用事を知るわけないでしょう」
私に伝える事をド忘れしたのか、私の顔を覗き込みながら聞いてくる周の額に、少し呆れた様子を見せながらデコピンをお見舞いした。
周はデコピンに対して抗議を上げず、額を摩りながら、用事を思い出すのに専念し始めた。
数分、頭を抱え込みながら思い出そうとしていたが、本当に思い出せないのか、「う~ん、う~ん」と唸ってばかりいる。
私に用事があって探していたはずが、なかなか見つからなかったので、見つからない私を探す方へと目的が入れ替わってしまった。故に、最初の目的がなんだったのかを忘れた。ま、こんなところだろう。
「時間はあるから、ゆっくり思い出して」と言って私は微笑む。
未だ考え込んでいる周を尻目に、私は縁側から庭先を眺め始めた。
庭はとても広く感じる。
植えられている木々も、しかkりとした手入れがされていて無駄な広がりは見せておらず、子供であれば駆け回るのには十分なほどだ。しかし、屋敷を中心にぐるりと囲むように建てられている塀は思いの外高く建てられており、その先の様子を伺う事は出来ない。
私は、時折吹く暖かなそよ風を全身で感じながら、空を仰ぎ見る。
起き上がれるようになってからは、時間を見つけては空ばかり見ている気がする。
その空は、ここ数日の青空を象徴するように、今日も雲一つ無い快晴の空だった。
そろそろ周が、頭から湯気でも上げているのではないかと思い始めた時、背後から助け舟が出された。
「周。月さんのお話を聞きたかったのでしょう?」
「あ! そうだった!」
見上げていた空から目を離し、美しく透き通った声の方向にゆっくりと振り向く。
屋敷の奥へと続く扉の所に、三姉弟の一番上である『楓』が立っていた。
私とは同じ女性というのと、年齢が十七と近い事も有り、この楓とはよく話をしていた。
「それから周! 扉は開けたらちゃんと閉めること!」
優しそうな顔のままだが、言葉ではしっかりと弟の事を叱りつける。姉弟の中では一番付き合いの長い楓だが、温和な普段の態度からは想像もつかないくらいの厳しさを、ここに来てから多々見ることがあった。その度に、本当に同一人物なのだろうかと、思い悩んだものだ。
「月さん。よろしければ、何かお話を聞かせてくださいな」
楓が扉の所から、静々と歩み寄ってくる。
豪華な着物でも着せれば、それだけで絵になりそうな美しい容貌の持ち主だが、本人はあまりそういった着物は好まないらしい。今も、簡素な上着と長ズボンといったように、質素な衣服を纏っている。
衣服には無頓着なのかと思いきや、長い髪を後ろで結わえている髪飾りは、豪華というほどではないが、とても綺麗で細かく美しい蝶の細工が為された物を使用している。
本人曰く、
「服は丈夫で動きやすい物の方が過ごしやすいから、この手の衣服を好みます。しかし、自分も女。身につける物の一つくらいは、煌びやかな物を使用したいのです」
との事らしい。
同じ女である月の感性をもってしても、納得できなくは無いが、理解はしたくない。
正直に言って、楓の出で立ちはアンバランス過ぎるのだ。
美しい女性は何を着ても映えるというのは、おそらく間違った認識だったのだろう。
「失礼しますね」と一言断ってから、楓は月を挟んで周とは反対側に腰掛けた。
座る仕草一つとっても、どこか気品のようなものを感じるが、やはり着飾る衣服のアンバランス差が残念だ。
私が、そんな残念美人に対して吐いた短い溜息には、気づいていませんよとでも言うように、ニコニコとした笑顔を向けてくる。
「それで、今日はどんなお話をしてくださるのでしょう?」
「お話……ねぇ」
話を聞かせてあげる事に了承したわけではなかったが、どうやら楓の中ではすでに決定事項になっていうようだった。
私は再び、軽く溜息を吐く。
私が知っている話なんて多くはない。何せ、生まれてこの方、この世界に迷い込むまでは、祖父と二人での山暮らしだったのだ。祖父が街に降りた時、稀に調達してくる小説などはよく読んではいたが、それらの話は姉弟と仲良くなる過程で粗方使い切っていたのだ。
そんな私の事情なんて知らない二人は、まだかまだかと言うように、期待の眼差しを向けてくる。特に左隣に座っている周の視線が痛い。いっその事逃げ出したかったが、そうすると周がへそを曲げそうだ。
さてどうしようかと思案していると、妙案が浮かんだ。
「それでは、今日のお話は、見知らぬ世界に迷い込んだ少女の物語を……」
ようやくお話を聞けるのが嬉しいのか、周は居住まいを正して、一字一句聞き逃さないとでもいうように、真剣な顔を向ける。
楓もそれに同調するかのように、口元は微笑んだままゆっくりと目を閉じた。
コホンと咳払いを一つしてから、物語を語り始める上での常套句である「昔々、ある処に…」と続け、今から語る物語の冒頭部分を話し始めた。
☆★☆★☆
ある処に、可愛らしい少女がいました。
少女は、山の上の木で作られた小さな家に、お爺ちゃんと暮らしていました。
ある日、少女が食べ物の木の実を探している時に、大きな熊が少女の前に現れました。
熊は言いました。
「お嬢さん。何か食べるものを持っていないかい?」
熊は腹ペコで今にも倒れてしまいそうだとも言いました。
少女は運の良いことに、先ほど集めた木の実を持っていました。しかし、この木の実はお爺ちゃんと二人で食べようと思って集めた物でした。熊に上げてしまえば、また食べ物を探し回らねばなりません。だけど、腹ペコの熊を見捨てることは出来ませんでした。
「熊さん。少ないですけど、これをあげましょう」
そう言って、木の実を籠から取り出し熊に手渡します。
熊は喜んで、籠の中の木の実を食べました。
「もう無いのかい?」
籠の中の木の実を食べ尽くした熊は、少女に訪ねました。
あいにくと少女が集めた木の実は籠の中にあったものだけでした。
もう木の実は無いと告げると、熊は少し困った表情を浮かべました。
「それなら仕方がないね。よし、それじゃあ一緒に食べ物を探しに川へ行こう。川に行けば魚が沢山いるよ」
木の実をあげてしまった少女にとって、それはとても魅力的な提案でした。
少女にとって魚はとても御馳走だったのです。
「わかったわ。熊さん、一緒に行きましょう」
熊の提案を快く受け、熊と一緒に歩きだします。
熊に先導され、やがて川へと辿り着いた少女は、川で勢い良く跳ね回る魚達を見て驚きました。
熊の言ったとおり、そこには沢山の魚がいたからです。
「熊さん!凄いです!こんなにお魚さん達がいます!」
「ああ、そうだね」
少女は熊を追い抜いて川岸まで走っていきました。
熊も少女の後に続いて川岸までやってきます。
「でも、熊さん。お魚さんはどうやって捕まえるの?」
少女は魚の捕り方を知りませんでした。
「餌があれば捕まえられるよ」
熊は答えます。
「餌はどこにあるの?」
少女は餌に何を使えばいいのかもわかりません。
「大丈夫。ここにあるよ」
そう言った熊は、のそりのそりと少女の方へと向かってきました。
やがて、そばまでやってきた熊は少女の前で立ち止まります。
「何が餌なの?」
大きな姿を見上げながら、少女は熊に訪ねました。
すると熊は突然笑い声をあげました。
「わははは!お前が餌になるんだよ!」
少女は熊の大きく毛深い腕に抱え上げられ、川へと投げ込まれてしまいました。
「何をするの熊さん!」
「がははは!馬鹿な人間め!騙された気づかなかったのか。お前を餌にするためにここまで案内してきたのだよ!」
「そんな!酷いわ!熊さん」
わっぷわっぷと必死にもがきますが、少女は泳げませんでした。それでも必死に岸を目指します。
このままでは溺れて死んでしまいます。
そんな少女を憐れに思ったのか、川の魚達が熊に非難の声をあげました。
「なんて酷い奴だろう!お前は山で暮らす生き物の風上にも置けない!」
沢山の魚達が口々に熊を非難していきます。
そしてそのうちの何匹かの魚達が少女の方へと向かっていきました。
「憐れなお嬢さん。僕達が君を助けてあげよう」
「助けてくれるの?」
「ああ、助けてあげるよ。僕達が安全な下流まで運んであげる」
そう言って魚達は少女の下に潜り込み、全身で少女を持ち上げて支えました。
ようやくと水面に顔を出せた少女は、魚達にお礼を言います。
「ありがとう魚さん」
魚達はその言葉に照れてしまい、何も言葉を返せませんでした。
「下流へはどれくらいで着くの?」
「そうだなぁ。多分、一眠りしている間に着けると思うよ。僕達がしっかり支えていてあげるから、だから、君は寝るといい」
食べ物を探すのと、溺れかけたので、すっかりくたくたになっていた少女は、魚達の言葉を聞いて安心し、ゆっくりと目を閉じました。
私がこの世界に至る前の出来事を大幅に脚色し、二人に聞かせた。
二人は真剣に話を聞いている。
ここで、物語の主人公が、実は私だとバラせばどういう反応をするだろうか。そんな好奇心が頭をもたげたが、すぐに好奇心を振り払う。
本当の事を話すのはもっと後になってからの方がいいだろう。その方が驚きも一層増すものだ。
私は、「ふぅ」と一息吐き、続きを思い出すように記憶の引き出しをゆっくりと広げいった。あの後はどうなった?
空を仰いだ後、ゆっくりと目を閉じた。あの時の光景を思い出すように……