既読がつかない彼氏に『さよなら』を送ったら三秒で既読がついた件〜今さら追いかけてこられても、私はもうあなたの『未読』にはなりません〜
既読がつかない。
また、つかない。
深夜2時。暗い部屋の中で、スマホの画面だけがぼんやりと光っている。その光が、私の惨めさを照らし出していた。
『今日会いたいな』
『仕事終わった?』
『おやすみ』
三件。全部、私から。全部、未読。
彼からの最後の返信は三日前。『了解』のたった三文字。それきり、藤崎詩織という女は、桐谷蓮という男の世界から消えたらしい。
……いや、消えたんじゃない。
最初から、いなかったことにされてるんだ。
「……っ」
喉の奥が詰まる。泣きたいのに、涙が出ない。枯れたのかもしれない。もう何回目だろう、この感覚。悲しいのか、悔しいのか、虚しいのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥に鉛を詰め込まれたみたいに重くて、息がうまくできない。
付き合って二年。
最初は秒で返ってきた返信が、分になり、時間になり、日になった。
『忙しいんだよね』
私はそう自分に言い聞かせて、無意識にスマホを握りしめる。癖だ。緊張すると、不安になると、いつもこうしてしまう。まるでこの小さな機械が、蓮との唯一の繋がりみたいに。
——本当は、とっくに切れてるくせに。
SNSのアイコンをタップする。開かなきゃいいのに。見なきゃいいのに。わかってる。わかってるけど、指が勝手に動く。
蓮のアカウント。最新の投稿。
——更新されている。
二十三分前。
友達との飲み会の写真。ジョッキを掲げて、カメラに向かって笑ってる。あの笑顔、私に向けられたのはいつが最後だっけ。隣には知らない男友達。向かいには——知らない女の子。ゆるふわのロングヘアに、うさぎみたいな丸い目。可愛い。すごく、可愛い。
私のメッセージを無視して。
笑ってる。
楽しそうに、笑ってる。
「……は、」
スマホを握る手が震えた。
違う。これは怒りじゃない。怒りだったらまだマシだ。もっと情けない何か。『どうして私じゃないの』って、縋りつきたくなるような、みっともない感情。お願いだから私を見て、私に返信して、私のこと忘れないで——そんな、惨めな懇願。
——やめなよ、詩織。
頭の中で、親友の声がする。
『あいつ絶対浮気してるって。別れな?』
楓に何度も言われた。何度も笑って誤魔化した。だって、信じたかったから。二年も一緒にいて、「好き」って言ってくれた人を、疑いたくなかったから。
嫌われたくなかった。
見捨てられたくなかった。
だから、違和感に気づいても見て見ぬふりをした。返信が遅くなっても、デートが減っても、目を合わせてくれなくなっても、全部「気のせい」で片付けた。
でも。
でも、もう——
スマホの画面が涙で滲む。あれ、泣いてたんだ、私。枯れたと思ってたのに。まだ残ってたんだ、こんなみっともない涙。
『おやすみ』のメッセージの横に、ぽつんと浮かぶ「未読」の二文字。
これが、私たちの距離なんだ。
たった二文字で、こんなにも残酷に突きつけられる。
◇
「詩織、また顔死んでるよ。蓮でしょ」
翌日、会社の給湯室で楓に捕まった。ショートカットに赤リップ、ハキハキした喋り方。私とは正反対の、さっぱりした性格の親友。
「……うん。一週間、既読つかなくて」
「一週間?」
楓の目が吊り上がる。
「は? ありえないんだけど」
「忙しいのかなって……」
「忙しい? あのさ詩織、あいつのSNS見た?」
「……見た」
「飲み会行ってたでしょ。女の子と笑ってたでしょ」
「……うん」
「それで忙しいは通用しないから」
楓がため息をつく。呆れてるんじゃない。心配してるんだ。わかってる。わかってるから、余計に辛い。
「あいつ絶対浮気してるって。別れな?」
「でも、二年も一緒にいたんだよ? 蓮は私のこと好きだって……」
「好きな相手を一週間無視する男がどこにいんの」
「……っ」
言葉に詰まる。
正論だ。ぐうの音も出ない正論。
「詩織。あんたが幸せじゃないなら、その恋愛意味ないから」
「……わかってる。わかってるけど、まだ信じたいの」
自分でも馬鹿だと思う。こんなに証拠が揃ってるのに、まだ縋ってる。でも、認めたくないんだ。二年間が全部無駄だったなんて。私の「好き」が、一方通行だったなんて。
「……はぁ。わかった。でも限界きたら言いな。私はいつでも味方だから」
「ありがとう、楓」
無理やり笑顔を作る。楓は何か言いたそうにしてたけど、それ以上は踏み込んでこなかった。優しい子だ。本当に。
——本当は気づいてる。
もう終わってるって。
でも認めたくないだけ。
◇
一週間後。
会社帰り、ふらっと立ち寄ったカフェで、私は彼を見つけた。
——見つけて、しまった。
「え」
窓際の席。夕日が差し込む、一番いい場所。そこに蓮がいた。
茶髪の無造作マッシュ。すらりとした長身。スーツ姿がよく似合う、整った横顔。付き合い始めの頃、あの顔を見るだけでドキドキしてた。今は——心臓が、別の意味で痛い。
向かい合わせに座っているのは、ゆるふわのミルクティーベージュのロングヘア。うさぎみたいな丸い目。守ってあげたくなるような、儚げな女の子。
SNSで見た子だ。
知らない女の子だ。
二人は何か話していて、蓮が笑って、その子も笑って、まるで——
「……っ」
足が動かない。逃げなきゃ。見なかったことにしなきゃ。そう思うのに、視線が縫い止められたみたいに外せない。
その時、蓮がふと顔を上げた。
目が合う。
「——」
彼の表情が、一瞬だけ固まる。
あ、気づいた。私だって、わかった。
そしてすぐに——何事もなかったかのように、視線を逸らされた。
その目は。
私を見ていたはずなのに。
まるで他人を見るみたいに、冷たかった。
「あ、れ……?」
声が出ない。膝が震える。
何、今の。
今の、何?
気づいてたよね。私だって、わかったよね。二年間、一番近くにいた女の顔くらい、覚えてるよね?
なのに、どうして——
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
店員さんの声で、我に返る。
「あ……すみません、やっぱり、帰ります」
逃げるようにカフェを出た。
外の空気が冷たい。三月なのに、まだ冬みたいに寒い。それとも、私が震えてるだけなのかもしれない。
——あの目。
忘れられない。
「もう関係ないでしょ」って、言葉にしなくても伝わる、あの目。
私たち、まだ付き合ってるんだよ。
私、まだあなたの彼女なんだよ。
なのに、どうして——
スマホを握りしめる。画面を見る。
未読のまま。
三日前に送った『会いたい』も、一週間前の『大好き』も、全部、未読のまま。
「……あは」
乾いた笑いが漏れた。
何を期待してたんだろう、私は。
知ってた。本当は、知ってたんだ。
既読がつかなくなったあの日から。
私たちは、もう終わっていたんだって。
◇
その夜。
ベッドの上で、私はスマホを見つめていた。
天井の染みを数えるのにも飽きて、結局また開いてしまう。トーク画面。一方通行の私のメッセージが、ずらりと並んでいる。
『おはよう』
『おやすみ』
『今日何してた?』
『会いたいな』
『大好き』
——全部、未読。全部、無視。
惨めだ。
こんなに惨めなことがあるだろうか。
「……楓、ごめん」
誰に言うでもなく、呟いた。
あんなに忠告してくれてたのに。『別れな』って、何度も言ってくれてたのに。私は笑って誤魔化して、「大丈夫だよ」なんて強がって。
全然、大丈夫じゃなかった。
大丈夫じゃないのに、大丈夫なふりをするのが、一番しんどかった。
嫌われたくなくて、ずっと我慢してた。違和感があっても、不安になっても、「私が気にしすぎなだけ」って自分を責めてた。
でも、今日わかった。
あの目を見て、やっとわかった。
私は、とっくに捨てられてたんだ。
スマホの画面が、また滲む。
——もう、いいかな。
ふと、そう思った。
限界だった。
既読をつけてもらえない苦しみも、他人を見る目で見られた悲しみも、知らない女の子と笑い合う彼を見た絶望も、全部、全部——
「……もう、いいや」
声に出したら、なんだかすっきりした。
不思議だ。ずっと怖かったのに。この言葉を口にするのが、世界で一番怖かったのに。
指が動いた。
メッセージ入力欄をタップして、文字を打つ。
『さよなら』
たった四文字。
二年間のすべてを終わらせるには、あまりにも短い言葉。でも、これ以上何を言えばいいのか、わからなかった。長々と未練を綴るのも、「どうして」と問い詰めるのも、もう疲れた。
——送信。
青いフキダシが、画面に浮かぶ。
一秒。
二秒。
三秒——
『既読』
「……え?」
ついた。
三秒で、既読がついた。
一週間無視されてたのに。『会いたい』にも『大好き』にもつかなかった既読が、『さよなら』には三秒でついた。
「……は?」
笑うしかなかった。
何それ。何それ何それ何それ。
『会いたい』は無視できるのに、『さよなら』は無視できないんだ。
私の好意は要らないけど、私が離れていくのは嫌なんだ。
私の愛情はどうでもいいけど、私に執着されなくなるのは困るんだ。
——ふざけるな。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。
ぷつん、と。二年間、無理やり繋ぎ止めていた糸が、やっと切れた。
悲しみじゃない。虚しさでもない。
これは、怒りだ。
二年間、ずっと抑え込んできた。嫌われたくなくて、見捨てられたくなくて、違和感に気づいても見て見ぬふりをしてきた。でも、もう——
ブーッ、ブーッ。
着信。
画面に浮かぶ名前。『蓮』。
「……」
出るべきか、出ないべきか。
一瞬だけ迷って、すぐに答えが出た。
出ない。
私は、もう決めたのだ。
電源ボタンを長押しする。画面がゆっくりと暗くなっていく。着信音が途切れる。静寂が戻る。
それは——彼への執着が消えた瞬間だった。
「……ばいばい、蓮」
暗い画面に映る自分の顔は、泣いているのに、どこかすっきりしていた。
◇
翌朝。
スマホの電源を入れた瞬間、通知が雪崩のように押し寄せてきた。
『電話出ろよ』
『さよならってどういう意味?』
『話がある。電話しろ』
『おい、無視すんな』
『詩織』
『詩織ってば』
『なんで既読つけねーの』
全部、蓮から。
深夜から朝にかけて、怒涛のメッセージ攻撃。一時間おきに送られてきた形跡が、履歴に残っていた。
「……」
私は無言でスマホを閉じた。
既読は、つけない。
会社に着くと、デスクに楓がいた。
「おっはよー。……ってうわ、顔死んでんじゃん。また蓮?」
「うん。……ていうか、別れた。たぶん」
「は?」
楓が目を見開く。コーヒーカップを持ったまま固まってる。
「え、待って待って待って。別れた? あの、詩織が? あのクソ男と?」
「……うん」
「マジで? マジのマジで?」
「マジのマジ」
「やっっっと目ぇ覚めた!!」
楓が両手を上げた。周りの社員がびっくりしてこっちを見る。
「ちょ、楓、声——」
「うるさい! これは祝うべき案件! 今夜飲み行くぞ! 乾杯! 祝杯!」
「……ありがと」
笑いたいのに、涙が出そうになる。
楓は私の顔を見て、急に真面目な表情になった。赤いリップが、きゅっと引き結ばれる。
「……詩織。あんた、よく頑張った」
「——っ」
「二年間、ずっとしんどかったでしょ。もう我慢しなくていいから」
涙腺が、決壊した。
「……うん。うん……っ」
「よしよし。今日は定時ダッシュな。いっぱい飲も。奢るから」
「ありがと、楓……」
泣きながら笑った。
私、やっと、自分を大切にできたんだ。
◇
その日の昼。
またスマホが鳴った。
『今どこ? 会社? 今から行く』
蓮からだ。
「……は?」
思わず声に出た。
今から行く? 会社に? 何を言ってるの、この人。
私が一週間メッセージ送っても既読すらつけなかったくせに、私が既読つけなくなったら会社に押しかけてくるの?
脳内で、蓮の声が再生される。
「なんで俺を無視するんだよ」
——今さら、何を言っているんだろう、この人は。
無視していた側が、無視される側になったとき。人は初めて、自分が何を失ったかを知る。
でも、知ったところで、もう遅い。
私はスマホを閉じた。
もう既読はつけてあげない。あなたが私にしたように。
◇
三日後。
昼休み、コンビニに行く途中で、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
ミルクティーベージュのロングヘア。儚げな雰囲気。——カフェで蓮の隣にいた、あの子だ。
「あ」
向こうも私に気づいた。
「もしかして、藤崎さん……ですよね?」
彼女が近づいてくる。ふわふわした声。ふわふわした笑顔。全部が計算されてるみたいに、可愛い。白石凛花、だっけ。蓮のSNSで名前を見たことがある。
「蓮さんから聞きました。別れたって」
「……そう」
「大変でしたね。蓮さん、すごく落ち込んでて」
落ち込んでる? 蓮が?
私を一週間無視して、この子と笑い合ってた蓮が?
「……ふうん。それで、何か用?」
感情を殺して、私は言った。
「いえ、別に」
彼女が小首を傾げる。うさぎみたいな目が、ゆっくりと細められる。
「ただ、一つだけ言っておこうかなって」
「何?」
「私、何もしてませんよ?」
にっこり、笑う。
「勝手に冷めたのは、彼の方ですし。私はただ、そばにいただけ。藤崎さんが構ってあげなかったから、寂しそうだったんですよね、蓮さん」
「——」
「だから、恨まないでくださいね? 悪いのは私じゃないので」
一瞬、頭が真っ白になった。
何、この子。
悪意がないのが、一番タチが悪い。『好きな人を奪って何が悪いの?』って、本気で思ってる目だ。
怒りが込み上げてくる。でも、それと同時に、妙な冷静さも湧いてきた。
「……そっか」
私は深呼吸した。
「ねえ」
「はい?」
「あなたの言う通りだよ」
彼女が目を丸くする。
「あなたのせいじゃない。蓮が勝手に冷めて、勝手に私を無視して、勝手にあなたに行った。全部、蓮の問題。あなたは——」
私は笑った。
「ただの、結果にすぎないもんね」
「——え?」
「だから、気にしないで。私、もう蓮のことどうでもいいから」
彼女の表情が、一瞬だけ歪んだ。私の反応が、予想と違ったんだろう。泣いて取り乱すか、怒って詰め寄るか、そういう反応を期待してたんだろう。
残念。
私はもう、あなたたちのために感情を消費する気はないの。
「じゃあね」
背を向けて、歩き出す。
「あ、あの——」
彼女が何か言いかけたけど、振り返らなかった。
◇
週末、実家に帰った。
「あら、詩織。珍しいわね、連絡もなしに」
お母さんが玄関で迎えてくれた。五十二歳。穏やかな笑顔は昔から変わらない。
「……うん。ちょっと、ね」
「上がりなさい。ちょうどおやつ作ろうと思ってたの」
リビングのソファに座ると、お母さんがココアを出してくれた。温かい。甘い。子供の頃から変わらない味。
「……お母さん」
「なあに?」
「蓮と、別れた」
言った瞬間、涙が溢れた。
我慢してたのに。平気なふりしてたのに。お母さんの顔を見たら、全部、崩れた。
「あら、そう」
お母さんは動じなかった。そっと隣に座って、私の背中をさすってくれる。
「……怒らないの?」
「何を?」
「だって、お母さん、蓮のこと気に入ってたでしょ。結婚の話も——」
「気に入ってないわよ」
「え?」
顔を上げると、お母さんは穏やかに笑っていた。
「お母さんね、あの子のこと最初から好きじゃなかったの」
「……嘘」
「嘘じゃないわ。でも、詩織が好きな人だから、何も言わなかっただけ」
お母さんが、私の涙を拭ってくれる。温かい手。柔らかい手。
「詩織のこと、お姫様みたいに扱わない男は全員ダメ」
「……お姫様って」
「だって、お母さんにとって詩織はお姫様だもの。大切な大切な、一人娘」
「お母さん……」
「あなたは何も悪くないのよ、詩織」
お母さんが、私を抱きしめた。
「一生懸命愛して、一生懸命我慢して、一生懸命頑張った。それで報われなかったのは、相手が悪かっただけ。あなたは、何も悪くない」
「お母さん……お母さんっ……」
子供みたいに泣いた。声を上げて、しゃくり上げて、みっともなく泣いた。
二年間、ずっと溜め込んでいたものが、全部、溢れ出していく。
「大丈夫よ、詩織。お母さんはいつでも味方だから」
「……うん。うん……」
「次は、ちゃんと詩織を大切にしてくれる人を選びなさいね」
温かい腕の中で、私は何度も頷いた。
大丈夫。私は、大丈夫だ。
◇
月曜日。残業で遅くなった帰り道、会社のエレベーターで声をかけられた。
「藤崎」
振り返ると、瀬戸先輩が立っていた。
穏やかな目元。黒縁の眼鏡。落ち着いた低い声。大学時代のサークルの先輩で、今は同じ会社の別部署にいる人。
「お疲れさまです、瀬戸先輩」
「遅くまで大変だな。飯、食った?」
「あ、いえ……まだです」
「じゃあ、よかったら一緒にどうだ。近くにいい定食屋があるんだ」
「え、でも——」
「遠慮するな。後輩に飯奢るのは先輩の義務だから」
瀬戸先輩が笑った。いつもの、押しつけがましくない優しさ。蓮みたいにグイグイ来るんじゃなくて、さりげなく気遣ってくれる感じ。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
定食屋は、昔ながらの落ち着いた雰囲気の店だった。生姜焼き定食を頼んで、向かい合って座る。
「最近、顔色悪かったから心配してたんだ」
「え……そうですか?」
「ああ。何かあったのか……って聞いていいのかわからないけど」
瀬戸先輩が、少し困ったように笑った。
「……彼氏と、別れました」
「そうか」
それだけ。『なんで?』とか『何があったの?』とか、詮索してこない。ただ黙って、お茶を飲んでいる。
その沈黙が、不思議と心地よかった。
「先輩」
「ん?」
「先輩、私が辛そうだった時……コーヒー、差し入れてくれましたよね」
「……覚えてたのか」
「覚えてますよ。残業も手伝ってくれたし」
「いや、あれは……たまたまだ」
瀬戸先輩が、少し照れたように目を逸らした。
「たまたま、私がしんどい時に限って?」
「……」
沈黙。瀬戸先輩が、ゆっくりと口を開いた。
「……大学の頃から」
「え?」
「ずっと、見てた。お前のこと」
心臓が、跳ねた。
「彼氏がいるのは知ってたから、何も言わなかった。でも、お前が辛そうにしてるの見て……何もしないのは、無理だった」
「先輩……」
「ごめん。こんなタイミングで言うことじゃないな。忘れてくれ」
瀬戸先輩が立ち上がろうとする。
「待ってください」
私は、その手を掴んでいた。
「……藤崎?」
「忘れません」
顔が熱い。
「忘れたくない、です。先輩の気持ち」
「——」
「今すぐ答えは出せないけど……でも、ちゃんと考えたいです。先輩のこと」
瀬戸先輩の目が、大きく見開かれた。そしてゆっくりと、柔らかく細められる。
「……ああ。待ってる」
「はい」
「何年でも、待ってるから」
その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
——ああ、そっか。
こういう人が、私を大切にしてくれる人なんだ。
追いかけなくても、縋りつかなくても、ただそばにいてくれる人。私が気づかなかっただけで、ずっと、ここにいてくれた人。
◇
一ヶ月後。
桜が舞う並木道を、二人で歩く。
「詩織」
隣を歩く陽斗さんが、私の手を握った。
「今度の休み、俺の実家行かないか。母さんが会いたいって」
「えっ」
「早すぎる?」
「い、いや……嬉しい、けど」
「よかった。母さんに自慢したいんだ、お前のこと」
陽斗さんが、照れくさそうに笑う。
「……うん。行く」
「約束な」
「うん」
風が吹いて、髪が揺れる。陽斗さんが、そっと私の髪を左耳にかけてくれた。
「——好きだよ、詩織」
「……私も」
ポケットの中で、スマホが震えた。
「どうかした? スマホ見て」
「ううん、何でもない。元カレから、まだメッセージ来るの」
「ブロックしなくていいのか?」
「ううん、しない」
「なんで?」
「だって——」
私は笑った。
「既読つけないのが、一番の復讐だから」
陽斗さんが、吹き出した。
「お前、意外と性格悪いな」
「そうかも」
「……でも、嫌いじゃない」
繋いだ手に、力がこもる。
一年前の私は、蓮からの既読を待って眠れない夜を過ごしていた。たった二文字に一喜一憂して、未読のまま放置されるたびに、自分の価値を疑っていた。
馬鹿みたいだ。
私の価値は、誰かの既読で決まるものじゃない。
今度こそ、この恋を大切にしよう。自分を大切にしてくれる人と、幸せになろう。
ポケットの中で、また震えた。
『詩織、お願いだから——』
既読はつかない。
もう二度と、つかない。
あなたへの執着は、あの夜——スマホの電源を切ったあの瞬間に、とっくに終わっているから。
◇
桜の花びらが、私たちの上に降り注ぐ。
陽斗さんの手は温かくて、私の手をしっかり握っている。
——ねえ、蓮。
私、やっと気づいたよ。
本当に私を好きな人は、既読をつけるかどうかで私を試したりしない。返信が遅いからって、不安にさせたりしない。他の女の子と楽しそうにして、私を焦らせたりしない。
ただ、静かに、ずっとそばにいてくれるんだ。
私が気づかなくても、私が別の人を見ていても、それでも変わらずに。
——そういう人が、隣にいてくれる幸せを、私はやっと知った。
「詩織、何考えてる?」
「んー……幸せだなって」
「急にどうした」
「いいでしょ、別に」
「……そうだな。いい」
陽斗さんが笑う。私も笑う。
春の風が、私たちの間を通り抜けていく。
長かった冬が、やっと終わった。
『詩織、お願いだから連絡くれ』
——既読はつかない。
もう二度と、つかない。
さよなら、蓮。
私は、もうあなたの『未読』にはならない。




