口が悪い?これでも抑えてた方ですが
「了解しました、じゃないだろぉぉ!!!」
とても声が大きい、とシャルロット・ヴォルフラート伯爵令嬢は思った。
エステバル侯爵邸の廊下は天井が高い。おかげでエリオットの怒鳴り声は綺麗に反響して、耳に二度届く。一度目で内容を理解し、二度目で返す言葉を飲み込む。
「私は君の目上の存在だ! 承知いたしました、と言いなさいと、何度言ったらわかるシャルロット!」
目上。確かにそうだ。侯爵家と辺境伯家。家格でいえば向こうが上で、年も二つ上。反論の余地はない。
ただ、目上の人間に向かって「了解しました」と答えることがどれほど罪深いのかは、三年経った今でもよくわからなかった。意味は通じているし、返事としても成立している。むしろ一音短いぶん効率的ですらある。
もちろん、そんなことは口にしない。言えば倍になって返ってくるから。
「……はい、すみませんでした」
「はい、ではなく、仰る通りでございます。すみません、ではなく、申し訳ございませんでした、だ。君はこの三年間、何を学んでというのだ?」
ため息をつくエリオットに、シャルロットはこくりと頭を下げた。
彼女は冷めたスープを一口飲んだ。エリオットが怒鳴っている間に冷めるのだ。毎食のことだった。
「シャルロット。君は自分が恥ずかしくないのか」
シャルロットは何も答えなかった。
答えれば、その答えの言葉遣いをまた指摘され、黙っていても、今度は返事をしないことを叱られる。三年もいればそれくらい覚える。
口が悪い、と彼はよく言う。
否定はしない。事実だからだ。
ただ、ひとつだけ言わせてほしいことがある。
これでも、抑えている方なのだ。
◇
婚約が決まったのは、シャルロットが十六、エリオット・エステバルが十九のときだった。
政略的なものである。エステバル侯爵家は王都の中枢に近く、ヴォルフラート辺境伯家は北の国境を預かる武の家だ。中央と辺境を結ぶ良縁だと、双方の当主の了承のもと、成立した。
初対面の日、シャルロットは彼に手を差し出してこう言った。
「シャルロットです。よろしく頼むます」
エリオットの顔から血の気が引いていくのを、彼女は不思議な気持ちで眺めていた。
何かまずいことを言っただろうかと本気で考えた。名乗って、よろしくと言った。それ以外に何をすればよかったのか、と。
淑女教育は、受けたことすらなかった。実際、シャルロットの言葉は雑で、まっすぐで、余計な飾りがなかった。
故郷でそれが問題になったことは一度もなかった。むしろ「言葉が短い奴は信用できる」と言われて育ってきたくらいだ。長く喋る人間は、たいてい何かを誤魔化している、とよく父からも言われていた。
だから王都に来た当初は、本当にわけがわからなかった。
「行けない」ではだめで「伺えません」と言う。「わかった」ではだめで「かしこまりました」と言う。「そうだね」ではだめで「左様でございますね」と言う。
二倍の音を出して、同じ意味を伝える。それが淑女で、それが礼儀、というものらしい。
十七になった年、シャルロットはエステバル邸に移り住んだ。最初の顔合わせでのシャルロットの無礼さを危惧したエリオットが、輿入れ前の教育を名目に呼び寄せたのである。
そこで、彼が連れてきたのは、フローラ・リンドバルという子爵の令嬢だった。
「彼女は淑女教育の傑作と呼ばれています。彼女をよく見て、よく学びなさい、シャルロット」
そう言って部屋に招き入れられたその人は、なんというか、絵になるような人だった。
まず歩き方が違う。腰から上がまったく揺れない。裾が床を撫でる音すらしない。紅茶を注ぐときの手首の角度が滑らかで、指が一本も余計に動かない。椅子に座るとき、彼女は音を立てなかった。
「フローラ・リンドバルと申します。シャルロット様、本日よりよろしくお願いいたします」
声まで自分とは違う。高すぎず、低すぎず、部屋のどこにいても同じ大きさで届く声。
その挨拶を聞き、エリオットは満足げに部屋を出ていった。本物を前にすればシャルロットが自分の粗さを思い知る、とでも思っているのだろう。
扉が閉まる音がしてから、シャルロットは身構えた。
「よろしく頼むます。だが、あんまり期待しないでくれ。私は覚えが悪いのですので」
フローラはしばらく彼女を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「承知いたしました。では、期待しないところから始めましょう」
「お、怒らないのか」
「なぜ怒るのです?」
「その、私の言葉遣いが」
「シャルロット様。わたくしは言葉遣いを教えに来たのであって、言葉遣いに怒りに来たのではありませんわ」
シャルロットはそれを聞いて少しだけ驚いた。
新しい教師というのは、まず生徒を測るものだ。どこまでできるのか、何が苦手か、家ではどんな教育を受けてきたのか。フローラはそれをひとつも聞かず、椅子に座って、いきなり本題から始めた。
フローラの教え方は、エリオットのそれとはまったく違った。
「間違いだ」と言わない。「もう少し柔らかくできますね」と言う。「だめ」と言わない。「別の言い方も持っておくと便利ですわ」と言う。
雇われの身だから、という理由もあるかもしれない。だが、だが、雇われの人間は金を払う側の顔色を見るものだ。
この屋敷で金を払っているのはエリオットであって、シャルロットではない。
なのにフローラは、エリオットが同席している場でも、一度として彼の側に立たなかった。シャルロットの言葉遣いが酷い、と加勢はしなかった。ただ黙って紅茶を注ぎ足す。
シャルロットはそれを、優しさだと思った。
◇
シャルロットの覚えは、決して悪くなかった。
半年ほどで初対面の相手なら違和感なく騙せる程度になり、一年で社交の場を難なく切り抜けられるようになった。
ただ、一番苦戦したのは、カップの置き方だった。
「シャルロット様。今、音が鳴りましたわ」
「普通、鳴るだろ。陶器と陶器だ」
「鳴りません」
フローラは自分のカップを持ち上げ、そのまま皿に戻した。無音だった。
「最後の指一本分を、腕ではなく指で下ろすのです。腕は途中で止めて、あとは指が置きに行く。それだけです」
シャルロットは真似をした。かたん、と鳴った。もう一度やった。かたん。三十回目でようやく音がかすかに消えた。
「できたではありませんか」
「できたが、毎回できるかと言われたら無理がある」
「それでもいいのです。今すぐにできるのであれば、努力は必要ありませんので」
「そ、そうか?」
「ええ。それに、いずれ武器になりますよ。この音は会話に使えますもの。少しだけ強く置けば『その話は好みません』。無音で置けば『続けてどうぞ』。皿の縁に触れさせて置けば『そろそろお開きに』」
「口に出したら角が立つことを、全部それでやるのか」
「そうです。ですが——」
フローラはシャルロットの手の甲に、手を重ねた。
「本当に大事な話のときは、口で言うのですよ。カップに逃げてはいけません。それだけは覚えておいてください」
シャルロットの淑女としての礼儀はみるみる改善していった。エリオットとの顔合わせの頃と比べてもよっぽどのものだった。
そのはずだったが、エリオットはそれでも満足しなかった。
婚約から二年が経ったある朝、彼が革張りの手帳を持って食堂に現れたとき、シャルロットは頭を抱えた。
「今日から記録します」
「何をでしょうか」
「君の失言ですよ。昨日は十四回でした。一昨日は十六回。若干の改善傾向は見られますが、まだまだ多い。当面の目標は一日三回以下です」
悪意はない。本気で、シャルロットのことを思っての行動なのだろう。
だが、シャルロットにとっては、それが一番どうしようもなかった。悪意なら殴り返せばいい。だが、善意は殴れないのだから。
その日から、シャルロットは食事のたびに、彼が手帳に書き込む音を聞くことになった。ペンが紙を擦る細い音だ。口を開くと、その音がする。
それから半年ほどで、記録は一日二回まで減った。
「まだ二回もありますね」
しかし、エリオットはそれを見て、褒めるでもなく、そう言った。
記録はやがてさらに厳しくなり、食卓の外にも及んだ。
侍女への指示、庭師への挨拶、屋敷を訪れた商人との受け答え。彼は廊下の陰でそれらを聞き、夜になってから列挙した。
「今日、庭師に『助かった』と言いましたね」
「……はい、申し上げました」
「正しくは、ありがとう、です。助かった、では上から物を言っているように聞こえる。君は彼らよりも、自分の方が上だと思っているのですか」
シャルロットは黙った。彼女の生まれた北では、助かった、は最上級の礼だ。命を救ってくれたときなどよっぽどじゃないと使わない言葉なのだから。
だが、エリオットに説明したところで、話が長いとまた咎められるだろう。そう思ったシャルロットは、結局、何も言わなかった。
「しかし、参りましたね。君はいつになったら、完璧な淑女になれるのですか? 三年もこれだけ投資して、フローラという教師もおりながら、著しい成長はまるで見られない」
「お言葉ですが、完璧な令嬢にはなれません、エリオット様」
「? 口答えするのか? 君をここまで想って、申し上げているというのに? 君はフローラ嬢のようにできないのですか。彼女の淑女としての佇まいを間近で見ているのに、終いには、君をここまで想っている私にこのような仕打ちを?」
「……すみませんでした」
そのうち、シャルロットは彼の前で口を開くのが怖くなった。
大げさな表現ではない。本当に喉が動かなくなるのだ。何か言おうとして、まず頭の中で言葉を組み立てる。組み立ててから間違っているところはないか、と文を確認する。だから黙る。黙っていると「返事もできないのですか」と言われる。
慌てて口を開く。慌てているから、素の言葉が出る。
「もういい。部屋に戻りなさい」
「了解しまし──」
「だから、了解しました、じゃないだろぉぉ!!!」
と、結果こうなってしまう。
◇
それから少しして、エリオットが急に上機嫌になる日が増えた。
理由はすぐにわかった。彼の方から嬉々として話してきたからだ。
「シャルロット。君は、アンスロットという名を知っていますか」
シャルロットはパンをちぎる手を止めた。
止めてから、また動かした。
「……はい、存じております」
「そうでしょうね。知らない者はいない。今や生ける伝説だ。十代でSランクに上がり、東の谷の竜を落とし、南の大氾濫を止めた冒険者。近頃は表舞台に出てこないが、それがまた良い。真の英雄は自らを語らないものです」
彼は上着の内側から一通の封筒を取り出した。
「そんな彼と、文通が始まりました」
「……はぁ」
「はぁ、ではありません。文通です。あの方が私と」
エリオットは封を開け、便箋を広げ、彼女に見えるように掲げた。彼女の位置から文字は見えなかった。
「読んで差し上げましょう。よく聞きなさい。これが本物の言葉というものです」
咳払いをして、読み上げた。
「『手紙を読んだ。私のことを応援してくれるのは、嬉しいことだ。——アンスロット』」
「…………」
「見なさい、シャルロット。この簡潔さを。この無駄のなさを。装飾を一切排して、意志だけを届ける。これこそが強者の言葉です」
「……はい」
私が同じ言葉を使ったら一時間は説教されるんだろうけど、という想いを、シャルロットは紅茶と一緒に飲み下した。
以来、アンスロットの手紙が届くたびに、彼はそれを読み聞かせるようになった。
これは彼なりの善意だったのだと思う。自分が憧れる人間の言葉を聞かせれば、この女も何かを学ぶだろうと。
そのうち彼は、返事の作成をシャルロットに手伝わせるようになった。
「『お手紙、拝受いたしました。これからもご贔屓に何卒よろしくお願い致します』で、どうでしょうか」
「硬い」
「では、『ありがとうございます。これからもご贔屓に』は?」
「粗野ですね」
「では、どのように書けばよろしいので?」
「『貴殿より賜りしお言葉、この胸に深く刻み込む所存にございます。ご懸念の件につきましては、我がエステバル家の名にかけて──』」
手伝いというよりも、正確には、シャルロットに返事の案を出させて却下する遊びだったのだが。
当然だ。これほど大事な相手への返事を、彼女に任せるわけがない。彼はただ、憧れの人との文通を自慢したかった。そのついでに、彼女の言葉遣いを直したかった。たったそれだけのことだ。
だから、シャルロットはいつも黙って清書した。自分の案が一度も通らないまま、彼の書いた長い文面を、彼の望む字で写す。それが数ヶ月続いた。
そして、ある日の一通だった。
エリオットはそれを、例外なく、ただ不機嫌そうにシャルロットに読み上げた。
「『北の魔物が例年より早く下りている。今年は雪が遅い。エステバル領は北の街道の要だ。備蓄を確認して備えろ』」
シャルロットは顔を上げた。
「エリオット様。このお話、私も以前申し上げた話でして」
「君の話は聞いていません」
「ですが、これは実際に起きている問題で、北に湧き出る魔物が——」
「シャルロット!!」
彼は便箋を畳みながら、彼女を見もせずに言った。
「アンスロット殿は英雄です。英雄には英雄の見ている景色がある。だが我々には我々の暮らしがある。備蓄がどうこうという話は、正直、少し英雄らしくない。ただ、武人というのは時に、細かいことにこだわるものなのでしょう」
「細かいこと、ですか」
「ええ、アンスロット殿からのご依頼であれば、早急にことを進めるとしましょう」
シャルロットは口を閉じた。閉じるしか、できることがなかった。
以前にも、この話をしたことがあった。
北の魔物が例年より早く動いていて、実家の領地はもう対峙の準備に入っていること。あとはエステバル領から十二分にある食料の備蓄を微量で良いから回してほしいこと。婚約者という立場でできる精一杯の願いを、彼女は自分の口で申し出た。
だが、言葉遣いが悪い、と言われた。
アンスロットと同じ内容だった。違いは、片方が英雄からの頼み込みで、もう片方が言葉遣いの悪い婚約者だったこと。それだけだ。
言葉は、やはり出てこなかった。
◇
それから婚約破棄が言い渡されたのは、その年の秋の終わりだった。
きっかけらしいきっかけはない。強いて言えば、シャルロットが、アンスロットの手紙に関して、多少の自我を出したことである。
その三日後に、彼女は大広間に呼ばれたのだ。
使用人が何人も控えていた。意図的に、シャルロットが嫌がるような配置だった。
「三年です。三年かけて、君は何ひとつ変わらなかった。金をかけました。フローラという最高の教師をつけました。毎日、毎日、指摘してまいりました。それでこの結果です」
シャルロットは黙って立っていた。
「君が隣に立っているだけで、私は自分の家が安く見える気がする」
使用人たちは誰も顔を上げなかった。上げれば巻き込まれると知っていたからだ。
「エステバル侯爵家は、貴女、シャルロット・ヴォルフラート伯爵令嬢との婚約をこの場で破棄します。今後、君が私に近づくことを生涯にわたって禁じます。社交の場で顔を合わせても、話しかけないでいただきたい。父上にも既に伝え、了承を得ていますので」
エステバル侯爵家当主は渋ったらしい、と後で侍女に聞いた。辺境伯家との縁を軽く扱っていいのか、と言っていたのだと。それでも息子が三年間かけた淑女教育失敗の記録を書き込んだ手帳を差し出すと、疲れた声で「お前がそこまで言うのなら」と言ったそうだ。
だが、この際、当主が渋ったかどうかなど、どうでもいいことである。
「かしこまりました。そのご意向で問題はございません」
とても彼らしい婚約破棄だった。
声を荒げず、感情を挟まず、ただ理由を列挙していく。最後まで、彼は穏便に済ませようとしていた。
だからシャルロットも、穏便に受け取ることにした。
不思議と、腹は立たなかった。
むしろ、体が軽くなるのを感じていた。ずっと胸の上に載っていた石が、ずるりと落ちていく感覚だ。
ああ、もう言葉遣いであれこれ言われずに済むのか、と。
それでも、最後にひとつだけ言おうと思った。
何度も遮られてきた話だ。これまでは彼のために言おうとしていたが、その日のそれは、たぶん彼女自身のためだった。
「エリオット様。最後に、ひとつだけ」
「なんでしょうか」
「私は──」
「わたくし、です」
エリオットは、わざとらしく咳き込み、シャルロットを訂正した。
それを聞き、シャルロットは笑った。初めて、彼の前で声を出して笑った。
「……何がおかしい」
「いえ、なんでもございません」
彼女は膝を折り、この上なく美しい礼をした。この屋敷に来てからずっと仕込まれた、一分の隙もない礼だ。エリオットはそれを見て、一瞬だけ、変な顔をした。
「長らくお世話になりました、エリオット様。それでは」
そして彼女は屋敷を出た。
荷物は少なかった。もともと、あの屋敷に置いてきたものは多くない。
◇
エリオットは婚約破棄後の一ヶ月を、たいへん有意義に過ごしていた。
婚約破棄の翌日には、もう手紙を書いていた。宛先は、エリオットが密かに想いを寄せているフローラ・リンドバルだった。今度、食事でも、という誘いである。
三年間、彼女は毎週この屋敷を訪れていた。
玄関を抜ける歩き方。椅子を引くのに音がしないこと。紅茶を注ぐときの手首の角度。エリオットはそれを、婚約者の教育のためだと言いながら、実のところずっと眺めていた。完璧主義者である彼にとって、高嶺の花は最初から手の届く距離にいたのである。
ただ、婚約者がいるうちは、それを想いと呼ぶわけにいかなかった。
いまは違う。
彼女から届いた返事はとても丁寧だった。だが、丁寧に、断られていた。
エリオットはもう一度誘った。だが、また断られた。三度目も、四度目も同じだった。
しかし、それでいてフローラは屋敷を訪ねてくる。茶を飲み、庭を歩き、談笑する。ただ、食事にだけは応じないのだ。
この国において、未婚の男女が二人で食卓を囲むことには大きな意味がある。求婚の一歩手前と解する者すらいる。
それを念頭に、エリオットは四通目の断りの手紙を手に取り、深く考えた。
自分は、つい先日、シャルロットとの婚約を解消したばかりだ。
その直後に別の令嬢と食事へ出れば、社交界はどう見るか。あの令嬢こそが婚約を壊した元凶だ、と囁かれかねない。フローラはそれを危惧している。彼女は自分のためではなく、私たちの名誉のために断っているのだ。
断る理由が自分にあるなら、来る理由も自分にある。
つまり、そういうことだ。フローラは別に嫌がっているのではない。時期を待っているのだ。
「なんという徹底ぶりだろう。完璧な淑女だ」
誰もいない書斎で、エリオットは声に出してそう言った。
手紙を丁寧に畳み、引き出しにしまう。四通とも、捨てずに取ってあった。
彼は待つことにした。
そして、一ヶ月が過ぎた頃、彼の予想通り、フローラから手紙が来た。
食事に、と端的に書かれている。それも、これまでのどの手紙よりも丁寧な文面で。
「やはり待っていたか」
エリオットは心躍った。すぐさま、食事の手配をした。
店には腐るほどの金をかけた。王都で三本の指に入る店で、豪華な内装と料理の腕前で名を馳せている。
そして約束の夜、二人は向かい合っていた。
フローラの所作は、いつもより少しだけ柔らかかった。熟した赤い酒が注がれ、頬がほんのり染まっていく。エリオットはその顔を眺めながら、三年間眺めてきたものが、ようやく自分の向かいに座っているのだと思った。
「エステバル家は、この十年で王都の要職を三つ得ています。私の代では、五つにするつもりです」
「まあ。素敵ですね」
「妻となる方には、当然それに見合う品位を求めます。夜会の席ひとつで家格は変わりますから。もっとも、フローラ嬢にはそのような心配は無用でしょうが」
「まあ。光栄ですわ」
「それに、屋敷は改装します。北の棟は使っていないので、あそこを客間に。庭も直したい。フローラ嬢は薔薇がお好きでしたね」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「私は人をよく見ていますので」
「なんとも素敵ですわ」
フローラは頷き、微笑み、時折そう言った。やはりというべきか、完璧な相槌だった。
三杯目の途中で、彼女の目がわずかに据わり始めたのをエリオットは見逃さなかった。
「エリオット様。わたくし、行きたいところがあるんですけど」
彼の手の中で、グラスが震えた。
そして、テーブルの下で拳を握りしめていた。
ついに、自分も大人になる時が来たか、と。
というのも、エリオットはここ数日、フローラという女について調べていた。家系、交友、好み、そして出身地の風習まで。
そして、ひとつの記述に行き当たった。彼女の出身地では、女から二軒目に誘うということは、すなわち婚姻の申し出を意味する。そこには、貴方との子を授かりたいという含みもあるという。
そして、今、二軒目に誘われた意味をエリオットは考えるまでもなかった。
——上手くいけば、今夜にでも。
『初夜』という二文字が彼の頭を満たし、酔いが一気に回った。エリオットは彼女に腕を引かれるまま店を出た。
夜の道を歩き、角を曲がり、また曲がった。だんだんと道が細くなり、石畳が汚れ、明かりが黄色くなっていく。
やがて辿り着いた先は……賑やかで、ひどく庶民的な店だった。
酔いが少し覚めそうになった。だが彼の頭は『初夜』の二文字で埋まっており、理性は既に用をなしていなかった。
◇
その夜、シャルロットはある店にいた。
冒険者ギルドの裏にある、酒場としか呼びようのない店だ。木の床は酒でべたつき、天井は低く、常連の九割が脳筋でできているようなところ。彼女はここが好きだった。ここでは誰も、カップの置き方を気にしない。
「酒持ってこぉぉい!!」
「声が大きいぞロット、もう三本目だろうが」
「四本目だ! ちゃんと数えろグレイ!」
グレイ、というまだ若い冒険者の男が呆れた顔をした。カウンターの向こうで店主が笑っている。奥の卓では冒険者の連中が腕相撲をしていて、負けた方が床に転がっていた。いつも通りの夜だ。
ただ、いつも通りではないことが、ひとつだけあった。
その夜、扉が開いた。
「こ、ここはやめておきましょう、フローラ嬢!」
聞き覚えのある声と聞き覚えのある名前だった。
そこに立っていたのは、上等な夜会服を着た男だった。この店の空気の中で、その服だけが浮いている。顔は青く、目は泳ぎ、かなり良い酒の匂いがした。
エリオット・エステバル。
彼は店内を見回して、そして、呑んだくれたシャルロットを見つけた。
「シャ……シャルロット?」
拍子の抜けたとてもいい顔だった。
「ロット、知り合いか?」
「えぇ、一応。元婚約者よ」
「げっ、じゃあこいつが……」
グレイが露骨に嫌そうな顔をした。というのも、彼には事情を全て話してある。
エリオットはしばらく彼女を凝視していた。
彼の頭の中で何が起きているのかは手に取るようにわかった。婚約を破棄した女が大声で酒を要求している。生涯二度と会うことはないと思っていた女が、瓶を持って笑っている。
やがて彼の顔に、あの懐かしい顔が浮かんだ。
見下しの表情だ。シャルロットが毎日見たあの顔。
そうだろうな、とシャルロットは思った。彼はいまこう考えているはずだ。
これがこいつの本性だったのだ、と。
淑女教育はやはり無駄だったのだ、と。
婚約破棄という判断は正しかったのだ、と。
そして彼は慌てて後ろを振り返った。
「フローラ嬢、ここは我々の来る場所ではない、すぐに……」
だが、そこには誰もいなかった。
「フローラ嬢?」
彼が呆然と店内を見回す。
シャルロットは、彼が見つめるであろう方向を、先に見た。
あの淑女の傑作と呼ばれた女が、冒険者に囲まれ、奥の卓の上に乗って、立っていたのだ。
両手にビール瓶を一本ずつ掲げている。夜会服の裾を膝の上までたくし上げ、片足を椅子に乗せ、髪はほどけて肩に落ちている。彼女はその姿勢のまま、店中に届く声で叫んだ。
「お前らァ、飲んでっかぁぁ!!」
店がざわめきで大きく揺れた。
「フ、フローラ……?」
エリオットの声は掠れていた。
「遅えじゃんかフローラ!」
シャルロットが声をかけると、彼女はこちらを見て瓶を掲げた。
「いやぁ、まじすまんわ。あのボケナスの話が長えのなんの。前菜が出てくる前に人生観を二回も聞かされたわ」
「わかるわ、超苦痛よね」
「あんた三年もこんなん聞いてたの? 勲章もんだって」
彼女は卓から飛び降りた。着地の音は相変わらずしなかった。
「フ、フローラ! 何をしているんだ、君は!」
エリオットがようやく声を出した。フローラは振り向き、心底うんざりした顔で言った。
「うるせえ、ボケナス! 変な店連れて行きやがって!」
「へ、変な店?」
彼の顔が歪んだ。あの店は王都でも指折りの高級店だったはずだ。席は半年待ちのはずだったが、侯爵家の名を出して、渋々予約を入れてもらったところのはずなのに——。
「メシは小せえし、酒は薄いし、椅子は硬えし、お前はよく喋るし! あんな店で腹が膨れるかっての!」
フローラはそう言い捨てて、シャルロットの隣に座り、その瓶を奪って飲んだ。
「あ、それ私の」
「うるさい。三年分の家庭教師代だ」
「金はエリオットが払ったじゃない」
「あれで足りると思ってんの?」
そう言われると返す言葉がなかった。
二人は飲んだ。がぶ飲みだ。誰よりもワイルドに、誰よりも下品に、腹の底から笑った。
エリオットは扉のところに立ち尽くしていた。
やがてシャルロットが振り返った。
エリオットと目が合うと、彼女はそちらへまっすぐ歩いてきた。
「てめえに話があるんだよ!」
大声で、彼女がそう言ったそのとき、店の外から声が上がった。
「え、あれアンスロットさんじゃね!?」
若い男たちに釣られて、エリオットが弾かれたように顔を上げた。
「アンスロット殿!? どこですか、どこにおられる!」
彼は必死にあたりを見回した。憧れの英雄がこの場にいる。三年間語り続けた男。手紙を交わし、自らに格というものを見出した男。
「アンスロットさん、握手お願いします!」
「俺も!」
数人の若い冒険者が興奮した様子で駆け寄ってきた。
——シャルロットのところに。
「は?」
思わず、あの気品高いエリオットでさえも、情けない声を出した。
目前の元婚約者は若い連中と握手をして追い払い、それから瓶を置いて立ち上がった。
エリオットは動かなかった。動けなかったのだと思う。目だけが、彼女の顔と、興奮気味の若い冒険者たちの間を何度も往復していた。
「……嘘だろ」
「何が? あ、私がアンスロットだったこと?」
「いや、そんなはずがない。アンスロット殿は、男で──」
「誰も男だ、なんて言ってねえよ」
彼が黙った。
その代わり、背後で話を聞いてた大男が、エリオットの方に振り返った。
「おいおい、旦那。アンスロットが女なのは、ここらじゃ有名だぜ。ギルドに行きゃ掲示板に書いてあるぞ」
「まさか、そんな……」
エリオットは驚きを隠せていなかった。
「しかし、貴女のように淑女教育も受けられていないただの令嬢が、アンスロットなわけあるのか……?」
「逆だわ、バーカ」
「逆??」
「幼い頃からずっと私が淑女教育を受けられなかったのは、剣を持っていたからだ」
シャルロットは言った。
「五歳で初めて魔物を斬った。七歳で北の街道を任された。八歳でギルドに登録した。S級になったのは十三の時だ。あんたと婚約したのは十六だ。つまり私は、あんたと顔を合わせるようになる前から、ずっとこれをやってる」
「そんな……そんな話は、一度も聞いていないが!」
「まあそうだね」
「いやいや、それよりもだ。なぜ私の手紙に返事など……? 君、もしや嫌がらせのつもりで」
「まっさかぁ! ファンからの手紙は全部ちゃんと答えようと思って。でも、宛先とかはよく見てなかったから」
「さ、最初から教えてくれればよかったじゃないか! 君がアンスロットだったのなら話は変わ——」
彼が叫んだ。
シャルロットは、そこで少し眉を顰めた。
「あぁ? 教えてくれれば、だとテメェ?」
一歩、前に出る。
「誰が、いちいちねちっこく言葉を訂正してきたと思ってんだ?」
彼の口が開いて、閉じた。
「誰が、私を喋れなくさせた?」
「……それは」
「私は言おうとしただろ。何度も何度も。あんたが『私、じゃなくて、わたくし』って訂正した日も、私は全部話すつもりだった。素直に聞いときゃよかったのに、ろくに話を聞かずして」
彼が後ろによろけた。
「だが、私は……知らなかった。誰も教えてくれなかったから」
「——教えて、あんたの態度がガラッと変わった方がクズじゃねえか?」
そう声を上げたのはフローラだった。椅子に沈み込んだまま、瓶の口をこちらへ向けている。
「フ、フローラ嬢! まさか君までも、シャルロットの味方で……?」
「変な言い方してんじゃねえよ、勘違い野郎。私がいつあんたの味方だったよ」
「か、勘違い……」
「私も本業は冒険者。ロットとは、幼い頃からの知り合い同士」
エリオットの口が、半分開いたまま止まった。
「というよりも、なんですか、その言葉遣いは……?」
「この後に及んで、言葉遣いかよ、こいつ。これが元々だっつってんだろ。冒険者が本業だって言ってんのに、察せないんか?」
「では、君たちは……最初から、知り合いで……」
「そうだって言ってんじゃねえか、全く勘が悪ぃな」
三年前、あの部屋に入ってきたフローラとシャルロットは思わず目を見開いていた。なにせ、知り合いが家庭教師で、知り合いが生徒だったのだから。
「なぜ、そんなことを隠していたのだ……」
「だ・か・ら! 隠してたわけじゃねえって言ってんだろ?」
シャルロットは指を折った。
「アンスロットが私だってことも、フローラと私が知り合いだったことも、あんたが、私の話を遮らずに最後まで聞いていたら、わかったことだ」
シャルロットは瓶を握り直した。
「なのに、あんたはずっと言葉遣いがあーだこーだ言って、私のことは全く見ていなかった。言葉の使い方だけで人が測れるなら、そりゃ素敵な世界だ」
シャルロットは瓶を持ち上げ、一口飲んだ。
「楽でいいよ。中身を見なくて済む。喋り方が綺麗な奴を信用して、汚い奴を切り捨てればいい。とっても効率的だ」
「私は、そんなつもりでは」
「言っとくが、私は言葉遣いを馬鹿にしてるわけじゃない」
彼女はフローラの方を見た。フローラは瓶を傾けながら、こちらを見ずに片手を振った。聞いている、という合図だ。
「フローラに教わって、本当に助かった。あいつの言葉は道具だった。持っていれば選べる。選べれば、伝わる相手が増える。今でも勉強してるよ。北の連中に王都の話をするときは、あんたに教わった言い方を使うことすらある」
「なら──」
「でも、それだけじゃ人は測れないんだ」
彼女は言った。
「今日はそれを、お前に伝えにきた」
店が静かになっていた。腕相撲をしていた連中も、いつの間にか手を止めている。
エリオットはしばらく黙っていた。それから、縋るような目でフローラの方を見た。
シャルロットにさえ、彼の心境ははっきりとわかった。
フローラは酔いに呑まれているだけだ。彼はきっとそう思い込みたいのだ。
彼女は淑女教育の傑作で、社交界の理想で、彼の高嶺の花で、ただ今夜たまたま酔っているだけなのだと。『初夜』という言葉がまだ可能性としてあるのではないか、という飛んだ夢をまだ見ようとしているのだと。
だが、フローラは椅子に深く沈み込み、片方の鼻の穴に小指を突っ込みながらビールを飲んでいた。
「おのれ、何見とんじゃ! ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろかい!!」
「…………ケ、ケツ?」
呆気に取られたエリオットは、困惑していた。
「無理だと思うぞ」
シャルロットは言った。
「私がフローラに頼んだのよ。あんたを誘うように、って。これを言うためだけに」
「そうだったのか……」
エリオットがゆっくりと膝から力を抜いた。ただ、倒れはしなかった。彼は最後まで姿勢だけは崩さなかった。そういうところは、少し立派だと思う。
そして彼は何も言わず、背を向けて扉へ歩き出した。その背中に、シャルロットは声をかけた。
「最後に一つ、どうしようもないお前に忠告しといてやるよ」
彼が足を止めると、シャルロットは少し考えて、それから口を開いた。
「──言葉遣いより先に、直すべきところが山ほどおありでは?」
言い方は選んだつもりだ。三年かけて教わった、最も丁寧な言い回しで。
そうでなければ、きっとこの男には届かないから。
そんなエリオットは何も言い返してこなかった。
ただ、しばらくして、扉が閉まる音がした。
◇
シャルロットが席に戻ると、フローラが瓶を差し出してきた。受け取って、乾杯した。
「言いたいこと全部言えたの?」
「うん、おかげさまで」
「よかったじゃん」
「てかそれより、あんた、いつから鼻なんかほじり出したのよ。さすがの私でも引いたわよ」
「バカね、あれは演出だって」
「あんた、たまにそういうぶっ飛んだことするわよね。まあ結果的に効いてたからよかったけど」
「あったりまえでしょ? もう二度とあんなクズ野郎、見たくないんだからこれくらいはしないと、また懲りずにこの可憐で美しい淑女の元に戻ってきてしまうじゃない」
二人は笑った。グレイが呆れた顔で三本目を頼み、店主が笑いながら樽を開けた。
明後日、シャルロットは北へ発つ。雪が遅い年だ。連中が下りてくる。備蓄は自分で確認する。
「ロット」
シャルロットの隣にグレイが座った。
「北には、俺も行く」
「別にこなくてもいいって、グレイ。あんたもこっちでやることがあんだろ」
「そう言わんと。北の冬は長えぞ? 人手が一人でも増えることはいいことだろ」
シャルロットは彼の顔を見た。特に何も企んでいない顔だ。グレイは幼い頃からいつもこうだった。彼女が何かを言い出す前に、勝手に隣に来る。言葉を選んでいる間に、勝手に理解して、勝手に頷く。
三年間、彼女が一番欲しかったものは、これだったのかもしれない。
「……助かるよ、グレイ」
「おう」
それだけだった。
彼は前を向いてエールを飲んだ。耳が少し赤かったが、それは酒のせいかもしれない。シャルロットの顔も赤かったが、それもきっと酒のせいだ。
「フローラ、あんたも来るでしょ」
「行くわけないでしょ、寒いの嫌いだし」
「そうだったね、あんたはそういう子だった」
「……でも見送りには行く。その代わり、今日の酒代は、ロット、あんた持ちね」
「いや、なんでだよ」
——まったく、口の悪い女だ。と、シャルロットは思った。
もっとも、人のことは言えない。
シャルロット・ヴォルフラートは口が悪い。それは事実だ。直す気も、正直、あまりない。
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
これでも、抑えてた方なのだ。
(了)
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