8 疫病と、貧困街の謎
これは……相当ひどいな。
市場には腐敗匂が漂い、病人の吐いた吐瀉物を人々は平気な顔で踏みつけて歩いている。
普通の居住地であっても、どこも強烈な家畜の糞の匂いを放つ。
病人は倒れ込み、蠅のたかっている明らかな死人もそのまままに……
俺が今、外を歩いているのには訳がある。
医務室を出た足で資料室へ行き、あらかたの情報を読みこんだのだが……
目下の問題である疫病は予想以上に根深かった。
医学は未だに迷信の域を脱せていないし、衛生も最悪だし。
手洗いうがいはおろか、服を洗うのは半年に一度とかそういうレベルだ。
ただ、先ほど少し話題に上がった、貧困街への支援打ち切りの話で。
資料を読み込むにこれは、貧困街で疫病がほとんど収まっていることを根拠にしているらしい。
しかし貧困街ゆえに、西区は唯一医者が存在しない区画だという。
医者も居なければ、住民も貧しい。なのに疫病が広まってない。
これは明らかに謎だ。
手掛かりがあるとすれば、そこだろう。
俺は市場を抜けて西区へと足を踏み入れる。
相変わらず異臭の漂う道が続くが、もしかしたら西区は何らかの理由でめちゃめちゃ綺麗かもしれないし……
なんていう希望的観測を、目の前の光景に粉々に打ち砕かれた。
……老人が、公衆の面前でイチモツを露出している。
所々歯の抜けた、不潔な服を着た老人は井戸の上に立ち、じょぼじょぼと豪快に音を立てて放尿を始める。
……井戸に?
これは貧困だとか、衛生観念がどうとか、そう言うレベルの話じゃない。
樹木みたいな髪質を持つあの種族は……樹命族とか言ったか?
そういえば報告書では、樹命族の人は罹患率が低いことから、街の一部では樹命族こそ黒幕だとして迫害に合っているとかなんとか……
「あぁっ! お、おいジジイ、また井戸にしょんべんなんかしやがって! て、てめぇ待てコラ! 逃げんじゃねぇ!」
すっきりした様子でその場を離れようとする老人に、通りの向こうにいた小鬼が大声を上げた。
驚いた老人はその姿に似合わない健脚で逃げて行く。
「おい、だから逃げんなコラ! 待て、待て……!」
小さな小鬼の足では追いつけなかったらしい。
小鬼が井戸の傍に来たころには、老人は既に姿を消していた。
……どういう事なんだ、これは。
「――――ああ、薬屋のところのジジイな。疫病が広がりはじめたころからボケ始めやがって……ほんっとに迷惑なんだよな。ずっとあの井戸から水を汲んでたんだけどなぁ」
息を整えながら答えるのは、片方の角の折れた小鬼族の男。
尋ねると、貧乏ゆすりをしながらそう答えてくれた。
「常習犯なんですか、あれ。なら、今はどこで水を?」
「ちょっと先の方まで行って汲んでんだよ。なんか最初は、薬屋の近くの北区の方の井戸にも粗相してたらしいけどよ、一回北区自警団に捕まって痛い目にあったみてーでな。ざまあねぇ。それ以降、西区でしかしてねーみたいだぜ」
じゃあ西区でも取り締まれよ、迷惑なんだから。
そう思うものの、口には出さずに小鬼の言葉の続きを待つ。
「あそこの薬屋ぁ、受付のシャノンはまともなんだがなぁ……あそこの茶葉は辺りじゃ評判だし。あのジジイ、完全に頭イっちまってるから話通じねーんだろうな」
詳しく聞くと、井戸への小便はここ最近しだした事らしい。
丁度流行り病がここら一帯で広がりつつあった頃。
老人は病気で頭がおかしくなったんじゃないか、と言われてるとか。
話が通じないレベルのボケなら、何をやってもしょうがない気はするが……
「というかおめー大丈夫か? 足、怪我でもしてんのか?」
別れ際、小鬼族の男は屈んで、俺の足をぺしぺしと軽くたたきながらそう言った。
何を言っているのか一瞬理解できなかったが、どうやら俺の体の使いかたが変だと言いたいらしい。
天界にいたころの感覚で歩こうとすると、色々とぎくしゃくしてしまう。
「あぁいえ、これは……怪我が治ったばかり、みたいな感じで……」
そう言おうとして、小鬼族が自然と反対側のポケットに手を突っ込んでいることに気づく。
「……何も盗むものは持ってませんよ」
俺が言うと、小鬼族はびっくりしたように後ずさり。
「チッ、そのなりして貧乏人かよ」
そう吐き捨てて逃げていってしまった。
……なんなんだ、ここは。
下界ってのはこんなに酷いところなのか?
重力は重いし、歩くのはとんでもなく疲れるし。
井戸に小便するジジイもいるし、話をすればスリに合うし、疫病のせいで匂いも最悪だし……
……あれ。
そう考えると、西区に来てからは死体の腐敗匂なんかは随分マシになったな。
これは……なんでなんだ?
そういえば西区に来てから、明確に道端に倒れている病人を見なくなったが……




