第4話・生、あるいは執着
「はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……はぁ、これは折れた……かな」
乙女の血塗れた右腕に、ドス黒い魔物の腕が振り下ろされている。
その威力は凄まじく、乙女の両足を支える地面が沈みかけている。
抑えられた右腕を無理やりに払い、即座に魔物の腕を掴み、そのまま引き寄せる。
無理やりに頭を突き出し、勢いよく相手の胸元にぶち当てた。
「っぺ……どう、効いた?」
よろめき退く魔物の姿を見ながら、唾を砂場に吐き捨てる。
口元から垂れる血を左手で拭おうとし、失っていたことを思い出して渇いた笑い声を漏らす。
(よく分かんないけど……なんか、生きてる……!)
先ほどからバチバチとした何かが、心臓に近い所から溢れるように湧き上がる。
どくどくと血流の中を循環し、全身へと行き渡って細胞を熱く燃やしていく。
アドレナリンか、それともドーパミンとか別の興奮成分か。
過剰摂取かと思うほどに、自身の脳を浸していく感覚がする。
直後、魔物の影が揺れ動いた。
(っ……どう来る!?)
消えたかと錯覚する程の速さで、魔物が目前へと迫る。
勘を頼りに大きく仰け反る。
次の瞬間、今さっきまで顔があった位置を腕が横切った。
(訳分かんないけど、これなら……)
先ほどまでの濁り切った視界が、嘘だったみたいにクリアだ。
体の痛みも違和感も消え去り、新品になったように体が軽い。
姿勢を変えないまま、右足を振り上げる。
「勝てる……!」
スニーカーのつま先が魔物の顎に直撃する。
真っ黒な液体が辺りに飛び散り、砂埃の上から靴を汚した。
乙女は勢いを止めずに体を捻り、浮いたままの右脚を振りかぶった。
足首に衝撃が走り、相手の顔面を蹴り飛ばした感触を味わう。
(っし、決まった……!)
そう考えた直後、魔物の腕が視界の端に見えたと同時に、死角から右頬を打ち抜かれた。
全身が宙に浮き上がり、前後上下と翻りながら地面に足を付ける。
砂の床に指を突き刺して、滑っていく体の勢いを殺す。
外れかけた顎を力任せに戻し、何度か噛み締めてから魔物の方を睨んだ。
あの体勢からの反撃、避けようが無いに等しい。
「流石は魔物……ふざけてやがッ!?」
反射的に右腕を前に突き出した瞬間、自動車に正面衝突されたかのような、そんな衝撃が全身を襲った。
肋骨が粉々になった感触を覚え、弾かれたピンボールのように吹き飛んでいく。
(マズイマズイマズイ! どこか掴める場所は……!)
目まぐるしく変わる景色に吐き気を催す。
その中で充血した瞳が見たのは、公園を囲うフェンス。
凄まじい速度で宙を飛んでいき、体が金網の上を通り過ぎる。
瞬間、人間に出来る限りの速さで腕を伸ばした。
フェンスに右手が引っ掛かり、乙女の勢いで金網がみるみると歪んでいく。
そして――
「はぁ、はぁ……危なかった」
もう折れると思うほどにまで歪んだところで、勢いを殺し切ることが出来た。
可哀想なほどにひしゃげたフェンスから手を離し、コンクリートを踏みしめる。
あのまま行けば、左腕どころか全身がおしゃかになるところだった。
「………………かはっ」
喉から、鮮血が溢れ出した。
立ちくらみで膝を着きそうになり、脚に力を込めて耐える。
「ぉえっ……あれ゙、なん……止ま、らない」
右手で口元を押さえるが、指の隙間から漏れて垂れ続ける。
どんどんと出血量が増えて、コンクリートに血溜まりを広げていく。
顔を上げずに眼球だけを動かし、前方を確認する。
砂煙の向こうに、近づいて来る影が見えた。
まだ吐血は止まる気がしない。
(どうする、どうする……どうする、千桜 乙女!)
ついに、魔物が姿を現した。
その空瞳をこちらに向けて、嘲笑うように1歩、1歩と近付いて来る。
血溜まりに浸かる右足を、後ろにずらした。
「覚悟を決める……しかないよね」
少しばかり腰を落とし、肘をゆっくりと引いていく。
視線を上げ、目を合わせる。
「来なよ……化け物」
魔物が先に動く。
その瞬間、ただ右腕を全力で振るった。
「ふ、ははっ……あぁ、このザマかぁ……」
瓦礫の下敷きになりながら、ぽつりと呟いた。
唯一見える左眼には、離れた場所に落ちた黒色の手が映っている。
体の熱が、コンクリートで冷やされていく。
先ほどまでの興奮も、酔いが覚めたかのように消えた。
ただの人間が魔物に勝とうなんて、1000年は早かったのだ。
何が起きたかなんて見えなかった。
気が付けば殴り飛ばされ、建物に叩きつけられていた。
壁が崩れ、落ちてきた瓦礫が下半身に降り積もっている。
「はぁ……もう動けない、詰んだ」
瓦礫を退かすための右腕は、もう吹き飛んだ後だ。
ぐらりと目玉を動かし、視線を前に向ける。
届かなかった。
ほとんど変わらぬ様子で、魔物がコンクリートの上を闊歩している。
まもなく、再処刑の時間だ。
「死ぬんだ、結局死ぬんだ」
砂埃が目に入って涙が出てきた。
いつのまにか、吐血は止まっている。
「ああ……たくない」
乙女が、言葉を零した。
「分かんないけど、死にたくない!」
瓦礫を退かそうと体を揺らしもがく。
「誰でもいい、なんでもいい……私に貸せよ」
上半身を仰け反らせ、ただ叫んだ。
「私に力をくれよ!!! 生きる、力を!!!」
『ようやく、ようやく届いたか』
低い女の声が、耳元で聞こえた気がした。
空気が揺れ動いた感覚を覚え、頭上が見えるように目玉を回す。
そこには、
虹色の光沢を放つ――
宝石のような貝殻が浮かんでいた。




