第一話
カバンを抱えて走っていた。
夜の住宅街を、スニーカーで、子どもを抱えて、ひたすら走っていた。
「ほら、ももちゃん、もうちょっとだよ」
背中の抱っこ紐から顔を出す一歳の娘、桃花は、よほど雰囲気を察しているのか、ぐずりもせずにきゅっと母親の服を握っている。
鈴木優子、二十九歳。
元経理事務員。
現在の身分は、夫から逃げている途中の主婦。
結婚してから少しずつおかしくなっていった夫。
最初は言葉だったのが、やがて手が出るようになった。
義実家も「あなたの態度が悪い」の一点張り。
職場の友人に相談して、ようやく逃げ出す決意をしたのが今夜だった。
母子生活支援施設の住所をスマホで確認しようとした、その瞬間だった。
足元が光った。
眩しい、と思う暇もなかった。
「——え」
気づいたら、石畳の上に立っていた。
周囲には松明の灯り。甲冑を着た人たち。
遠くには、これ以上ないくらい立派な、石造りの城。
「お、おい!不審者だ!捕らえろ!」
「ちょっ、待って待って!子どもいます!一歳!子ども抱えてます!」
優子は反射的に両手を上げた。背中の抱っこ紐の中で、桃花が「あー」と声を出した。
牢屋に入れられるかと思ったが、意外にも城の応接室らしき部屋に通された。
騎士たちが困り果てた顔をしているのは、子どもを抱えた若い女を牢に入れるのも忍びなかったのだろう。
事情を説明した。
夫から逃げていたこと、気が付いたらここにいたこと。
そして、子どもがいること。
「つまり……あなたは、この世界の人間ではない、と」
「おそらく……証明する方法がないのはわかってます。でも、嘘はついていません」
「いえ、信じますよ。あなたが持っているものは、どれも見たことが無いものばかりだ」
初老の文官——は、深いため息をついた。
「困りましたね。不法入国というわけにもいかない。放り出すわけにもいかない。かといって、税金で養うわけにも……」
「あの。仕事、させてもらえませんか」
「仕事、ですか」
「私、簿記二級持ってます。経理事務、五年やってました。帳簿の付け方なら、どんな形式でも対応できます。仕事をくださるなら、住む場所と、娘の保育をお願いしたい。給料はそれで十分です」
「……簿記、とは?」
「お金の出入りを記録する技術です。どこにいくら使って、何が儲かって、どこが赤字か。一目でわかるようにする仕事です」
しばらく間があった。
「……実は今、王宮の経理が少々、混乱しておりまして」
「お任せください」
優子は静かに微笑んだ。
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