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聖女をいじめた悪役令嬢として婚約破棄されましたが、祈りの暴走を止めたのは私です

掲載日:2026/03/22

「ロザリア・フェルン。君との婚約は、今日この場で解消する」


 春の夜会場は、ついさっきまで祝福祭前夜の華やぎで満ちていた。

 白い花、磨かれた床、天井近くを漂う淡い加護灯。

 その中央で第一王子フェリクスが私を見据え、まるで正義の宣告でもするように言い放つ。


 「理由は明白だ。君は聖女候補リリアーヌへ繰り返し嫌がらせをした。祈りの練習を止め、供物を取り上げ、皆の前で手首まで掴んだ。そんな悪役令嬢を、未来の王妃に置くわけにはいかない」


 場がざわめいた。

 ああ、やはり今夜なのだと私は思う。


 遅いくらいだった。


 「異論はありません」


 私がそう言うと、周囲の空気が一瞬止まった。

 もっと取り乱すと期待していたのだろう。


 フェリクスの隣では、淡い金色の髪を揺らしたリリアーヌが青ざめている。

 彼女は善良で、誰かを陥れようとするような娘ではない。

 だからこそ厄介だった。


 自分が壊れかけていることを、彼女は何ひとつ知らないのだから。


 「ロザリアさま……」


 「泣かなくて結構よ、リリアーヌ」


 私は穏やかに言った。


 「あなたの明日の大祈祷が滞りなく終わるよう祈っているわ」


 その瞬間、何人かが息を呑んだ。

 皮肉だと取ったらしい。


 けれど私の言葉は、本気だった。

 滞りなく終わってほしい。暴走さえしなければ。


 フェリクスはさらに眉をひそめる。


 「最後までその態度か。君はいつもそうだ。正しそうな顔で、棘のある言葉ばかり吐く」


 私は肩をすくめた。


 「二度お伝えしました。リリアーヌの祈りは長すぎると」


 「またそれか。彼女の力を恐れているだけだろう」


 違う。

 恐れているのは力そのものではない。

 力を流し続けた先にある、壊れ方だ。


 けれどこの場でそれを言っても、また嫉妬だと笑われるだけだろう。

 私は一礼し、婚約指輪を外して近侍へ渡した。


 「でしたら、もう私は止めません」


 その言葉に、近くで警護していた近衛騎士レオンが微かに顔を上げた。

 鋭い灰青の目だけが、妙に静かだった。


     ◇


 悪役令嬢。


 そう呼ばれ始めたのは三か月前、最初に私がリリアーヌの祈りを止めた日からだ。


 王城北礼拝堂の小さな練習で、彼女はまだ聖女候補として正式任命される前だった。

 白い祭服に身を包み、嬉しそうに祈りの言葉を唱える彼女の足元で、加護灯が一つ、二つと明るさを増していった。


 最初は誰もが喜んだ。

 天才だ、さすがだ、これなら王都は安泰だと。


 けれど私は、リリアーヌの指先が震えているのを見た。

 祈りの言葉が五句目へ入る前、耳の後ろから赤みが差し、呼吸が浅くなるあの兆候。


 忘れようがない。


 かつて王妃だった方が、同じ顔で倒れたと聞いているから。


 私は祈りの途中で一歩踏み込み、供物の聖杯を取り上げた。


 「ここでやめて」


 礼拝堂が凍った。

 リリアーヌは驚き、祭司たちは蒼白になり、フェリクスは私を激しく睨んだ。


 「何をする」


 「長いの。これ以上は危ない」


 「君に祈りが分かるのか」


 「分かるわけではなく、見ているのです」


 そう言っても、誰も聞かなかった。


 その夜、私は老侍女マルタを訪ねた。

 彼女は亡き王妃に長く仕えた人で、今も離宮の一角に暮らしている。


 「マルタ、やはり王妃さまも同じでしたか」


 私が問うと、彼女はしわだらけの手で膝の上の布を握りしめた。


 「ええ。祈りを重ねすぎると、あの方は鼻先から血をこぼされました。明かりが増えるほど、身体の中が削れていくとおっしゃっていた」


 「なぜ公にされなかったの」


 「聖女の加護が王家の誇りだったからです」


 マルタは低い声で言った。


 「止める役が必要だと、あの方は最後におっしゃいました。けれど止める人間は、いつだって祝福を邪魔したと憎まれるのだとも」


 私はその時、初めて自分の寒気に名前をつけた。


 嫉妬ではない。

 予感でもない。

 目の前で同じ兆候が繰り返されることへの、はっきりした恐怖だ。


     ◇


 二度目は庭園の小祈祷だった。


 祝福祭一週間前、リリアーヌは噴水庭で子どもたちへ小さな加護を与える練習をしていた。

 花びらが舞い、笑い声が響き、見物人たちは彼女の慈愛に酔っていた。


 だからこそ、途中で私が鈴を鳴らして祈りを切った時、空気は一気に敵意へ変わった。


 リリアーヌの唇は青くなりかけていた。

 祈りの音程が半音上がり、噴水の水面に薄いひびのような光が走っていた。


 「またですか、ロザリアさま」


 リリアーヌは困ったように笑った。

 責めてはいないのだ。むしろ彼女はいつだって、私の気分を害したくないと怯えた顔をする。

 その善良さが周囲の誤読をもっと強くする。


 「もう十分よ。座って」


 「でも、まだ子どもたちに」


 「座って」


 私は彼女の手首を掴んだ。

 細い骨が、びくりと震えた。


 次の瞬間、歓声は非難に変わった。


 冷たい女。

 聖女候補に嫉妬している。

 あんなふうに腕を掴むなんて。


 私はその全部を聞きながら、彼女を木陰の椅子へ押し込んだ。

 数秒後、リリアーヌは細く息を吐き、鼻先に薄い赤を滲ませた。


 それでも祭司たちは「緊張でしょう」で片づけた。

 フェリクスは私へ向き直り、もう我慢の限界だという顔で言った。


 「君の行動は、もはや忠告ではない」


 「なら正式に申し上げます」


 私はその場で彼へ書面を差し出した。

 祈祷時間の制限、供物の量、交代の合図。

 マルタから聞いた王妃の記録と、私が見た前兆を書き並べた簡単な覚え書きだ。


 フェリクスはそれを見もしなかった。


 「今は祝祭前で忙しい。あとにしてくれ」


 あとにされたものは、だいたい永遠に読まれない。

 私はもう知っていた。


 それでも私は翌朝、礼拝堂付き祭司長へ同じ内容を写した紙を出した。

 祈祷は四句で切ること。

 香油を焚きすぎないこと。

 終えた直後に冷水ではなく常温の果水を飲ませること。


 祭司長は受け取りこそしたが、封も切らずに卓上へ置いた。


 「公爵令嬢のご不安は分かります。しかし祝福祭直前に聖女候補の手順を変えれば、無用な混乱を招きます」


 「混乱で済めばいいのですけれど」


 私がそう言っても、老人は困ったように眉を下げるだけだった。

 誰もが事故を恐れてはいる。

 ただ、自分の代で不吉な前例を認めたくないだけだ。


 その日の夕方には、医官長にも短い面会を求めた。

 けれど返ってきたのは「若い娘は式典前に緊張するものです」という、ひどく整った返事だけだった。


 私はその時ようやく理解した。

 彼らは私の言葉そのものではなく、私が言うという事実を先に嫌っている。

 婚約者の座にいる女が、聖女候補へ制限をかけたがる。

 それだけで、話の中身より先に物語が出来上がるのだと。


     ◇


 婚約破棄の翌朝、公爵家の馬車で王都を離れるつもりだった私のもとへ、一通の招待状が届いた。


 祝福祭本番への参列許可。

 差出人は王太后付きの老侍女マルタだった。


 「あの方らしい」


 私は苦く笑った。


 止める役が必要だと知っている人だけが、まだ私を完全には追い出していない。


 マルタの使いの侍女は小声で告げた。


 「王太后さまは体調のため表には出られません。でも、聖印だけはロザリアさまへ託したいと」


 小箱の中には、王妃家に伝わる銀の聖印が入っていた。

 古い百合の紋章に、切り替えの祈句が細く刻まれている。


 祈りの流れを遮るのではなく、弱い方へ逃がすための道具。


 私はそれを見つめた。


 「どうして私に」


 「止める時に憎まれても、手を離さない人だから、と」


 答えは重かった。


 できれば、そんな役は誰にも回ってほしくない。

 けれど目の前で壊れる人がいるなら、私はやはり放っておけない。


 屋敷へ戻る馬車の中で、私は聖印を膝に置いたまま窓の外を見ていた。

 王都の通りは明日の祝祭を待って浮き立ち、人々は花紐を掲げ、子どもたちは白布を振って走り回っている。


 誰も、祭壇の上で命が削れるかもしれないなどとは思っていない。

 そう思う必要も本来はない。

 祝福は喜ばれるべきもので、止める役は最初から裏方に追いやられている。


 けれど私はもう、見てしまった。

 指先の震えも、呼吸の浅さも、鼻先に滲む赤も。

 知っていて背を向ける方が、私にはよほど残酷だった。


 その夜、公爵家の侍女頭は静かに旅支度を進めていた。

 衣装箱が閉じられ、装身具が布へ包まれていく。

 私はその横で、祝福祭が終わるまで解かないつもりだった髪飾りをひとつ外した。


 明日が無事に終われば、私はこのまま王都を去る。

 それでいいと自分に言い聞かせながら、胸の内では、最後まで間に合ってほしいと祈っていた。


     ◇


 祝福祭当日、王都中央広場は白金の布と春花で埋め尽くされていた。

 祭壇の階段は幾重もの灯に囲まれ、民衆は聖女候補の登場を今か今かと待っている。


 私は招待客席のいちばん端、すぐ動ける位置に立っていた。

 もう婚約者候補ではないので、華やかな席は与えられていない。

 その方が都合が良かった。


 レオンが警護列の外側から一度だけ私を見た。


 「本当に来たのですね」


 「来るなと言われても来ました」


 「フェリクス殿下は歓迎していません」


 「知っているわ」


 私が答えると、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。


 「なら、せめて私の視界の中にいてください」


 その一言に、私は初めて彼の言葉が命令ではなく心配なのだと気づいた。


 太鼓が鳴り、リリアーヌが祭壇へ上がる。

 白い祭服、薄金の髪、胸の前で組まれた指。


 彼女が祈り始めると、広場の加護灯が一斉に明るくなった。

 人々は歓声を上げ、フェリクスは誇らしげに彼女を見上げる。


 一句、二句、三句。


 四句目で私は息を止めた。


 リリアーヌの左手の小指が、不自然に反る。

 肩の上の光が輪ではなく針のように立ち、祭壇の石目へ細い線を走らせる。

 首筋には汗ではなく、冷えた露のような光の粒が滲み始めていた。

 これは良い兆しではない。

 体の外へ溢れた加護が、戻る場所を失っている時の出方だ。

 五句目に入る直前、彼女の鼻先から赤い滴が落ちた。


 来る。


 私は立ち上がった。


 「止めて!」


 叫びと同時に祭壇へ駆け込む。

 ざわめきと怒号が背中へ飛んだが、構わない。


 フェリクスが前へ出る。


 「ロザリア、下がれ!」


 「もう遅い!」


 私は聖印を抜き、祈り続けるリリアーヌの両手へ押し当てた。

 熱い。

 皮膚の下を流れる光が、まるで火傷のように脈打っている。


 「リリアーヌ、聞いて。祈りを上へ押し上げないで。足元へ落として」


 彼女の瞳は半ば閉じ、焦点が合っていない。

 祭壇の縁へ白いひびが走り、灯が一つ破裂した。


 私は聖印の刻字を親指でなぞり、切り替えの祈句を口にする。


 「祝福を捧ぐのではなく、留めて。巡らせて。手放さないで、息に戻して」


 昔、マルタが小さな声で教えてくれた言葉だ。


 リリアーヌの身体が大きく震えた。

 悲鳴がどこかで上がり、階段下の灯が二つ同時に割れる。

 それでも私は聖印を離さず、彼女の背中へもう片方の手を回した。

 逃がす先がなければ、光はまた上へ噴き上がる。

 だから肩ではなく背へ、背ではなく足元へと意識を落とさせる。


 「息を吸って。吐いて。声にしなくていい、私の数を追って」


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 リリアーヌの喉がひくりと鳴り、胸の上下がようやく私の数に合った。

 次の瞬間、広場全体を満たしかけた光が、上へ裂けるのではなく彼女の胸元へ丸く沈み、暴れていた風がふっと落ちた。


 私はそのまま彼女を抱える。

 細い体が完全に力を失っていた。


 「医官を! 静かな部屋へ! 香油を遠ざけて、灯を半分落として!」


 レオンの声が鋭く飛ぶ。

 近衛たちが一斉に動き、祭壇周りの見物人を下がらせる。


 フェリクスだけが、呆然と立ち尽くしていた。


 「な、にを……」


 私は彼を見た。


 「私が二度止めた時も、同じ前兆が出ていました」


 リリアーヌの唇にまだ赤が滲んでいる。

 その事実の前では、嫉妬も悪意も、ひどく薄っぺらく見えた。


 祭司長が青ざめた顔で控え室へ駆け込み、ようやく私の差し出した書面を震える手に持っていた。


 「この合図のことを、あなたは前に……」


 「ええ。庭園の時にも、礼拝堂の時にも」


 老人は声を失った。

 読まれなかった紙は、いまさら重みを持って彼の指に乗っている。


 責めたいわけではない。

 けれど、誰も読まなかった結果がこの部屋だという事実だけは、曖昧にしてはいけないと思った。


     ◇


 広場脇の控え室で、医官がリリアーヌの容態を確かめる。

 命に別状はないが、三日は安静だと言われて、ようやく私は息を吐いた。


 マルタが遅れて入ってきて、目を伏せた。


 「間に合いましたね」


 「ええ」


 「王妃さまも、最後まであの切り替えが間に合わなかった」


 その一言で、部屋の空気が変わった。

 フェリクスが顔色をなくす。


 「王妃が?」


 マルタは静かに答えた。


 「ええ。祈りの熱が上がりすぎると、命を削ることがある。だからロザリアさまは何度も止めておられたのです」


 「どうして誰も俺に……」


 「あなたは聞かなかったのでしょう」


 私が言うと、フェリクスは唇を噛んだ。


 責め立てたい気持ちがないわけではない。

 けれど今は、それよりもリリアーヌが生きている方が大事だった。


 目を開けた彼女は、かすれた声で私を呼んだ。


 「ロザリアさま……わたし、怖かった」


 私はベッド脇へ座った。


 「ええ、怖かったでしょうね」


 「ずっと、あたたかいと思っていたのに、途中から身体の中が空っぽになるみたいで……でも皆、すごいって笑っていたから」


 彼女の睫毛が震える。


 「わたし、あなたに嫌われているんだと思っていました」


 「嫌っていたら、祭壇へ飛び込まないわ」


 私がそう言うと、リリアーヌは子どものように泣いた。


 その涙を見て、ようやく部屋の誰もが、私の介入が悪意ではなかったと理解したのだと思う。


 フェリクスが一歩近づいた。


 「ロザリア、私は……」


 「言わなくて結構です」


 私は視線だけで止めた。


 「今のあなたが謝るべき相手は私だけではありません」


 彼は返す言葉を失う。


 レオンが静かに扉を閉めた。

 その動きだけが、不思議と私を落ち着かせた。


 その日の夕刻、王太后の名で簡単な申し渡しが出た。

 祝福祭の祈祷手順はしばらく短縮し、聖印の補助なしで五句以上を続けないこと。

 祭司長と医官長は王妃時代の記録を洗い直し、同じ兆候がなかったかを確認すること。


 私は命令書を受け取ったわけではない。

 けれど少なくとも、昨夜まで「嫉妬」と片づけられていたものが、初めて記録として扱われた。

 それだけで十分だった。


     ◇


 祝福祭の翌日、王城には「悪役令嬢が聖女候補を救った」という話が一気に広がった。

 昨夜まで私を非難していた貴婦人たちが、今度は手のひらを返すように微笑む。


 けれど私はそのどれにも興味が持てなかった。


 中庭の回廊で一人になったところへ、レオンが来た。


 昼の光の中でも、彼の目は昨夜と同じ温度だった。


 「怪我はありませんか」


 「ありません。あなたこそ、祭壇へ上がる許可もないのに私を通してよかったの?」


 「よくはないでしょうね」


 彼は少し笑った。


 「でも、止めるつもりの人の顔だった。あれを邪魔したら一生後悔すると分かりました」


 私は思わず黙った。


 昨夜からずっと、誰かに初めてそう読まれた気がしていた。

 嫉妬でも怒りでもなく、止めるつもりの顔だと。


 レオンは一歩だけ近づく。


 「ずっと前からおかしいと思っていました。あなたがリリアーヌ嬢を止める時、必ず先に彼女の息と指先を見ていた」


 「見ていたの」


 「警護は人の手を見るものです」


 それは騎士らしい答えで、少し可笑しかった。


 「婚約破棄されたばかりの令嬢へ、こんなことを言うのは不作法ですが」


 彼はそこでいったん息を止めた。


 「次に誰かを守る時、今度はあなたひとりで祭壇へ走らなくていい立場にいたい」


 私は彼を見上げた。


 熱烈な言葉ではない。

 けれど、私が昨夜いちばん欲しかった言葉だった。


 「それは求婚?」


 「まだ願いです」


 「ずいぶん慎重なのね」


 「あなたは、軽い言葉を嫌いそうなので」


 図星だった。

 私は笑い、そして昨夜から初めて肩の力を抜いた。


 「では、その願いをもう少し聞いてみたいわ」


 レオンの表情が、ほんの少しだけほどける。


 それだけで十分だった。


     ◇


 一週間後、リリアーヌは正式に祝福の回数を減らし、祈りの切り替えを学び始めた。

 私はその練習へ呼ばれたが、以前のように敵を見る視線はもうなかった。


 最初の練習では、四句目の前で彼女が自分から手を止めた。

 すぐ横で祭司が合図を返し、医官が椅子を引き、侍女が果水を差し出す。

 たったそれだけの段取りなのに、前よりずっと静かで、前よりずっと安全だった。


 リリアーヌは休憩の合間に、小さく頭を下げた。


 「今まで、止められるのが怖かったんです。皆の期待がなくなる気がして」


 「止めることは、なくすことではないわ」


 私はそう答えた。


 「続けられる形に戻すだけ」


 彼女はその言葉を大切なもののように繰り返し、胸の前でそっと握った。


 フェリクスも謝罪に来た。

 遅すぎる謝罪だったが、私は受け取るだけ受け取って、それ以上は求めなかった。


 王城の廊下で頭を下げる彼は、婚約者だった頃より少しだけ幼く見えた。

 たぶん彼は、私を信じなかったことより、自分が見たい物語だけを先に信じたことをようやく理解したのだろう。

 けれどそこまでだ。

 遅れて芽吹く理解は、失われた関係まで元へ戻しはしない。


 婚約を失った夜には、まるで世界の見え方が変わるように思えたのに、いざ終わってみれば、失ったのは私を信じなかった人ひとりだ。

 残ったのは、止めるべき時に止めた手と、その手を見ていた人たちだった。


 王城の白い回廊を歩きながら、私は胸元の小さな聖印へ触れる。


 悪役令嬢。

 聖女いじめ。

 婚約破棄。


 どれも昨夜までは私を刺す言葉だった。

 けれど今はもう、外側の名前にすぎない。


 祭壇で暴れる光を止めたあの一瞬に、何が本当だったかは全部残った。


 向こうからレオンが歩いてくる。

 今日は勤務明けらしく、肩の金具を外した軽装のままだ。

 それなのに、彼の歩幅だけは相変わらず乱れない。


 「リリアーヌ嬢の様子は」


 「良好よ。四句目でちゃんと止まれたわ」


 「それは何よりです」


 彼はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


 「あなたはまた誰かが無理をしたら、自分ひとりで前へ出るのでしょう」


 「たぶん」


 「では、その前に私へ合図をください」


 私は瞬いた。


 「命令ではなく?」


 「願いだと、前に申し上げました」


 その言い方があまりに真面目で、私は笑ってしまう。


 「ええ。覚えているわ」


 私は立ち止まり、今度は逃げずにその手を取った。

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