夜想曲を君に
【夜想曲を君に】
慌ただしかった引っ越しも、荷物の搬出が終わり、後は佳織自身と手荷物が移動するだけ。
「一緒に持って行ってもらえば良かったかな?」
少々荷物になるジュエリーボックスだが、大切な思い出の品。他の物と同列に扱うことができなかった。
引っ越しの段ボール箱に入れずに、自分で故郷まで運びたかった。
「やっぱり自分で運びたいよね。」
そう手の中の宝石箱に独りごちて、厚手で丈夫そうな白い紙袋に丁寧に入れた。
ドアを開けると外はもう日が傾いて空にはオレンジ・ピンク・くすんだ水色のグラデーション。
最寄り駅から電車に乗るつもりだったが、一駅歩いて最後にお気に入りの公園で少し夕日を見てからにしようと決めて歩き出す。
賑やかな吉祥寺駅を通り過ぎ、井の頭公園へ向かう。
落ち葉を踏みしめて少し歩くと井の頭池。畔のベンチに腰かけた。
夕暮れ時の秋風は冷たく、そこかしこで風は落ち葉を弄んでいた。
しばらく夕焼けに輝く池をじっと眺めていたが、ふと物寂しくなって、膝の上の紙袋から宝石箱を出した。
佳織は宝石箱の蓋を撫でる。そこには寄木細工風の幾何学模様で装飾されている。
蓋を開けるのを少し躊躇うように佳織は宝石箱を眺めた。
「ガーガー!」と鳴きながらカルガモが池に滑り込んだ。
鳴き声とは対照的に優雅につがいで泳いでいく。
感傷的な気持ちをカルガモに持っていかれた佳織は、思わず微笑んで宝石箱の蓋を開ける。カランと小さな金属音。金色のシリンダーがゆっくりと櫛歯を弾きメロディーを空気に放ってゆく。
宝石箱に仕込まれたオルゴールは躊躇うことなく思い出の曲を奏でる。
あの日と同じショパンの《ノクターン第2番》。
思い出の中の透は穏やかに笑っている。
「そうだったね。そうやって笑う人だった。今思い出したよ。透。」
闘病中の透は笑わなかった。頬はこけ、顔色はどんどん悪くなっていった。
口数も減り、佳織には謝ってばかりだった。
最期の一カ月、透と佳織は泣いてばかりだった。
透が自分の死後のことばかり佳織に言うから、佳織は泣きながら怒る、その繰り返しだった。
中でも「自分が死んだら、また恋して良い人と結婚して幸せになることを諦めないでほしい」という言葉は、その時の佳織を酷く傷つけた。
「なんでそんな!そんな他人事みたいなこと言うの!私達、夫婦じゃない!生きて一緒に幸せになるんでしょ!諦めてるのは誰よ!」
佳織の言葉に透は、そうだね、と力なく返した。
痩せこけた透の最期の微笑みだった。
オルゴールのノクターンは元気な頃の透を思い出させてくれた。
5年前の4月。一色海岸でのプロポーズ。
不器用な透なりに佳織のことを考えてくれた気持ちが温かかった。
夕食後、海岸を歩いた。
駐車場に戻った透は、急に走り出し、車に乗り込もうとする佳織に、ちょっと待ってと、車から取り出した木箱を一つ手渡した。
「開けてみて。」
箱の蓋を開けるとオルゴールはショパンの《ノクターン第2番》を奏で始める。
オルゴールが仕込まれたその宝石箱には指輪が一つ入っていた。
プラチナのエタニティリング。ぐるりと指輪に埋め込まれたダイヤモンドが月光に照らされ柔らかな輝きを放っていた。
「つまり!その…、僕と結婚してください!」
透はまっすぐに佳織を見つめて言った。
その瞳に射貫かれ佳織の時間は止まった。
オルゴールが鳴りやむ。
佳織は気持ちを整えるように小さく深く呼吸をして「はい…」とだけ答えた。
平凡な私たちの平凡な、だけど特別なプロポーズ。
そして平凡な毎日が続くはず。
二人ともそう信じていた。
今、ノクターンを奏でるオルゴールの横には、あの時の婚約指輪、そして透の結婚指輪。
夕日に照らされてオレンジ色に輝くエタニティリング。
涙で余計に輝いて見えた。
オルゴールはノクターンを奏でるのを止めてしまった。
我に返った佳織は溢れる涙を拭って指先で弾き飛ばした。
「あー、お腹すいたな!駅前でコロッケでも買うんだった!」
ジュエリーボックスを元の紙袋に戻すと、立ち上がった佳織は両手を上げて伸びをする。
木のベンチに座っていたので手を添えて腰も伸ばす。
今夜は何を食べようか、今日ぐらいはお母さんに甘えてもいいかな、そんなことを考えながら、佳織はベンチから鞄を拾い上げた。
ふぅ、と一呼吸おいてから、白い紙袋を抱えると、オルゴール宝石箱の蓋に似た色とりどりの落ち葉の上を軽やかに歩いて行った。
井の頭公園駅まで歩くと、まだ少し明るいが空は夜の色をしていた。
電車の中、車窓から過行く夜の街を見送った。
佳織はまたショパンのノクターンを聴きたくなった。
オルゴール宝石箱は紙袋の中。
胸にぎゅっと抱え込んで、聴いたことにした。
渋谷駅で二度目の乗り換え。後は実家の最寄り駅、鎌倉まで一本で行ける。
シートに座り、ホッとした佳織は目を閉じた。
引っ越しの疲れと、少し泣いたので目が重い。
鞄と紙袋を抱えて背中を丸める。
自分のつま先が目に入った佳織は、しばしぼんやりして、気を取り直したように姿勢を正す。
シートに深く座り、前を向く。
夜景が流れていく車窓と、少し腫れぼったい目をした自分が写った窓ガラス。
窓ガラスを鏡代わりに口元だけ笑ってみる。
少し瘦せた頬がほんの少し動いたが、ちっとも笑っているように見えない。
それが逆におかしくて笑った。
笑えた自分に安心したら胃袋がぐぅと音を立てて食事を催促する。
実家まで後少し。
帰れば母が手料理をたくさん食べさせてくれる。
賑やかな食卓がそこにはある。
来週からは新しい職場での仕事が始まる。
続いていく暮らしがある。
生きている佳織の現実は「今」の連続。
時間は流れゆく。
一秒ごとに過去は過去らしい顔をして遠い記憶になってゆく。
佳織は左手をかざして薬指を見た。
これもいつかは外すんだろうか、そう思うと、嫌だと拒絶する気持ちと現実的な考えとが自分の中で衝突するのを感じた。
「今はまだいいよね?」
オルゴール宝石箱をそっと抱きしめて佳織は呟いた。
だから後少し。あと少しだけ、心の中は夜想曲。
君と誓った未来を想うノクターン。
泣かずにあなたを想える日まで、明日からは、もう蓋を開けないから。