チャプター4: 熊
「くそっ……」
青髪の少年が小声で呟いた。彼はクマを見据えていたが、一体何をすればいいのか、まったくわからなかった。コナーの身体に宿るすべての本能が、逃げろ、と叫んでいた――しかし、恐怖に体が固まり、一歩も動けずにいた。
異質な匂いに目を覚ましたネーヴも、状況をうまく対処できず、飼い主のそばにすり寄りながら、ほとんど音にならないような声で震えていた。
張り詰めた沈黙が場を支配し、コナーもネーヴも、そしてクマさえも、その静寂を破ることはなかった。コナーは内心で罵りながらも、どう動いたらいいかわからず、ただクマを睨みながら襲い掛かる瞬間を待つしかなかった。逃げなければ。ネーヴを連れて、一刻も早くこの場を離れなければ。
少年はそっと片手で子犬を抱き、もう片方の手で隣にあった槍を握った。クマを刺激しないよう、視線をそらさず動きを最小限に抑えて。
だが、コナーはまだ子供だった。どれだけ重い責務を背負っていても、永遠に集中を保ち続けることなどできない。
その瞬間は一瞬だった――ネーヴが慌てて隠れようとして彼の胸元に爪を立てた。それに驚き、コナーが少しだけ顔を背けた。
そのわずかな瞬間こそが、クマのチャンスだった。少年が頭を引いたと同時に鋭い爪が振り下ろされ、木の板を砕く音と共に無数の木片が飛び散った。
コナーはすぐに飛び退き、槍を握り直した。クマの胸を突くつもりで突き出したが、クマはタイミングよく後退し、槍はわずかに脇腹をかすめるにとどまった。
致命傷とはならなかったが、それでもコナーには逃げるチャンスが訪れた。子犬を抱えたまま、彼は走り出した。
森の中の道を駆け抜ける。ネーヴはコートの内ポケットにしっかりと守られていた。怒り狂ったクマが背後から高速で追ってくる。
混乱と恐怖に支配された頭の中で、コナーは逃げ道を探し続けながら走った。思考は混乱し、恐怖ばかりだったが、それでも生き延びたい一心で足を動かした。
一歩一歩クマとの距離が縮まり、呼吸をするたび死の気配が迫ってくる。血潮が脈打ち、肺は焼けるように痛んだ。
足音は森の空虚に反響し、木々が次第に密集して通り道を狭め、夜の帳が静かに広がり始めた。
コナーは振り返る勇気がなかった。そこに、あの赤い瞳があるような気がして。
赤い瞳は光を探すように森を見渡し――そのとき、蔓と枝の隙間から差し込む一筋の光が目に入った。
――幅はぎりぎり、少年が通れる程度。
だが背後からクマの咆哮が響き、コナーは腐葉土とトゲに満ちた蔓をかき分けながら急いで抜け出した。片手で胸を押さえ、ネーヴを守ろうとしながら。
道の途中、木が裂けるような音が耳に響いた。
少年は歯を食いしばり、トゲに引き裂かれる肌の痛みを無視しながら必死に進んだ。クマに引きちぎられて死にたくはなかった。
やがて抜け出すと――目の前に広がっていたのは断崖だった。
コナーは全身が痺れた。あの蔓を越えてようやくたどり着いたのがここ? ただ生き延びたいだけだったはずなのに、世界は彼に「死ね」と言っているようだった。どうすればいい? クマと崖に挟まれ、逃げる道がない。
血の気が失せた。
すると気づいた――咆哮がいつの間にか消えていた。異様な静寂が周囲に満ちていた。これは…一体――
暖かな吐息が首の後ろを撫で…
「バウッ!」
次の瞬間、コナーは崖の縁すれすれに倒れ込んでいた。気づく間もなく、身体中に火がついたような痛みが襲った。
「うわああああっ!!!」
背中が燻り、骨が砕けるような激痛に襲われ、全てが痛みすぎて限界だった。感覚は鋭くなっているのに視界はぼやけ、頭は重く、息もまともにできなかった。
重い足音が近づいてきた。コナーは動きを止め、首を横に向けた。そこには“狩り”の意志を湛えたクマがいた。その赤い瞳には恐怖ではなく決意が刻まれていた。
そして気づいた――これは、俺の血だ、と。
別の意味での麻痺が彼を包み込んだ。感覚は遠く、背景に過ぎず、思考だけが残った。痛みはあるが、遠くで鳴る警鐘のようだった。嗅覚、聴覚、触覚すべてが遠ざかり、自分の思考だけが存在した。
コナーは考えた。これが「死ぬ」ということなのか――逃げようとしていた“死”に、とうとう捕まってしまったのか。やり残したこと、やりたいことは山ほどある。怒り、悲しみ、罪悪感…ありとあらゆる感情が胸に渦巻いた。
ただ、恐怖だけはなかった。
先に絡みついたクマへの恐怖は、徐々に薄れていた。残されたのは――ただ、受け入れだった。今、恐怖を抱えることなく、コナーは短剣を握りしめていた。覚悟はできていた。
そのとき、小さく白い影がクマとコナーの間に飛び込んできた。
「バウッ! バウッ! バウッ!!」
「ネーヴ…!!」
現実が一気に戻ってきた。鈍っていた感覚が一気に戻り、痛みも感情も鮮明に蘇る。
いつの間にか、彼には子犬がそばにいたことを忘れていた。ずっとそこにいたはずなのに。
ネーヴはひどく傷ついてはいなかった。パートナーを守るために身を張った結果、無事だった。もしそれが自分の命を失うリスクを伴っても、同じ選択をしただろう。
それでも――
恐怖が、痛みに変わった。小さな子犬が何度もクマに立ち向かい、体を張って守り続ける姿に、胸が張り裂けそうだった。
ネーヴは、自分の数十倍あるクマに跳びかかった。木に叩きつけられても、諦めることはなかった。何度も、何度も。
最後に木に叩きつけられて動かなくなった瞬間、コナーの胸に強烈な吐き気が込み上げた。もう一度、大切な者を失うのは耐えきれなかった。
「――いや、」少年は拳を握り、吐息を漏らした。「――いや。」
ボロボロの身体を引きずりながら起き上がった。もう誰も失いたくないと決めた。
ルビーをあしらった短剣を鞘から抜き、クマへと飛びかかった。
「うおおおおおっ!!!」
短剣はクマの片目を貫き、その衝撃で少年は吹き飛ばされた。地面に叩きつけられた。
クマの怒りの咆哮と共に激しく暴れ、苦痛に耐えきれず一つの眼を失った。残る眼には狂気と錯乱が宿っていた。
それでもコナーは立ち上がり、短剣を握り直した。クマは再び突進する。少年はその突進を待ち受けた。
「グルルルルル!!!」
強烈な一撃を頭上から振るわれたが、短剣をかわしてかわした。拳に走る痛みが衝撃を伝えたが、それでも――死ぬよりはマシだと自分に言い聞かせた。
片目を失ったことでクマの動きは鈍くなっていたが、その力は衰えていなかった。それどころか、暴力的な一撃一撃がより苛烈に感じられた。隣家の戦士がかつて言っていた言葉が蘇る。
「手強い相手とは――お前を殺す動機がある者のことだ」
祈るように呟きながらコナーは短剣を振るった。だが思考に囚われていたため、攻撃すべてが虚を切った。
その隙を突かれ、クマの一撃が少年を地面に叩きつけた。頭から硬い地面に打ち付けられ、悲鳴が喉から飛び出た。
「うぎゃああああっ!!!」
クマは執拗に少年を何度も叩きつける。その激しさは言葉を失うほどで、ただ痛みだけが空間に満ちた。奇跡的にコナーは息を続け、生きながらえていた。
身体が限界でも、コナーはあきらめなかった。崩れそうな体を引きずりながら、ネーヴへと這い寄った。喉は声を失い、視界はぼやけていたが――最後まで子犬のそばにいたかった。
クマが攻撃をやめたことに気づかなかった。Beast(奇獣)が離れていくことにも気づかなかった。ただ、ネーヴの側に辿り着くことだけを考えていた。
震える指先に温かい毛並みが触れ、その直後に高らかな遠吠えが響いた。全身の神経が疼き、痛みが少しだけ和らいだ。
その遠吠えは、冬至の夜に族人たちと共に雁行を作って踊った大きな焚火のあの日を思い起こさせた。満月の夜に家族と過ごした、あの長い夜を。
遠吠えは次第に大きく、近づいてきた。それでも少年は一切の恐れを抱かず、むしろその音に包まれて、暖かさを感じていた。
「…ああ…」
心の中で思った。
「…ここなら… 安全だ…」
最後にコナーの視界に映ったのは、白いケープが大きく翻り、鋭い金属が瞬き、優しい声が約束を告げた。
「休め。俺がお前を守る。」
ぜひレビューをお願いします!どんなレビューでも、書き続けたり正確に翻訳したりするための参考になるので助かります。まだ学んでいる途中なので、よろしくお願いします。