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既読がつかない彼氏に『さよなら』を送ったら三秒で既読がついた件〜今さら追いかけてこられても、私はもうあなたの『未読』にはなりません〜

作者: uta
掲載日:2026/05/25

既読がつかない。


また、つかない。


深夜2時。暗い部屋の中で、スマホの画面だけがぼんやりと光っている。その光が、私の惨めさを照らし出していた。


『今日会いたいな』

『仕事終わった?』

『おやすみ』


三件。全部、私から。全部、未読。


彼からの最後の返信は三日前。『了解』のたった三文字。それきり、藤崎詩織という女は、桐谷蓮という男の世界から消えたらしい。


……いや、消えたんじゃない。


最初から、いなかったことにされてるんだ。


「……っ」


喉の奥が詰まる。泣きたいのに、涙が出ない。枯れたのかもしれない。もう何回目だろう、この感覚。悲しいのか、悔しいのか、虚しいのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥に鉛を詰め込まれたみたいに重くて、息がうまくできない。


付き合って二年。


最初は秒で返ってきた返信が、分になり、時間になり、日になった。


『忙しいんだよね』


私はそう自分に言い聞かせて、無意識にスマホを握りしめる。癖だ。緊張すると、不安になると、いつもこうしてしまう。まるでこの小さな機械が、蓮との唯一の繋がりみたいに。


——本当は、とっくに切れてるくせに。


SNSのアイコンをタップする。開かなきゃいいのに。見なきゃいいのに。わかってる。わかってるけど、指が勝手に動く。


蓮のアカウント。最新の投稿。


——更新されている。


二十三分前。


友達との飲み会の写真。ジョッキを掲げて、カメラに向かって笑ってる。あの笑顔、私に向けられたのはいつが最後だっけ。隣には知らない男友達。向かいには——知らない女の子。ゆるふわのロングヘアに、うさぎみたいな丸い目。可愛い。すごく、可愛い。


私のメッセージを無視して。


笑ってる。


楽しそうに、笑ってる。


「……は、」


スマホを握る手が震えた。


違う。これは怒りじゃない。怒りだったらまだマシだ。もっと情けない何か。『どうして私じゃないの』って、縋りつきたくなるような、みっともない感情。お願いだから私を見て、私に返信して、私のこと忘れないで——そんな、惨めな懇願。


——やめなよ、詩織。


頭の中で、親友の声がする。


『あいつ絶対浮気してるって。別れな?』


楓に何度も言われた。何度も笑って誤魔化した。だって、信じたかったから。二年も一緒にいて、「好き」って言ってくれた人を、疑いたくなかったから。


嫌われたくなかった。


見捨てられたくなかった。


だから、違和感に気づいても見て見ぬふりをした。返信が遅くなっても、デートが減っても、目を合わせてくれなくなっても、全部「気のせい」で片付けた。


でも。


でも、もう——


スマホの画面が涙で滲む。あれ、泣いてたんだ、私。枯れたと思ってたのに。まだ残ってたんだ、こんなみっともない涙。


『おやすみ』のメッセージの横に、ぽつんと浮かぶ「未読」の二文字。


これが、私たちの距離なんだ。


たった二文字で、こんなにも残酷に突きつけられる。



「詩織、また顔死んでるよ。蓮でしょ」


翌日、会社の給湯室で楓に捕まった。ショートカットに赤リップ、ハキハキした喋り方。私とは正反対の、さっぱりした性格の親友。


「……うん。一週間、既読つかなくて」


「一週間?」


楓の目が吊り上がる。


「は? ありえないんだけど」


「忙しいのかなって……」


「忙しい? あのさ詩織、あいつのSNS見た?」


「……見た」


「飲み会行ってたでしょ。女の子と笑ってたでしょ」


「……うん」


「それで忙しいは通用しないから」


楓がため息をつく。呆れてるんじゃない。心配してるんだ。わかってる。わかってるから、余計に辛い。


「あいつ絶対浮気してるって。別れな?」


「でも、二年も一緒にいたんだよ? 蓮は私のこと好きだって……」


「好きな相手を一週間無視する男がどこにいんの」


「……っ」


言葉に詰まる。


正論だ。ぐうの音も出ない正論。


「詩織。あんたが幸せじゃないなら、その恋愛意味ないから」


「……わかってる。わかってるけど、まだ信じたいの」


自分でも馬鹿だと思う。こんなに証拠が揃ってるのに、まだ縋ってる。でも、認めたくないんだ。二年間が全部無駄だったなんて。私の「好き」が、一方通行だったなんて。


「……はぁ。わかった。でも限界きたら言いな。私はいつでも味方だから」


「ありがとう、楓」


無理やり笑顔を作る。楓は何か言いたそうにしてたけど、それ以上は踏み込んでこなかった。優しい子だ。本当に。


——本当は気づいてる。


もう終わってるって。


でも認めたくないだけ。



一週間後。


会社帰り、ふらっと立ち寄ったカフェで、私は彼を見つけた。


——見つけて、しまった。


「え」


窓際の席。夕日が差し込む、一番いい場所。そこに蓮がいた。


茶髪の無造作マッシュ。すらりとした長身。スーツ姿がよく似合う、整った横顔。付き合い始めの頃、あの顔を見るだけでドキドキしてた。今は——心臓が、別の意味で痛い。


向かい合わせに座っているのは、ゆるふわのミルクティーベージュのロングヘア。うさぎみたいな丸い目。守ってあげたくなるような、儚げな女の子。


SNSで見た子だ。


知らない女の子だ。


二人は何か話していて、蓮が笑って、その子も笑って、まるで——


「……っ」


足が動かない。逃げなきゃ。見なかったことにしなきゃ。そう思うのに、視線が縫い止められたみたいに外せない。


その時、蓮がふと顔を上げた。


目が合う。


「——」


彼の表情が、一瞬だけ固まる。


あ、気づいた。私だって、わかった。


そしてすぐに——何事もなかったかのように、視線を逸らされた。


その目は。


私を見ていたはずなのに。


まるで他人を見るみたいに、冷たかった。


「あ、れ……?」


声が出ない。膝が震える。


何、今の。


今の、何?


気づいてたよね。私だって、わかったよね。二年間、一番近くにいた女の顔くらい、覚えてるよね?


なのに、どうして——


「お客様、ご注文はお決まりですか?」


店員さんの声で、我に返る。


「あ……すみません、やっぱり、帰ります」


逃げるようにカフェを出た。


外の空気が冷たい。三月なのに、まだ冬みたいに寒い。それとも、私が震えてるだけなのかもしれない。


——あの目。


忘れられない。


「もう関係ないでしょ」って、言葉にしなくても伝わる、あの目。


私たち、まだ付き合ってるんだよ。


私、まだあなたの彼女なんだよ。


なのに、どうして——


スマホを握りしめる。画面を見る。


未読のまま。


三日前に送った『会いたい』も、一週間前の『大好き』も、全部、未読のまま。


「……あは」


乾いた笑いが漏れた。


何を期待してたんだろう、私は。


知ってた。本当は、知ってたんだ。


既読がつかなくなったあの日から。


私たちは、もう終わっていたんだって。



その夜。


ベッドの上で、私はスマホを見つめていた。


天井の染みを数えるのにも飽きて、結局また開いてしまう。トーク画面。一方通行の私のメッセージが、ずらりと並んでいる。


『おはよう』

『おやすみ』

『今日何してた?』

『会いたいな』

『大好き』


——全部、未読。全部、無視。


惨めだ。


こんなに惨めなことがあるだろうか。


「……楓、ごめん」


誰に言うでもなく、呟いた。


あんなに忠告してくれてたのに。『別れな』って、何度も言ってくれてたのに。私は笑って誤魔化して、「大丈夫だよ」なんて強がって。


全然、大丈夫じゃなかった。


大丈夫じゃないのに、大丈夫なふりをするのが、一番しんどかった。


嫌われたくなくて、ずっと我慢してた。違和感があっても、不安になっても、「私が気にしすぎなだけ」って自分を責めてた。


でも、今日わかった。


あの目を見て、やっとわかった。


私は、とっくに捨てられてたんだ。


スマホの画面が、また滲む。


——もう、いいかな。


ふと、そう思った。


限界だった。


既読をつけてもらえない苦しみも、他人を見る目で見られた悲しみも、知らない女の子と笑い合う彼を見た絶望も、全部、全部——


「……もう、いいや」


声に出したら、なんだかすっきりした。


不思議だ。ずっと怖かったのに。この言葉を口にするのが、世界で一番怖かったのに。


指が動いた。


メッセージ入力欄をタップして、文字を打つ。


『さよなら』


たった四文字。


二年間のすべてを終わらせるには、あまりにも短い言葉。でも、これ以上何を言えばいいのか、わからなかった。長々と未練を綴るのも、「どうして」と問い詰めるのも、もう疲れた。


——送信。


青いフキダシが、画面に浮かぶ。


一秒。


二秒。


三秒——


『既読』


「……え?」


ついた。


三秒で、既読がついた。


一週間無視されてたのに。『会いたい』にも『大好き』にもつかなかった既読が、『さよなら』には三秒でついた。


「……は?」


笑うしかなかった。


何それ。何それ何それ何それ。


『会いたい』は無視できるのに、『さよなら』は無視できないんだ。


私の好意は要らないけど、私が離れていくのは嫌なんだ。


私の愛情はどうでもいいけど、私に執着されなくなるのは困るんだ。


——ふざけるな。


胸の奥で、何かが音を立てて切れた。


ぷつん、と。二年間、無理やり繋ぎ止めていた糸が、やっと切れた。


悲しみじゃない。虚しさでもない。


これは、怒りだ。


二年間、ずっと抑え込んできた。嫌われたくなくて、見捨てられたくなくて、違和感に気づいても見て見ぬふりをしてきた。でも、もう——


ブーッ、ブーッ。


着信。


画面に浮かぶ名前。『蓮』。


「……」


出るべきか、出ないべきか。


一瞬だけ迷って、すぐに答えが出た。


出ない。


私は、もう決めたのだ。


電源ボタンを長押しする。画面がゆっくりと暗くなっていく。着信音が途切れる。静寂が戻る。


それは——彼への執着が消えた瞬間だった。


「……ばいばい、蓮」


暗い画面に映る自分の顔は、泣いているのに、どこかすっきりしていた。



翌朝。


スマホの電源を入れた瞬間、通知が雪崩のように押し寄せてきた。


『電話出ろよ』

『さよならってどういう意味?』

『話がある。電話しろ』

『おい、無視すんな』

『詩織』

『詩織ってば』

『なんで既読つけねーの』


全部、蓮から。


深夜から朝にかけて、怒涛のメッセージ攻撃。一時間おきに送られてきた形跡が、履歴に残っていた。


「……」


私は無言でスマホを閉じた。


既読は、つけない。


会社に着くと、デスクに楓がいた。


「おっはよー。……ってうわ、顔死んでんじゃん。また蓮?」


「うん。……ていうか、別れた。たぶん」


「は?」


楓が目を見開く。コーヒーカップを持ったまま固まってる。


「え、待って待って待って。別れた? あの、詩織が? あのクソ男と?」


「……うん」


「マジで? マジのマジで?」


「マジのマジ」


「やっっっと目ぇ覚めた!!」


楓が両手を上げた。周りの社員がびっくりしてこっちを見る。


「ちょ、楓、声——」


「うるさい! これは祝うべき案件! 今夜飲み行くぞ! 乾杯! 祝杯!」


「……ありがと」


笑いたいのに、涙が出そうになる。


楓は私の顔を見て、急に真面目な表情になった。赤いリップが、きゅっと引き結ばれる。


「……詩織。あんた、よく頑張った」


「——っ」


「二年間、ずっとしんどかったでしょ。もう我慢しなくていいから」


涙腺が、決壊した。


「……うん。うん……っ」


「よしよし。今日は定時ダッシュな。いっぱい飲も。奢るから」


「ありがと、楓……」


泣きながら笑った。


私、やっと、自分を大切にできたんだ。



その日の昼。


またスマホが鳴った。


『今どこ? 会社? 今から行く』


蓮からだ。


「……は?」


思わず声に出た。


今から行く? 会社に? 何を言ってるの、この人。


私が一週間メッセージ送っても既読すらつけなかったくせに、私が既読つけなくなったら会社に押しかけてくるの?


脳内で、蓮の声が再生される。


「なんで俺を無視するんだよ」


——今さら、何を言っているんだろう、この人は。


無視していた側が、無視される側になったとき。人は初めて、自分が何を失ったかを知る。


でも、知ったところで、もう遅い。


私はスマホを閉じた。


もう既読はつけてあげない。あなたが私にしたように。



三日後。


昼休み、コンビニに行く途中で、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


ミルクティーベージュのロングヘア。儚げな雰囲気。——カフェで蓮の隣にいた、あの子だ。


「あ」


向こうも私に気づいた。


「もしかして、藤崎さん……ですよね?」


彼女が近づいてくる。ふわふわした声。ふわふわした笑顔。全部が計算されてるみたいに、可愛い。白石凛花、だっけ。蓮のSNSで名前を見たことがある。


「蓮さんから聞きました。別れたって」


「……そう」


「大変でしたね。蓮さん、すごく落ち込んでて」


落ち込んでる? 蓮が?


私を一週間無視して、この子と笑い合ってた蓮が?


「……ふうん。それで、何か用?」


感情を殺して、私は言った。


「いえ、別に」


彼女が小首を傾げる。うさぎみたいな目が、ゆっくりと細められる。


「ただ、一つだけ言っておこうかなって」


「何?」


「私、何もしてませんよ?」


にっこり、笑う。


「勝手に冷めたのは、彼の方ですし。私はただ、そばにいただけ。藤崎さんが構ってあげなかったから、寂しそうだったんですよね、蓮さん」


「——」


「だから、恨まないでくださいね? 悪いのは私じゃないので」


一瞬、頭が真っ白になった。


何、この子。


悪意がないのが、一番タチが悪い。『好きな人を奪って何が悪いの?』って、本気で思ってる目だ。


怒りが込み上げてくる。でも、それと同時に、妙な冷静さも湧いてきた。


「……そっか」


私は深呼吸した。


「ねえ」


「はい?」


「あなたの言う通りだよ」


彼女が目を丸くする。


「あなたのせいじゃない。蓮が勝手に冷めて、勝手に私を無視して、勝手にあなたに行った。全部、蓮の問題。あなたは——」


私は笑った。


「ただの、結果にすぎないもんね」


「——え?」


「だから、気にしないで。私、もう蓮のことどうでもいいから」


彼女の表情が、一瞬だけ歪んだ。私の反応が、予想と違ったんだろう。泣いて取り乱すか、怒って詰め寄るか、そういう反応を期待してたんだろう。


残念。


私はもう、あなたたちのために感情を消費する気はないの。


「じゃあね」


背を向けて、歩き出す。


「あ、あの——」


彼女が何か言いかけたけど、振り返らなかった。



週末、実家に帰った。


「あら、詩織。珍しいわね、連絡もなしに」


お母さんが玄関で迎えてくれた。五十二歳。穏やかな笑顔は昔から変わらない。


「……うん。ちょっと、ね」


「上がりなさい。ちょうどおやつ作ろうと思ってたの」


リビングのソファに座ると、お母さんがココアを出してくれた。温かい。甘い。子供の頃から変わらない味。


「……お母さん」


「なあに?」


「蓮と、別れた」


言った瞬間、涙が溢れた。


我慢してたのに。平気なふりしてたのに。お母さんの顔を見たら、全部、崩れた。


「あら、そう」


お母さんは動じなかった。そっと隣に座って、私の背中をさすってくれる。


「……怒らないの?」


「何を?」


「だって、お母さん、蓮のこと気に入ってたでしょ。結婚の話も——」


「気に入ってないわよ」


「え?」


顔を上げると、お母さんは穏やかに笑っていた。


「お母さんね、あの子のこと最初から好きじゃなかったの」


「……嘘」


「嘘じゃないわ。でも、詩織が好きな人だから、何も言わなかっただけ」


お母さんが、私の涙を拭ってくれる。温かい手。柔らかい手。


「詩織のこと、お姫様みたいに扱わない男は全員ダメ」


「……お姫様って」


「だって、お母さんにとって詩織はお姫様だもの。大切な大切な、一人娘」


「お母さん……」


「あなたは何も悪くないのよ、詩織」


お母さんが、私を抱きしめた。


「一生懸命愛して、一生懸命我慢して、一生懸命頑張った。それで報われなかったのは、相手が悪かっただけ。あなたは、何も悪くない」


「お母さん……お母さんっ……」


子供みたいに泣いた。声を上げて、しゃくり上げて、みっともなく泣いた。


二年間、ずっと溜め込んでいたものが、全部、溢れ出していく。


「大丈夫よ、詩織。お母さんはいつでも味方だから」


「……うん。うん……」


「次は、ちゃんと詩織を大切にしてくれる人を選びなさいね」


温かい腕の中で、私は何度も頷いた。


大丈夫。私は、大丈夫だ。



月曜日。残業で遅くなった帰り道、会社のエレベーターで声をかけられた。


「藤崎」


振り返ると、瀬戸先輩が立っていた。


穏やかな目元。黒縁の眼鏡。落ち着いた低い声。大学時代のサークルの先輩で、今は同じ会社の別部署にいる人。


「お疲れさまです、瀬戸先輩」


「遅くまで大変だな。飯、食った?」


「あ、いえ……まだです」


「じゃあ、よかったら一緒にどうだ。近くにいい定食屋があるんだ」


「え、でも——」


「遠慮するな。後輩に飯奢るのは先輩の義務だから」


瀬戸先輩が笑った。いつもの、押しつけがましくない優しさ。蓮みたいにグイグイ来るんじゃなくて、さりげなく気遣ってくれる感じ。


「……じゃあ、お言葉に甘えます」


定食屋は、昔ながらの落ち着いた雰囲気の店だった。生姜焼き定食を頼んで、向かい合って座る。


「最近、顔色悪かったから心配してたんだ」


「え……そうですか?」


「ああ。何かあったのか……って聞いていいのかわからないけど」


瀬戸先輩が、少し困ったように笑った。


「……彼氏と、別れました」


「そうか」


それだけ。『なんで?』とか『何があったの?』とか、詮索してこない。ただ黙って、お茶を飲んでいる。


その沈黙が、不思議と心地よかった。


「先輩」


「ん?」


「先輩、私が辛そうだった時……コーヒー、差し入れてくれましたよね」


「……覚えてたのか」


「覚えてますよ。残業も手伝ってくれたし」


「いや、あれは……たまたまだ」


瀬戸先輩が、少し照れたように目を逸らした。


「たまたま、私がしんどい時に限って?」


「……」


沈黙。瀬戸先輩が、ゆっくりと口を開いた。


「……大学の頃から」


「え?」


「ずっと、見てた。お前のこと」


心臓が、跳ねた。


「彼氏がいるのは知ってたから、何も言わなかった。でも、お前が辛そうにしてるの見て……何もしないのは、無理だった」


「先輩……」


「ごめん。こんなタイミングで言うことじゃないな。忘れてくれ」


瀬戸先輩が立ち上がろうとする。


「待ってください」


私は、その手を掴んでいた。


「……藤崎?」


「忘れません」


顔が熱い。


「忘れたくない、です。先輩の気持ち」


「——」


「今すぐ答えは出せないけど……でも、ちゃんと考えたいです。先輩のこと」


瀬戸先輩の目が、大きく見開かれた。そしてゆっくりと、柔らかく細められる。


「……ああ。待ってる」


「はい」


「何年でも、待ってるから」


その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。


——ああ、そっか。


こういう人が、私を大切にしてくれる人なんだ。


追いかけなくても、縋りつかなくても、ただそばにいてくれる人。私が気づかなかっただけで、ずっと、ここにいてくれた人。



一ヶ月後。


桜が舞う並木道を、二人で歩く。


「詩織」


隣を歩く陽斗さんが、私の手を握った。


「今度の休み、俺の実家行かないか。母さんが会いたいって」


「えっ」


「早すぎる?」


「い、いや……嬉しい、けど」


「よかった。母さんに自慢したいんだ、お前のこと」


陽斗さんが、照れくさそうに笑う。


「……うん。行く」


「約束な」


「うん」


風が吹いて、髪が揺れる。陽斗さんが、そっと私の髪を左耳にかけてくれた。


「——好きだよ、詩織」


「……私も」


ポケットの中で、スマホが震えた。


「どうかした? スマホ見て」


「ううん、何でもない。元カレから、まだメッセージ来るの」


「ブロックしなくていいのか?」


「ううん、しない」


「なんで?」


「だって——」


私は笑った。


「既読つけないのが、一番の復讐だから」


陽斗さんが、吹き出した。


「お前、意外と性格悪いな」


「そうかも」


「……でも、嫌いじゃない」


繋いだ手に、力がこもる。


一年前の私は、蓮からの既読を待って眠れない夜を過ごしていた。たった二文字に一喜一憂して、未読のまま放置されるたびに、自分の価値を疑っていた。


馬鹿みたいだ。


私の価値は、誰かの既読で決まるものじゃない。


今度こそ、この恋を大切にしよう。自分を大切にしてくれる人と、幸せになろう。


ポケットの中で、また震えた。


『詩織、お願いだから——』


既読はつかない。


もう二度と、つかない。


あなたへの執着は、あの夜——スマホの電源を切ったあの瞬間に、とっくに終わっているから。



桜の花びらが、私たちの上に降り注ぐ。


陽斗さんの手は温かくて、私の手をしっかり握っている。


——ねえ、蓮。


私、やっと気づいたよ。


本当に私を好きな人は、既読をつけるかどうかで私を試したりしない。返信が遅いからって、不安にさせたりしない。他の女の子と楽しそうにして、私を焦らせたりしない。


ただ、静かに、ずっとそばにいてくれるんだ。


私が気づかなくても、私が別の人を見ていても、それでも変わらずに。


——そういう人が、隣にいてくれる幸せを、私はやっと知った。


「詩織、何考えてる?」


「んー……幸せだなって」


「急にどうした」


「いいでしょ、別に」


「……そうだな。いい」


陽斗さんが笑う。私も笑う。


春の風が、私たちの間を通り抜けていく。


長かった冬が、やっと終わった。


『詩織、お願いだから連絡くれ』


——既読はつかない。


もう二度と、つかない。


さよなら、蓮。


私は、もうあなたの『未読』にはならない。

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