第四話 陛下と娘
結局、優子は城に住むことにした。
理由は単純で、翌日起きたら体がぴんぴんしていて、一方で「また一時間歩くのか」と思ったら気力が根こそぎ消えたからだ。
なるほど。これはみんなリモート勤務したがるわけだ。
割り当てられた部屋は広かった。
桃花の部屋も隣に用意された。
侍女が三人つき、「モモカさまのお世話もお任せください」と言われた。
「桃花は『さま』じゃないですけど」
「ヴィクトル陛下のご指示です」
「それに、あなたたちのお給金、私では払えません」
「そちらも、心配ご無用かと」
優子はため息をついた。
城での生活が始まると、思いがけないことが起きた。
桃花が、ヴィクトルになついた。
最初は廊下ですれ違っただけだった。ヴィクトルが「よう」と声をかけると、桃花は一瞬じっとして——それから、よちよちと近づいていって、ヴィクトルのズボンをぎゅっと掴んだ。
「……ん?」
「す、すみません!桃花、ダメだよ!」
「構わん」
ヴィクトルは桃花を見下ろした。
桃花はにぱーっと笑った。
「……笑った」
「人見知りしないんです、この子……本当にすみません」
「なぜ謝る。可愛い」
その日から、桃花はヴィクトルを見るたびに突進するようになった。
ヴィクトルも最初こそ戸惑っていたが、三日目には当然のように抱き上げるようになった。
決定的だったのは、一週間後の午後だった。
仕事を終えた優子が中庭に出ると、その光景が目に飛び込んできた。
石畳の上に、ヴィクトルがしゃがんでいた。
隣に桃花。
二人で、アリを見ていた。
「あー!あー!」
「ああ、これはアリだな。小さいな」
「あーあー!」
「そうか、でかいな、こっちのほうが」
「あ!」
「急いでどこかに行った。忙しいんだろう、余みたいに」
桃花の喃語にヴィクトルが真剣に応える、そして桃花がころころ笑う。
優子は、廊下の柱の陰で、完全に動けなくなっていた。
元夫とは願っても見られなかった光景が、今、目の前にある。
胸のあたりで、何かが音を立てた。
やばい。
夕食の席で、ヴィクトルは何事もなかったように「今日の馬の飼料費の件だが」と仕事の話を始めた。
優子も「はい、先月比で十二パーセント増加していまして」と普通に答えた。
桃花はヴィクトルの隣に座って、パンをもしゃもしゃ食べていた。
気が付けば、三人で食事をすることが当然になっていた。
「モモカ、それは余のパンだ」
「あ」
「……まあいい。食え」
そこで優子の口の端が微妙に動いた。
「なんだ、笑うな」
「笑ってません」
「口が動いていた」
「気のせいです。陛下、月次報告の件ですが」
「話を変えるな」
「経理の話です。お仕事の話です」
「……」
ヴィクトルは桃花を見た。桃花はにこにこしながらパンを食べていた。
ヴィクトルも、知らず知らず、似たような顔になっていた。
ある晩のこと。
桃花を寝かしつけた優子が廊下に出ると、ヴィクトルが壁にもたれて立っていた。
「……陛下、こんな時間に」
「散歩だ」
「お城の廊下で?」
「余の城だ、余の自由だ」
優子は少し笑って、並んで歩いた。
「スズキ。いや、ユウコ」
「……はい」
「……よくここまで一人でやってきたな」
唐突だった。優子は少し驚いて、ヴィクトルを見た。
「私は一人じゃないですよ。桃花がいるので」
「そうではなくて」
ヴィクトルは少し困った顔をした。
「まあ……大変だっただろう、ということだ」
「陛下こそ。お一人でこの国を動かしているんですよね。私なんかより」
「余はたくさん部下がいる」
「部下がいても、一人は一人です」
また沈黙。
廊下の窓から、月が見えた。
「ユウコ」
「はい」
「ここに……いてくれるか。モモカも含め」
優子は足を止めた。
ヴィクトルも止まった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
「そのまま受け取ってくれ」
「……私は、夫から逃げた女です」
「知っている」
優子はしばらく月を見た。
胸の中で、あの音がまたした。あの、アリを見ている横顔を見たときの、音。
「少し、時間をいただけますか。まだ……男性を信じるのは怖いです」
「わかった。急がなくていい。これでも気は長いほうだ」
「でも、一つお聞きしていいですか」
「なんだ」
「私、定時に帰りますよ。それと、王様だからって特別扱いしないですよ。たぶん一生」
ヴィクトルは少し沈黙した。
それから。
くっと、笑った。
「知っている。それがいい」
「……なんで」
「世界中の誰も余に『待て』と言わない。お前だけだ」
優子は少し考えて、言った。
「では、今だけ特別に言いません」
「今は何と言う」
「……私は、ここにいます」
月が明るかった。
部屋のベッドでは、桃花がすやすや眠っていた。
夢の中でアリを追いかけているかもしれない。
廊下の二人は、しばらく並んで月を見ていた。
言葉はもう、必要なかった。
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