範疇を超えた
ダンジョンでは時折、魔物が異常発生することがある。
——〈魔物異常発生〉。
一度発生するとその階層に出現する魔物の数は平常時と比べておよそ七、八倍に膨れ上がる。
ダンジョン内で起こる災害の一つであり、放置すると〈ゲート〉を超えて暴れ回られる危険性もある厄介な現象だ。
「——聖凪、撤退するぞ! 殿は俺が務める!」
「了解」
色々と不可解な点はあるが、まずは逃げることが先決だ。
いくら上層の魔物といえど、大群になって迫られでもしたら一溜まりもない。
即座に駆け出し、走りながら状況を確認する。
「千里、なんで〈魔物異常発生〉が起きてる!?」
本来であれば、この現象が起こると言われているのは中層からのはずだ。
それにボスフロアで通常の魔物が出現することも異常だ。
返ってきた答えは、案の定というべきものだった。
『配信者だよ! 視聴数目的で人為的に〈魔物異常発生〉を起こしてたみたい!」
「チッ……やっぱりそんなところだったか」
驚きはないが、苛立ちは覚える。
そいつの身勝手に振り回されることに。
その脅威から逃げることしかできない自分自身に。
「二人ともごめん。私が予めリアルタイムでダンジョンの情報を拾っておけばこんなことには……!』
「千里が謝ることじゃない。全面的に悪いのは、その馬鹿だから」
『聖凪ちゃん……』
「聖凪の言う通りだ。だから気にすんな。それより千里は逃走ルートの選定を頼む。それと音声だけで良いからその配信者の配信を繋げてくれ。悔やむのもしょげるのもその後だ」
『……うん、ちょっと待ってて!』
千里が気を取り直してから少しして、件の配信音声が流れてくる。
『ひゃははは!! 情けねえな、この程度の雑魚モンスに怯えて逃げ惑うなんてダセえ、ダッセえなあ! それでも探索者かよ! ビビってねえで戦えよ猿ども!』
煽り立てるような声に思わず顔が歪む。
「コイツ、なかなか良い趣味してんな……!」
『王牙龍一、最近話題の迷惑系配信者だよ。単独で下層に潜れるくらい実力はあるんだけど、いつも過激で危険な配信ばかりするせいでちょっと前までアカウントを凍結されてたみたい。この様子だと凍結は解除されたみたいだけど……復帰早々またやらかしたみたいだね』
「やり過ぎだろ。迷惑行為っていうか、もはや犯罪に思いっきし足突っ込んでんじゃねえかよ」
テロリスト予備軍って言った方がまだ正しいぞ。
少なくとも、もう迷惑系の一言で片付けていい範疇じゃないことは確かだ。
『流石にLCOもダンジョン特殊部隊を派遣して事態の鎮圧に動き出したみたい。たった今、中央統制支援室から通達がきた』
「中央統制室から……ってことは、ガチめに緊迫した状況ってわけか」
ダンジョンで起こっている出来事は、中央統制支援室と呼ばれる機関に収集され、オペレーターはそこと接続することで相互で情報のやり取りが可能だという。
だとしても、向こうからわざわざ通達を寄越すってよっぽどだぞ。
『だから、磨央と聖凪ちゃんはここから抜け出すことを第一に動いて』
「分かった。とりあえず来た道そのまま戻ってるけど問題ないか?」
『うん、大丈夫。ルート変更する場合は私から指示を出すよ』
「頼む!」
それから千里の指示に従いながら暫く走れば、そこそこ開けた空間——最初にハウンド三匹と戦った場所——まで辿り着いた。
近くに魔物の気配は感じられず、レーダー上の反応もない。
とりあえずここまで来れば、ひとまずは安心だろう。
「千里、向こうの状況はどうなってる?」
『変わらない……ううん、それどころかさっきよりも悪くなってる。どんどん魔物の数は増えてきてるし、〈魔物異常発生〉はまだまだ収まりそうにないかも』
「となると、やっぱダンジョンの外に出るまでは安心できねえか。特殊部隊がこっち来るまであとどれくらいかかりそうだ?」
『まだ結構かかりそう。ダンジョン特殊部隊が配置されているのって霞ヶ関だから』
「そうか」
まあ、どっちみち俺らがやれるのは、一刻も早くダンジョンを抜け出すことだけ。
後の諸々は専門家に任せるのが正解だ。
結論づけ、移動を再開しようとした時だった。
「誰か……誰か助けてくれ!!」
後ろで誰かが叫んだ。
聞き覚えのある声だった。
すぐに振り返る。
通路から現れたのは——俺と同じ黒の戦闘服。
しかし、激しい戦闘に巻き込まれたか大分ボロボロになっていた。
「お前は……白石か」
「……ゆ、幸守。それと普通科の——」
一切の余裕のない必死な形相。
いつも俺に向ける嘲る軽薄な笑みはなくなっている。
それどころか俺らに気づくや否や、縋るように両膝を地面につかせた。
「一生のお願いだ。発田と中島を助けてくれ! このままじゃ、あいつら二人とも死んじまう!」
「発田と中島が……?」
「そうだ。ボスフロアの方で王牙って配信者が〈魔物異常発生〉を起こしやがったんだ! 近くにいた俺らはそれに巻き込まれて……それで、助けを呼べって俺だけ逃して、あいつらは今も魔物の大群と……!!」
嘘をついているようには見えない。
とはいえ、
「……千里」
『その人の言っていることは本当だよ。さっきカメラに映っていたのが確認できた。多分、今も戦っていると思う』
「お前に頼むのは虫が良いのは分かっている。でも、今は猫の手でも借り——」
しかし、言いきるよりも先に、
「——全く、反吐が出る」
冷え切った瞳が白石をぎろりと睨む。
聖凪が背筋が凍るような声でぴしゃりと遮った。